見出し画像

哲学を “する”


わたしと哲学の出会いは、中学時代に遡る。


学年集会みたいな場だったと思う。卒業式を間近に控えた3月の体育館には、パイプ椅子がずらりと並んでいた。右隣に座るインドネシア人の子に、ふいに尋ねられた。
「いのち、ってどういう意味?」
わたしと、左隣に座っていた学級委員の子は必死に考えた。heartではない、lifeとも違う。中学生レベルの語彙力では正確に『命』を表す言葉が見つからなくて、結局会話は曖昧なままに終わった。
あれから10年近くが経った今も、結局答えは出ていない。日本語ですら説明できそうにない。

そのころ通っていた塾で、とある人が言っていた。
「あの先生は、大学で哲学を勉強していたんだよ」
お調子者の男子が「哲学ってなに?」と問うと、
「なんのために生きるかとか、そういうこと」
という答えが返ってきた。子供心に、シンプルに『おもしろそう』という感情が湧いた。同時に「いのちってなに?」という問いは、もしかしたら哲学の問題なのかもしれない、と思った。


ときは2024年。
つい先日こんなことを言われた。

「本当に、理系脳だよね」

そもそも理系脳とか文系脳とかで分別するのはちょっとな、とは思うのだけど、ひとまずそれは置いておいて。その時わたしは真っ先に『ちがう』と思った。
どちらかと言うとわたしは文系寄りだと思っていたからだ。

理系は硬く、文系は柔らかい。
そんなぼんやりとしたイメージがある。

そして、わたしは柔らかい学問が好きだった。
バリバリに理系と呼ばれる学部に入った人間が言うことではないかもしれないが、とにかく、柔らかいものが好きなのだ。具体的に言うならば「なぜ?」と考えることが好き。たとえば風邪薬ひとつでも、なぜ効くのか、どういう作用で効くのか、そもそもどういう体の仕組みで風邪を引くのか、とか。そういうことを永遠に考えている。

大学の学びに限った話ではない。母はわたしのことを「あなたは考える人だから」と言う。「よく考えるのに、結果的によく分からない所に行き着くよね」という発言は一旦考えないでおくとして、常日頃からあれこれ考えているのは間違いない。
最近のトピックは専ら「大人になるってどういうこと?」と「恋愛ってなに?」のふたつ。親しい友人を呑みに誘っては、自分の考えを話した上で意見を聞く。これがかなり面白かったりする。


そんな折に、『水中の哲学者たち』という本に出会った。哲学者の永井玲衣さんが書くエッセイ集で、そんじょそこらの哲学書とは比較できないほど読みやすい。

本の中には、こんな一節がある。

哲学は意外とシンプルである。哲学とは、「なんで? と問うこと」だからだ。だから、学問というよりは、行為や営みと表現したほうがいいかもしれない。

『水中の哲学者たち/永井玲衣』 より


薬学部を選んだことについて、ずっも違和感を持っていた。わたしは10歳のとき二分の一成人式にて「薬剤師になりたい」と言ったぐらいなので、薬学部に入ることは長年抱いていた夢ではあるのだけど、それでも妙な違和感があった。

経済学、倫理学、歴史、生物、化学、心理学、文学。
学びたいことは薬学の他にもたくさんあった。哲学も、その内のひとつだ。
私にとって『学ぶ』とは、即ち学校に行くことだった。学校に行って教科書を開く。先生の講義を聞いて、形ばかりの発言をして、講義が終わる時間になって、復習と課題をこなし、次回の予習をする。そんなサイクルを回すことで初めて “ちゃんとした” 学びになると思っていた。

しかし、この本に出会って『学ぶ』ことの幅が広がったような気がする。
学問は学ぶことであると同時に、問うことでもある。学校に行ったり師をつくることで吸収し続けることも重要だけど、それと同時に、いやむしろそれよりも、問うことが欠かせない。

問うことためには、なにも学校に行く必要はない。
『問い』は日常に溢れている。なぜお風呂に入るのは怠いのか、なぜテスト期間には部屋が片付くのか、なぜ寝起きの日差しはあんなにも気持ちいいのか。

そして、哲学は『問うこと』を歓迎している。
言い換えれば、誰にだって哲学を “する” ことができる。


でも、分からないことについて永遠と考えるのは果てしなく、答えが出ないのは酷くおそろしい。哲学は誰にでも出来る、と言いたい訳ではない。わたしは確実に、哲学者にはなれないだろう。

世界は分からないことだらけだ。
あれも分からない、これも分からない。もう何もかも分からない。マーブル模様のパウンドケーキみたいに、頭の中はどろどろとしている。
分からないことについて考えるのは怖い。でも、それより怖いのは分からないことを知ることだ。
固い言い方をすると、分からないと認知すること。自覚を持つこと。
だって、知らないでいる方がラクだから。
思考を放棄して、見ないふりをする方が何倍もラクだ。答えがないのなら考える必要なんてない、と主張する人も、ひょっとしたらいるのかもしれない。

でも私は、恐ろしさを投げ出したくはない。
分からないことを「分からないから」「人それぞれだから」「そういうものだから」のままにポイ捨てしたくない。そっと拾い上げて、じっくり考えて、自分なりのことばを投げかけてみたい。



ずっと、哲学に触れてみたかった。
哲学は学ぶものであると同時に “する” ものだと知った。

わたしは哲学をやり続けてきた。
そしてこれからも、おそらくずっと、哲学をし続けるのだろう。




💌お便り💌

🔖Instagram🔖

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?