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11月 パプリカのサンドイッチ

きょうは二ついいことがあった。
ひとつは、自分の数少ない友人が自分のレシピをおいしいと言ってくれたこと。
もうひとつは、実家に帰った際に母親に料理をふるまったのだけど、やっぱりおいしいと言ってくれたこと。

ぼくは、何をつくってもいつも不安だった、ぼくの世界には、ほとんど自分しかいない。自分だけが知っている「良さ」みたいなのがあって、はたして他人はどう感じるのか、独りよがりの人生でいいのか、などとぼくは自問自答しがちだった。もちろん、固有の感覚なんて、伝わらないことのほうが多いのだろうと思う。けど、問題はそこじゃなくて、それを確かめさせてくれる他人自体が、ぼくの世界には不足していた。
だけどふたりは、居るには居る、ことを教えてくれた。ほんとうに感謝したい。

だけど今日は、良いことづくめではなかった。
母親に暖かい毛布を用意してもらって、実家のベッドで安心して眠ろうとしたとき、あることに気がついた。家に薬を忘れてきてしまったのだ。
それから、しばらく「寝ること」と戦っていた。眠ろう、眠ろうとするほどまぶたの中を閃光が跳ねまわる。やっとの想いで意識がおち、目が覚めて時計をふと見ると、時間が1時間半しか経っていなかった。

そして再度眠ろうとしてもうまくゆかない。どうしようもなく苦しくなって、ぼくはサンドイッチのレシピの絵を描くことにした。すると、そこに母親が入ってきた。「寝たはずじゃなかったの」と言われて、ぼくははじめて本当のことを打ち明けた。

うつ病にかかっていること、眠るために薬をたくさん飲んでいること、絵と料理と仕事以外はなにも手につかないこと。母親は「そんなことが」と言ったあとしばらく黙りこんでしまって、「ごめん、心配かけて、ただ薬を忘れただけだから」とぼくは再びサンドイッチの絵にとりかかった。
夕食時はあたりさわりのない話をした。

仕事に行くために駅で別れたあと、母親からラインがきた。そこにはこう書かれていた。

疲れて こちらに数日間いたい なんて気持ちがあったら
また連絡ちょーだいね😉


感覚を共有することは人生におけるたしかな喜びだと思う。だからこそ、感覚を共有しやすいものにひとは集まる。そして、共有しにくいものを共有できたと思えるとき、その関係に特別な価値がうまれるのだ。
けど、うつ病という感覚、まぶたを閃光が跳ねまわるような感覚は共有できないし、共有するわけにもいかない、けどぼくは、先ほどの母のラインを見て、たしかな感覚の共有を感じた。

血が繋がっているということ。
その感覚はほの暗く、暖かかった。

追記: 今日の月がきれいという感覚を共有できたひともいた。ありがとう。