Fォr9

市場の夜勤従事者の雑記です。考えたことをどんどんメモしていくような形式にしました。

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最近の記事

5/5の夢

二重の夢をみた、家族で食卓を囲んでいた、そのなかに妹がいた。色々話したけど、妹の名前が思い出せなかった。ぼくは目覚めて、キッチンにいた母親に、あれ?妹は仕事?ときいたら「妹は小さいとき亡くなったじゃない」と言われた。え?あれ?となって再び目覚めた。ひとりぼっちの部屋なのに、妹なんて初めからいなかったって気づくまでに時間がかかった。

    • 5/4

      矛盾とは、共存なんだ。自己矛盾とは、自己共存なんだ。 従って自己は、奔放な自然であり、統一化された社会だ。 心は、何百もの窓を装った鏡と、何百もの鏡を装った窓でぎっしり埋め尽くされた、部屋だ。 時々窓の外側から、人影がこちらを見つめているのが見える。でも彼はたぶん、鏡に写る自分を見ている。

      • 500年後のぼくたちへ

        写真。どれだけ再現技術が進歩しても、写真というメディア自体は、恒久的に残りつづけるだろう。でも、それはぼくにとっては不気味な話なんだ。 ぼくたちは、古ぼけた写真や、白黒のいかにも歴史を感じさせる写真を見れば、それがある程度昔に撮影されたものであることがわかる。あるいは服装や景色から、なんとなく過去であることを推察することができる。 しかし、今撮られている写真は、あまりにも鮮明すぎるし、「ホンモノ」を紙に転写したような形だ。それに加え、画像としてネットワーク上に保存されたも

        • 5/2(2)

          このひとは、すぐに消えてしまいそう、という不安は、このひとは、自分がふっと消えてもすぐに忘れられてしまいそう、という不安でもある。

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        • 日記
          2本

        記事

          5/2

          ぼくたちは、自らの心を支配しようとして、自らの心に支配されるのだ。

          5/1(2)

          永遠を望むような瞬間、たとえば、ここでずっとこうしていたい、と感じるには、その後にやらねばならない事や、いずれは退屈してしまう、という現実の存在が不可欠であること。 ぼくたちは否が応でもそれを認識しているからこそ、しばし永遠に想いを馳せるのである。 現実は、夢見るひとにとって、優れた薬味であり続ける。

          5/1

          いつか、星を発見するようにして死を観測しうる時が来るのだろう。 自身の空漠たる闇の中に、ふと恒星のごとき終止符(ピリオド)を見つけるのだ。

          4/30(2)

          ぼくたちは、永遠そのものを夢見ているのではなく、永遠に取り憑く淋しさや心細さに、魅せられているだけだ。

          4/30

          ぼくたちは永遠、果てしない時間というものを思い描くことができない。果てしない時間を思うには、果てしない時間が要るからだ。 一方、死、『時間の果て』を思い描くことについては、もはや死を必要としない。むしろ死こそが、思い描くための時間を妨げるのである。 死と永遠、それはどちらも同じように、現実に体感することが限りなく難しいものであるにもかかわらず、全く相反する特性をもっている。

          4/29

          ぼくは、老いた自分が、薄暗い部屋のベッドの上で、孤独死している姿をたびたび想像する。 心には、樹木や、懐かしい街と同様に、自身の墓場というものが存在する。 墓場、即ち「死」という地点から逆算して人生を歩むとき、「死」はさほど恐怖の対象でなくなる。 それゆえ、ぼくは墓場を必要とする。

          ゆっくり廻る、ゆっくり歩く

          ぼくは、最近眠りから覚めたときに、自分を一瞬思い出せなくなる。自分を、忘れるのだ。 自分を忘れる、とはどういうことか。 ぼくは7年間、夜勤ではたらいていて、起きるのは決まって夜であるはず、それを現在まで繰りかえしてきたはずなのに、目が覚めた瞬間、「ん、、もう朝、、、?」などと、世間は夜なのに、いまは朝である、と錯覚してしまうんだ。 そのあとにぼんやり考えることはいつも異なっていて、「今日は部活?」「あれ?今日はシフト入ってたんだっけ」と前職や、学生時代や、アルバイトのこと

          ゆっくり廻る、ゆっくり歩く

          2020/01

          ぼくは今、病状が悪化して、一日のほとんどを横になって、毛布を頭までかぶって過ごしている。横になっていないときは、仕事に行っている。早い話、仕事しているか寝ているかのどちらかだ。 仕事は、行くための準備をするのは億劫だし、できれば、目覚めるということすらしたくないのだけれど、行ってしまえばやることは決まっていて、淡々と職務をこなせばいいのであって、部屋で縮こまっている時ほど辛くはなかった。 心が弱っているときは大抵、悪いことしか考えられない。現場の仕事は、ぼくから考えなくても

          11月 パプリカのサンドイッチ

          きょうは二ついいことがあった。 ひとつは、自分の数少ない友人が自分のレシピをおいしいと言ってくれたこと。 もうひとつは、実家に帰った際に母親に料理をふるまったのだけど、やっぱりおいしいと言ってくれたこと。 ぼくは、何をつくってもいつも不安だった、ぼくの世界には、ほとんど自分しかいない。自分だけが知っている「良さ」みたいなのがあって、はたして他人はどう感じるのか、独りよがりの人生でいいのか、などとぼくは自問自答しがちだった。もちろん、固有の感覚なんて、伝わらないことのほうが

          11月 パプリカのサンドイッチ

          10月 〈ダリアのパレット〉

          ダリアの絵をかいたあとのパレットをみたら、色がとてもきれいだった、それで思い出したこと。 むかし、美大受験をめざして入った絵画予備校で、講師に「(絵より)パレットのほうがきれいだね」と、よく言われた。これは生徒の心をへし折るための常套句のようなもので、ぼくだけではなく、誰もがそんな言葉を浴びせられてこの世の終わりのような顔をしていた。「クサるだけクサれ」が講師の口癖だった。受験というのは競争で、バトルロイヤルで、絵画教室とは違う。生徒のいいところを伸ばしても、「受かる」絵でな

          10月 〈ダリアのパレット〉

          4月〈間違ったこと〉

          長い三日間だった。 症状が起こったのは金曜の仕事から帰ったあとだった。すぐに体から一切の水分をなくしてしまったぼくは腹痛に苦しんで、水面に浮かべた蟻のようにベッドの上をのたうちまわっていた。 翌日の出勤の1時間前になるまでその状態は続き、まったく眠ることもできず、ああ、これはさすがに無理だ、休もう、と親方に電話をかけたつもりだった。が、ぼくの口から出てきた言葉は「こういう状態で動けないのでちょっと遅れます、ラクになったらすぐ行きます」というものだった。どうしてそうなるのか、自

          4月〈間違ったこと〉

          2月 〈「何になる」という声〉

          ここ2、3日のうちに書いておいた今月の総括としての日記があったのだけど、2月最終日にしてとてもとても良いことがあったので、良いほうに差し替えておく。 今日、現場での作業を終えたのち、事務所にあがるとすぐさま社長に呼ばれた。いよいよ親方に昇格かな? だとしたら嬉しいけど、ようやく好きなことに打ち込みはじめたところなのにな、せめてもうちょっとだけ猶予が欲しかったな、と気持ちの整理をつける間もなく応接室の社長の真向いに座った。で、一瞬のうちに生まれた憂慮は、一瞬のうちに吹き飛んだ

          2月 〈「何になる」という声〉