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第10話 【1カ国目エジプト⑩】バクシーシ「アフリカンジャーニー〜世界一周備忘録(小説)〜」

「バクシーシの姿がやたら目につく―」

エチオピアへのフライトのために二週間弱ぶりに戻って来たカイロ。

初めて降り立ったときとは少し違う世界を感じている僕がいた。

久しぶりのカイロ

「Welcome back」

僕は二週間弱振りにカイロに戻り、最初の宿とした「ベニス細川家」に再びチェックインしていた。

ベニス細川家のスタッフの「おかえりなさい」という言葉にどこか安心感を覚えている自分がいる。

数日後にカイロ空港からアディスアベバ(エチオピアのボレ国際空港)に向かうためにアスワンから帰宅したのである。

まさに、ベニス細川家へは「帰宅するという感覚」がぴったりなような気がしていた。

優しいエジプト人に出会えたアスワンでの生活を経て舞い戻ってきた「カイロの街」は二週間前とは少し違う顔を僕に見せてきた―

目の辺りにしたバクシーシ

「物乞いに対してお金を渡している現地人が多い―」

カイロに帰ってきて街を歩いていると、そういった光景に出会うことがとても多かった。

初めてカイロに降り立ったときには全く目につかなかった光景である。

おそらく、その時も自分の周りではそういった光景はあったのだろうが「僕自身"自分の身を守ること"で精一杯」で気付くことができなかったのであろう。

しかし、"ギザの街の恐怖""ルクソールでの苛つき""アスワンでの安心"を経験した今、バクシーシの光景に目が向くようになっていた。

エジプト生活に慣れて余裕がでてきたのか、もしくは自分が成長したのか―

その証拠に初日に迷った駅からベニス細川家までの道も、マップを見ずになんのストレスなく歩くことができた。

自分の変化に少しだけ胸が高鳴る。

【富める者が貧する者に施しを与えることで徳を積む】
バクシーシとはこの習慣のこと指す。

イスラム教の教えである「サガート(喜捨)」がその根底には流れているらしい。

本来の意味は施すことで【徳を積む】というが、その教えは【受け取る側の権利】という風潮が現代では強くなっているようだ。

とにかく久しぶりに訪れたカイロでは、【街行く人に施しを要求する物乞い】と【施しを行う街行く人】がやたらと目についたのであった―

一概に判断などは出来ない

「異国の人間を理解することは容易ではない―」

これまでのエジプト生活で「何かを奪うこと」に遠慮がない、いやそれを生活の糧としているようなエジプト人に多く接してきた僕にとって、ある意味"施しを与えるバクシーシの光景"は衝撃的なものだった。

その中でも面白く印象的な光景が一つある。

ある若いカップルが、道に座り物乞いをしている女性の前を通ったときだ。

彼女の方が道に座っている女性が目に入ると同時に、何のためらいもなく財布から「お金」を取り出し渡そうとした。

すると、彼氏の方がそれを強く制止したのだ。

二人の間で何が起こっているのかは傍目から観ている僕には分かりはしない。
ただ、「バクシーシという行為」に対して同じエジプト人であっても考え方が違うのだということを想像させるには十分な出来事だったのは確かだ。

これまで僕は、優しいエジプト人、優しくないエジプト人、行動が理解できないエジプト人、ムカつくエジプト人、信じることが出来ないエジプト人、いろいろなエジプト人に出会ってきた。

一括りに「エジプト人はこうである」と決めつけるのは、出会った彼らの顔を思い浮かべると容易ではない。

一方で、どちらかというと「全体的に旅行者から奪うことを考えている」というのが正直な僕のエジプト人に対する感想でもあった。これは僕自身の経験からくるものである。

しかし、この「施しをしようとする彼女」と「施しを制止する彼氏」の行動を目の辺りにして"異国の人間を一括りに簡単に判断することはやはり出来ない"という何かが僕の中に改めて芽生えた。

それは、この二人の相反する行動が形は違えど、"日本でも良く目にする光景だったからだ"―

ぼったくりの気持ちと

「僕もバクシーシしてみようかな―」

実は出会う旅人の間でも、バクシーシに対する意見が交わされることがなかったわけではない。

「何もしなくてもお金を受け取れることは"彼らの自立を阻害する"」

どちらかというと、このようにバクシーシに対する否定的な意見が多かったのも事実である。

ここに書くまでもないが、ネットで検索を掛ければそういった"考察"が大半を占めていることが分かるだろう。それは正しい意見だとは思う。実際にそれが社会問題になっている国が多く存在するからだ。

しかし、僕にとってそういった大局的な見方は正直どうでも良かった。

恐れずに踏み込んで言うのであれば、僕がどう思おうが"彼らを含む社会に及ぼす影響"などたかが知れているという感覚のほうが強いというのが正直な気持ちである。

「僕もやってみよう―」

僕の気持ちは、初めて来たときには気付くことが出来なかったバクシーシを「やってみたい」という身勝手な好奇心へと辿り着いていた―

足りないと不満を漏らす物乞い

「足りない。もっとお金をよこせ―」

幸いなことに"お金を要求する物乞い"は意識して歩けばそこら中にいた。

僕は宿近くに座っている物乞いに近づき、彼らが要求するタイミングに合わせて財布の中から、2ポンド硬化を渡してみる。

2ポンドは日本円にして"僅か10円程度"で、自分の懐事情の狭さを少し恥じたが"バクシーシをすること"が大きな目的だったため気には止めない。

僕が財布から出した2ポンド硬化を素早く受け取った物乞いは、僕の目を見てこのように言ってきたのである。

「こんなんじゃ足りない。もっとよこせ―」

アラビア語で正確な言葉は理解することは出来なかったが、物乞いのジェスチャーと表情で"そう言っている"ことはよく分かった。

その後も何人かの物乞いに同じことをしたが、全員が同じ反応を示す。

この一連の出来事が、なにか僕のなかで新たな理解へと導きを与えくれた―

貰うことが当たり前なのである

「施されて当たり前なのである。彼らにとって僕らは施すべき存在であるのだ―」

僕はエジプトの観光地やぼったくろうとしてくる飲食店に対して、「なぜそこまで当たり前のようにぼったくるのか」という疑問をいだいていた。

"一縷の貧しさ"がそうさせると一括りにしてしまえば、簡単に解釈できるのだがそれだけでは括れない何かを感じていたのだ。

それが、実際にバクシーシを行ってみることで一つの答えに辿り着いたような気がした。

「お金を持っている旅行客は当然施すべきであるという考え」が彼らの中に流れているということだ。

それはそのまま、「当たり前のようにぼったくる」ということに繋がっているような気がした。

お金を渡しても感謝する気持ちが微塵も感じられない物乞いの姿を目の当たりにすると、そう思わざる得ない。

当然、全てのエジプト人がそうではない。

本当の意味での施しをしようと「外国人である僕に優しく接してくれたエジプト人」に僕自身沢山出会ってきた。

要するに、「バクシーシ」一つとっても解釈次第で行動が変わるということなのだろう。

いや、"ある言葉の解釈"を盾に人は自分の行動を正当化することができるということだ。

そこには一人一人が抱える経済的な状況も密接に関わっているはずという、解釈も付け加えておかなければならない。

もう一つ。これは彼らの取る行動に対して高い位置から「善し悪し」を判断しているわけではないということも断っておこう。

人間とはきっとそういう生き物であるということだ。

そんなことを考えていると、僕なりの解釈のなかで「ぼったくってくるエジプト人」に対して"許しに似たような理解"へ近づいていく感覚が芽生えたのだ。

もちろん、ムカつくしボッタクリは嫌だ。嫌いなものは嫌いである。

しかし、自分に都合の良いように解釈するということは"なんというか人間らしい"のである。

そう思えるのは【僕自身にも"似たような部分が拭い難く存在している"からだ】。

もしそれが国民性という大多数の風潮にになっているとしたら、それは仕方のないのかもしれない。

そして、そんな風潮を嫌っている人も存在しているという事実も"とても人間らしい感じ"がする。

やはり"一概にエジプト人を判断することは出来ない"。

僕は最後のカイロ滞在でそんな思いに辿り着く。

そういった【自分なりの解釈】に最後辿り着けたことが最初の国「エジプトでの生活を意味あるものにしてくれた」ような気がした―

◆次回
【二カ国目エチオピアに到着。そこにはエジプトとは違う光景が広がっていた―】


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