誰かの説明書:なぜ勉強が出来ないのか。(創造と計算の両立について)

 イラストの指導員として、人の作品を見ていると、その人がどんな思考をしているのかが、はっきりとわかる。
 自分のやっている事を出来る限り言語化しようと試みる人は、上手い絵を描く。その言語というのは、社会的に場で使われている言葉で考えているから、その社会に受け入れられる作品を作る。だから、上手くてちゃんとした絵を作る傾向にある。
 自分は、基本感覚的にやってしまう。正確にいうと、自分の言語で言語化している。感覚も、自分なりの言葉だと説明がつく。ただ、社会的な言語で表すことは不可能だ。だから、自分は国語辞典的な、言葉と意味がくっついているものを、分解して、自分なりの言葉に再構築している。だから、自分の話している言語と、他者が話している言語が、きっと違うのだろうなという考えを持ちながら会話をしている。所謂、ポジティブシンキングの原理と同じだと思われる。
 そーいう行為を繰り返していくとどうなるのかというと、社会的な言語で作られた学問を、認識するのが難しくなる。自分の場合、分かりやすい。
計算をしていると、作品が作れなくなり、作品を作っていると、計算が出来なくなる。自分の頭の中のイメージは、常に言葉というものが揺れ動いているのだ。だから、久しぶりに計算をするときには、この言葉の意味って何だっけという、定義を確認し、それが揺れ動かないものとして、社会的なモードに自分を合わせる必要があるのだ。
 上記の例を出すと、社会的な言葉では、「重力というのは上から下に向かって働く力」だ。だけど、自分の言語だと、「重力は、実は下から上へ働く力なんだよ」と言ってしまえる。そしたら、全ての事がうまくいかなくなるのは、誰にでもわかるだろう。
 だから、創造と計算の両立は、基本的には難しいのではないかと思う。また、冒頭ではなした人が、そこから逸脱した作品をつくるのも、そこに気づくまでは、難しいのではないのだろうか。だから、いい作品をつくるなら、もっと馬鹿になれと僕なら言う。

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