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【日本人の妄想力】

日本に芸術という概念はなかった。
日本で最初に芸術という概念が生まれたのは、明治時代。最初に訳語としての「芸術」を用いたのは1883年(明治16)の中江兆民と言われています。つまり、その前まで芸術という言葉(概念)は日本になかったということになります。芸術という概念自体、欧米の文化として輸入された概念であったのです。西洋から輸入された教養としての芸術が文明国家として持て囃され、その頃から芸術の欧米化がはじまります。 

 つまり、今私たちがいう芸術は日本の独自の絵画や彫刻、音楽などの表現ではなく、欧米基準の芸術観に当てはめられているということになります。輸入された芸術概念は”明治 5(1872)年 8 月に学制が発布によって日本の学校教育に導入されます。近代化がわが国の教育の目標であったため、学習の目的は西洋の先進国の文化や科学技術を取り入れることになりました。当時は形の描写など技術的な内容が多く、子どもの感性は疎外され、今まで以上に画一的な指導方法であったようです。その後、大正デモクラシーとして民主的な風潮が高まり、大正の自由教育が普及するという時代背景のなかフランスで美術を学んだ山本鼎によって

「自由画教育は、愛をもって創造を処理する教育だ。従来のやうな教え込む教育ではなくて、引き出す教育だ」

と自由絵画を提案していましたが、一方で風景写生を描くことにすぎない、具体的な教育実践とは結び付いていないといった批判も受けていたそうです。結果的に近年に至るまで指導要綱に則った作品を描かせ、それを評価するという教育が学校における美術教育となりました。
ここで2つの問題が見えてきます。

1、西洋化によって日本独自の表現が蔑ろにされたのではないか?
2、子どもの感性を豊かにするための美術よりも技巧を評価し優劣をつける教育によって創造性が失われたのではないか?
ということです。
参考:「美術教育における学習指導の内容と方法の変遷」)

日本の独自性や創造性はどこにあるでしょう?

日本の妄想力
私は西洋化され、画一化された美術教育の反作用として生まれたのが漫画ではないかと考えます。漫画は日本人独特の妄想の塊です。ドラえもんの創造力、人に愛されるアトムの様なAI。そこに日本独自の創造力の源泉があると思います。台湾のIT担当相であり「世界の頭脳100人」に選出されるオードリー・タンの自叙伝「オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る」の中にもドラえもんやエヴァンゲリオンなど日本のアニメのキャラクターの話が出てきます。彼は「ドラえもんこそ、支援のAIのモデル」といっています。それだけでなく、日本のアニメやマンガは世界のクリエーターからも賞賛されています。絵画の視点から見て漫画のルーツは、おそらく、浮世絵ではないでしょか?日本の漫画やアニメのルーツを浮世絵の誇張と簡略化、繊細さと大胆さにみて取ることができます。

印象派と浮世絵
19世紀後半、美術アカデミーが権威をもっていたヨーロッパでは聖書や神話が絵の主題となっていました。ゴッホ、セザンヌなど印象派の画家たちは、浮世絵の構図と色使いから大きな影響を受けたと言います。モネは浮世絵のコレクターでもあり、多くの浮世絵を所有していました。
左が広重、右がゴッホの模写です。

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浮世絵の凄さは実物を妄想で誇張したことではないか、、最初から写実を無視して心の目で見たモノを描いていた様にも見えます。浮世絵の自由な誇張や大胆な構図、自然の造形化は日本人独特の感性が持つモノの見方かもしれません。この妄想による独自の誇張が日本人のオリジナリティーでありクリエイティビティなのではないかと思います。誇張とは目で見たものを心の目で変換して描いたものだと言えます。まさに、自分なりのものの見方です。

浮世絵に見る誇張の表現は漫画と類似している

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去勢された妄想
明治以降、近代化とともに産業化がすすみ、生産性重視の資本主義では余計な妄想は必要なくなってきます。人間は黙って言われた通りに機械の様に生産することが経済成長でした。つまり、妄想を去勢する事でコントロールしやすい生産性重視の社会が経済大国日本を生んできたと言えます。日本人独特の妄想力は経済成長と引き換えに失われていったのかもしれません。ところが今、生産性はAIやロボットが担う時代になりました。人間とAIの大きな違いは自ら望んで妄想するか、しないかです。多くのイノベーションは妄想から生まれます。私たち日本人のルーツにある自分軸の妄想力を再発見し向き合う事。これもアート思考で伝えたいことの一つです。



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