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ステイン

 ドアを閉めて内側から鍵を掛けると、1k6畳の中に滞留している空気が、僅かに入り込んできた外気と混ざり合う。
 外の気温は0度。部屋の中は20度前後。彼は電気を付けて、まずは買ってきた発泡酒を冷蔵庫に入れ、パソコンを起動させる。小雨で僅かに湿気を含んだコートはハンガーに掛けられた。

「ただいま」

 彼がリモコンを手に取り電源を入れると、短い電子音の後にエアコンから吹き始めた風が、しんと冷えた壁に染みこみはじめた。ぬるい風と彼の溜息が混じり合って留まる。溜息を吐き出すのと同時に強張っていた彼の肩から力が抜け、硬くなっていた足の裏が絨毯に馴染み始める。彼は今すぐ横になりたい欲求から逃れるように洗面所へ向かった。
 蛇口を捻り、お湯になる前の真水に指先を浸す。泡を付け爪の間や指の股などを洗っている間に段々とお湯へ変わってきて、再び指先を浸すと流れるてい流体は同じものなのに、彼はさっきよりも感触がやわらかくなったように感じた。
 そのまま顔を洗い、タオルで拭うと彼は洗面所を後にする。
 パソコンのロック画面にパスワードが入力される。ホーム画面が表示され。インターネットに繋がり、ユーチューブから音楽が流れる。
 囁くような声と少し寂しげな弦の音を聞きながら、彼はゆっくりとシャツのボタンを外し、ベルトを緩めて、寝間着に着替えていく。いつもの彼ならば、シャワーを浴びた後に着替えるのだが、今日は一刻も早く、自分をオフモードに切り替えたかったのだろう。
 二度寝前の毛布のような柔らかさの寝間着に包まれた彼は冷蔵庫から取り出した発泡酒を開けた。炭酸が僅かに抜ける音が部屋の中に響いて、ローソファは迎え入れるように彼の身体の形に寄り添う。

「サビ残なんて、普通に犯罪じゃないすか、」
 
 と、アイツに言ってやりたかったなぁ。
 彼は言えなかった言葉を部屋に溢し、それだけでは気が収まらず、指先でも呟くと、いくつかのいいねがついた。たったそれだけで少し救われている自分の機嫌を彼は持て余している。
 換気扇の下には吸い殻が群生した灰皿、レンジには昨日温めたレトルトカレーの残り香が漂い、その他のパーセンテージを占めるのは、夜な夜な吐き出される二酸化炭素。彼の部屋はそういった空気で出来ている。
 スクロールする親指の先が立ち止まり、瞼がゆっくりと落ちていく。夜の暗さに同調した空気を吸い込むと、彼の身体がローソファによりいっそう沈んだ。
 仕事中に画策していた、家に帰ったらやりたいことリストが霞んでいく。シャワーを浴びることも、夕飯という名の夜食を食べることも、歯を磨くことも、この先に描く展望も、全てがどうでもよくなっていく。その感覚は甘く、つややかに彼を自堕落へと誘う。溶けるように眠ってしまった彼を煌々と光ったままの白色灯が見下ろしていた。
 何かいいことが起きそうな直前で目を覚ました彼が部屋にかかった時計を見ると、5時過ぎになっていた。
 テレビを付けると、まだ明けていない空の手前で真っ白なダッフルコートを着込んだ女性アナウンサーがこれからの天気を報せ、視聴者に向けて厳しい寒さが今日も続くから頑張りましょうとエールを送っている。
 彼女の瞼は水面が弾けるように開いている。スタジオ内にも外にも、画面のどこにも、気怠さは見当たらない。小鳥のような声で女性アナウンサーが朝を告げている。キャスターや湖面テータも倣うようにお辞儀をする。彼はがさついた声でテレビに返答しながら、寝間着を脱ぎ、熱いシャワーを浴びた。
 ドライヤーで髪を乾かしていると、彼は胃の中がすっかり伽藍堂になっていることに今更、気が付いた。自分が骨と皮だけになってしまったような感じがして、髪を梳かす指先にも不思議と力が入らない。
 カロリーを求めて冷蔵庫を開けると、彼の胃と同様にほとんど何も入っていない中で目についたのは焼きそば用の生麺と、もやしと、使い切らずに放置されていた豚こま肉だった。
 レンジで豚肉を解凍し、その間にもやしに火を入れる。フライパンに加えたときは山になっていたもやしが段々と崩れていき、まるで量が減ったかのようにフライパンに熱され続けている。
 テレビではクリスマスにおすすめのケーキ特集をしていて、おろしたてに見えるスーツを纏ったキャスター達は、新雪が降り積もったように真っ白なケーキを口に運び、解けるような甘さに感嘆している。
 豚こま肉を加え、塩胡椒をすると油が弾ける音が少し大きくなった。レンジでは冷やされていた焼きそば用の生麺が硝子のターンテーブルの上で回っている。チンとレンジが鳴くと、彼は麺をフライパンに加えた。
 タイミングが訪れる。
 容器に残っていたソースは一食分賄えるかどうか分からない量だった。迷ったが彼は蓋を下に向けて、容器を摘まんで強く振った。

「あっ」

 何かの拍子で蓋が開き、
 壁にソースが飛び散った。
 苛立ちを含んだ溜息を吐き出しながら、
 キッチンペーパーで拭ったが、
 壁には染みが出来た。
 ほとんど塩胡椒の味しかしない焼きそばをマヨネーズで誤魔化しながら、彼は麺を啜る。食べ終えると案外、味は悪くなかった。だからといって気分が盛り返しておつりが返ってくるほどの驚きはないが、食後洗い物をするぐらいの気概は取り戻せた。
 今日は水曜日。
 一週間の折り返し地点で、彼は出勤前に何が出来るかを考える。
 出勤までには約二時間。二度寝をするにはリスクが高く、このままテレビを眺めているにはもったいない長さだ。
 ローソファーに再び腰を下ろして、彼は様々なユーチューバーのモーニングルーティンの動画を見漁った。そんなことをしているうちに、もう自宅を出ないとまずい時間になっていた。
 スラックスに足を通し、シャツの裾を入れ、ネクタイを締める。姿見が、早起きしたにも関わらず、時間に追われ始めている彼を映し出す。

「いってきます」

 爪先を外に向けて並んで待っていた革靴に彼の両足が入る。ドアが開き、冬の空気が再び、部屋の中に滑り込んだ。薄暗い廊下に朝の光があたる。登校中の小学生達の笑い声をカゴに積まれた洗濯物達が聞く。彼が部屋を出て、ドアが閉まる。外側から鍵が掛けられる。
 付けっぱなしだったエアコンは持ち主の不在に気付かずに部屋を温め続けている。誰もいないが、ガスメーターは回り続けている。部屋に配置された家電達は自分の定位置から一切動かず、ただそこに居続ける。日々が過ぎていく。やがて冬を越える。季節が巡る。

 壁に出来た染みはそこに在り続ける。 

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