La crême caramel
「あれ、一時閉店のお知らせ……リニューアル工事のため、ってえええー?! ホワイトデー商戦をドブに捨てるのか、豪気な……」
スマホを放り出すように仰向けに寝転がる。ついでにぐいーっと伸びをして、丸めっぱなしだった背中をほぐす。
「っていうことは、わたしの誕生日! ケーキ! 祝ってもらおうとおもってたのにー!」
ガバッと起き上がってこたつの天板をドンドン叩く。
「あすこ、ビルのテナント全部系列店でしょ、二階のフレンチでも一階のケーキがデセールされて出てくるっつうレビューが食べログに載ってたし。自社ビルなんじゃないの。おかわり飲む?」
「のむー」
薄めに作ってくれるほぼコーラのラムコークを少しずつ飲みながら、夜が更けていく。
「だってさあ、来年って、どうなってるか分かんないじゃん。でもまあ別に、旬はイチゴと柑橘だから、新作を食べ逃すって言ってもたかが知れてるけどさ……」
「旬のフルーツが食べたければファウンドリーがあるし、タカノ……は、」
「ケーキって感じじゃないもんね」
盛大なため息とともにまたゴロンと横になる。絨毯に右頬を擦り付けるようにこたつ布団をもぞもぞしていると、パーカーやフリースがホコリ避けのように上からかけられた扇風機の脚の奥に、本棚が見えた。
「ん? あれ? シオリさんお菓子作るんだっけ」
「作んないよ」
「や、でも、この、これ、」
こたつから匍匐前進して本棚へ腕を伸ばす。製菓の本だけ引き抜こうとするが、指の力だけでは取り出せないほど本がガッチリ詰まっている。
「あぁ。プリン作るときだけ見てたけど、もう見んでも作れっからさ」
「作るんじゃん!」
寝転がったまま、左手を上げてツッコミを入れるつもりで振り下ろすが当然届かない。
「作んないって」
「……まって。わたしの誕生日、シオリさんのプリンがいい」
起き上がりもしないまま、ずいっと両手で差し出すように言う。
シオリは自分のことをあまり話さない。大抵いつも、一緒にいる誰かの話を聞いている。相槌を打つのがうまいのか、話を引き出すのがうまいのか、はたまた付き合いのある人が揃いも揃ってお喋りさんばかりなのか、もしくは単純に自分のことを話したくないだけなのかは分からない。
ルセットも見ずにお菓子を作ることは、何ページもある楽譜を全部暗譜して吹くのと同じだ。
どれくらいの強さで息を楽器に吹き込むのか、それはいつなのか、どれくらいの長さで、どんなハーモニーになるのが正解なのか、楽譜を見ればそれらが書いてあるのに、見ずに吹くということは、何度も何度も繰り返し練習して、ひとつの間違いもなく記憶していなければ出来ないことだ。
そんな、手順を全て覚えるくらい作っていたお菓子があったなんて、知らなかった。知りたかった。知らないシオリのプリンの味を。
「したっけ作るか。うらの坂の雪が溶けたら買ってくるわ、卵。誕生日じゃなくても作るよ」
「あの坂ぜったいコケるもんね。卵割れる」
冗談に、くすっと噴き出す。
「学校だと冷蔵庫ないから、またうち泊まりおいで」
もそもそ起き上がると、発泡酒の缶を呷る横顔が見えた。
「あのさ、用事なくてもまた来ていい?」
缶を置いてこちらを向く。二本目もじきに空になるようなペースで飲んでいたけれど、顔色は飲む前と変わっていない。
「おいで。エリの飲めそうなお酒、なんか探しとく」
「今度はあたしがお茶淹れるから。葉っぱ持ってくるから」
「そんならよばれよっかな」
ふわっと笑って缶に口をつけるシオリの家には、紅茶がひとつもなかった。そのかわり、コーヒーは豆を選んで買うところから始めるらしい。豆を買った店で挽いて粉にしてくれるからそんなに驚くほど難しいことではないと教えてくれたけど、普段コーヒーを飲まない身にとっては未知の世界だった。給食の甘いコーヒー牛乳でさえ飲めなくて友達にあげていたくらいでも、香りは大好きだから。自分で飲めなくても、淹れられるようになったらもっと楽しくなる気がする。
2018.07.20
お題:溶けかけの氷と扇風機
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