2020/01

ぼくは今、病状が悪化して、一日のほとんどを横になって、毛布を頭までかぶって過ごしている。横になっていないときは、仕事に行っている。早い話、仕事しているか寝ているかのどちらかだ。

仕事は、行くための準備をするのは億劫だし、できれば、目覚めるということすらしたくないのだけれど、行ってしまえばやることは決まっていて、淡々と職務をこなせばいいのであって、部屋で縮こまっている時ほど辛くはなかった。
心が弱っているときは大抵、悪いことしか考えられない。現場の仕事は、ぼくから考えなくてもいいことを考える時間を奪ってくれる。そういう意味では、その日の仕事が多忙であれば多忙であるほど、ぼくの苦痛はやわらいだ。

ただ、仕事中は、考えないことで救われるのに、毛布の中ではどうにも同じように救われない。そこでは、考えることも、考えないことも、同じように苦痛なのである。そしてぼくは考え始める。そもそも、ぼくが苦痛と呼んでいるものはなにか。

以前なら感動できていたことに、何も感動できない、関心すら抱けないという苦痛。やらなきゃいけないことがあると自覚しているのに、そのための情熱が湧いてこないという苦痛。周囲の人間はもっと世の中の色んなことに注意を払って生きているのに、自分だけが、自分のことしか考えられない状態であるという恥ずかしさによる苦痛。そんな姿のままひとに相対したくなくて、他者を遠ざけるようになる、独りになろうとする、その後ろめたさによる苦痛。そして、人生で何度となく繰り返してきたそれを、自分の殻に閉じこもるという行為を、またやってしまった、という数多の後悔とともに押し寄せる苦痛。

たぶんぼくにとって苦痛とは、自分自身への失望によるもの。理想とは程遠い自分の姿を、目に入れたくない、(他者から認識されるものとして)自分で認識したくない、とか、そういう感情からくるものが大半なのだと思う。

そういう意味では、ぼくはよくできた時の自分、自分で満足できた瞬間の自分だけを自分と呼んでいる気がする。それはエゴなのか、虚栄心なのか、そうだとして、それがいいものなのか悪いものなのか。
ぼくは、人生に掲げる大きな夢や、目標や、それによって得られる報酬への興味もないくせに、いつも理想の姿だけを本来の自分、としたがるような、そうでないと気が済まないような、そんなきらいがある。正確には、病気の要因を考えるうちに、あったのだと思い知った。

けど、理想の自分を設定すること自体は、何も特別なことではないと思う。ありのままの自分を好きでいられるなら、あえて理想など追い求める必要はないけれど、そうでないなら、何とか少しでも自分を好きになれるように、工夫して生きていくということ。それ自体は、たとえエゴであろうと何だろうと、少しでも前向きに生きるための正しい姿勢、のような気がする。

だから、理想そのものをぼくは否定したくない。理想のために無理をしているとも思いたくない。ぼくの身に起こっているのは、理想と現実のギャップからくる苦しみではなく、理想を追っていくなかで突如発生した、言わば突発的な「捻れ」のように思う。

ある理想を設定して、そこに自分を近づけていけば、満たされるし、自分自身を認めることもできる。自分というよくわからないものを宿題のように他者へ提出することができる。すれば、自分でいられる。でももし、しなかったら。

しなかったらどうなるのか、ぼくは疑って、その気持ちが大きくなりすぎてしまったように思う。理想と呼べるものだけが、ひとりの人間として誇ってよい自分自身なのか。そしてそれを考えるうちに、不安要素として抱えるうちに、「したいこと」は「しなくてはならないこと」になって、それが本当にしたいことなのかどうなのか、いちいち訝しむようになって、何かをすることによって得られる純粋な感動や、心の震えみたいなものが自分の中から段々と失せていった。

ように思う。

長々と書いてはみたけれど、すべては仮定に過ぎない。何かを考えだせば、すぐ悪いことを考えてしまうのだけど、自分が無気力のスパイラルから抜け出すためには、結局悪いことのツギハギを整理して、なんとか突破口をつかまなければならない。なぜなら、うつを治したい。それが今思いつく唯一のしたいことだから。

具体的になにをすればわからないけれど、それでも考えごとを整理して文章にするということは、ただ考えているよりも具体的で、ただ腐っているよりもずっといい。はず。
はずなんだ。

他になにも思いつかないから、そう信じることから始めてゆきたい。