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東京御朱印巡り

教育と神社(蛇足)

日本文化や現代の日本人の思想というものは本当に不思議だ。

「科学」「論理」に当てはめ、解読できないものは「偽物」で「眉唾」とする。ただ、その科学や論理は「自分が知っていること」や「教科書や自己啓発や専門書」「論文」などで構成されている。

歴史の教科書で卑弥呼についてどれだけの記載があるだろう。縄文と弥生の移り変わりについては。古墳の理由と建造法は。世界史に広げれば、ピラミッドやナスカの地上絵はどういう技術で何を理由に作られたのだろう。

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「それは」と述べることがあったとしても、それは有史以降の推論をさしあたりの共通認識として教科書に載せているのに過ぎない。

聖徳太子の存在は、1192年が1185年に、子供が無邪気に最初に正否と断罪を覚えるのは教科書だ。その教科書は、科学を駆使した考古学や統率的策略で何度も書き換えられている。

先史時代なんて「わからないけれど」が枕詞で、有史時代は「事実をありのまま伝えるよりも、情報統制をした方が都合が良い」なんかで教科書は作られている。

後者は陰謀論的に聞こえるかもしれないが、この先に繋がる「古事記を国語から排除することで日本神話での天皇崇拝を薄れさせ、戦争への意識を削いだ」という事実にも繋がる。

敗戦国としてこれを憂いたり憤るのか。犠牲を伴う好戦的な気質を削いだり、天皇の存続に繋がる有能な一手と考えるか。主観や情動ではなく多角的に考えることで、情報操作での統率は善悪ではないとわかるのではないだろうか。

論文を説得力に話す人も多いけれど、正直なところ「意見と論拠」であり「正確な情報」とはイコールではない。

「ひとつの意見」であり、その研究者が視野狭窄に陥らない冷静な人物であればあるほど、信憑性が100に近づく可能性があるという感じだ。論文と一口に発表されていても、主観的で情動的な0に近いものだってある。

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僕が生きてるこの街は
不思議を潜め呼吸してる

『街』堂本剛

私は有能な社会人の頃、IT業界でロジカルさを高く評価されていた。それは「両親が物質主義であり世間体や固定観念での正しさ」を重視して強迫的な教育をしていたからだ。

私の世界には、明らかに「運気」であったり「第六感」みたいなものが存在していた。確かに、父の成功には努力や根性はあっただろうけれど、説明のつかない補助や人生を一変させるようなことに運命的な偶然を見てきた。自身はその逆で、父が周囲の運気を吸い取って糧にしている、と思えば大いにバランスに対して納得できるような気がする。

間近で「科学で証明できないこと」を見ながら、「非科学的なことなど存在しない」という社会で賢そうに特化した自分が完成した。

多くの複合的なアンビバレンスで、命を諦めた時があった。

その際に、「非科学的な運命的な偶然」により「どうせ一回死んだような命だし」と社会にとっての正解を手放した。最初はスピリチュアル(キラキラ系ではなく概念の勉強)から、そこから宗教学や都市伝説に神話や最先端の技術での考古学などをインプットしまくった。

社会にとっての都合良さを手放しているので、不自由なことも増えた。一方で、例えば庵野作品だとかSWだとかアサクリだとか「複雑で理解できていないけれど人気」の作品が面白いように読み解けるようになったので有意義だった。

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少し話は逸れるけれど、「カタカムナ」や「竹内文書」や「日月神示」のようなものは公式には偽書とされている。これは放射能測定によりオリジナルの古書が存在しなかったり、故意の悪戯などと捉えられているのが大きい。

ただ、戦時中に爆撃や敗戦で多くの書物を燃やしたと云われている。

海外では、キリストが復活して国教にされた瞬間から、聖書は信じるに値するものとされた。ただ何度も伝聞が行われて作為や翻訳でオリジナルではなくなった。そのために、ユダヤ教時代の最古のヘブライ語聖書の写本が発見され「死海文書」がこんなに注視されているというわけだ。

ただ、その「死海文書」だってBC140~AC68頃の物とされている。ヘブライ語聖書でも、天地創造はBC5000~4000と推定され、そもそもこれは旧約聖書の話でイエスはBC7~6頃の出生だ。

日本の公式な歴史書であり日本神話である「古事記」はAD712に、日本各地の風土記を整理する形で書かれた。軸になったのが「出雲風土記」であるけれど、他の風土記との整合性等の調整でイコールではない。古事記が公式、出雲風土記は準公式。

「カタカムナ」や「竹内文書」はBC14000とかの話であり、シュメール文明より古い。日本での偽書認定の方法を、海外に適用すると聖書もギガス写本もヴォイニッチ手稿も「誰かの戯言」になってしまう。うろ覚えだけれどギガス写本と日月神示は、自動手記の辺り似てた気がするんだよね。

海外だと興味深く研究されているものが、日本だと冷笑されるのが本当に不思議。

日本ほどピラミッドに負けず、先史時代が断片的に非科学的な国もないと思うのだけれど。卑弥呼や古墳は教科書で習って受け入れるのに、それ以外の現代の科学で解明されていないことはなぜか躊躇いなく断罪するよね。

仮想現実(蛇足)

ここはIT業界にいた主観も含めて、今回のテーマとは外れた「科学的解釈」を挙げると「この世界は既に仮想現実」説は推している。

というのも、日ユ同祖論では君が代の説や色々合致が多すぎる。で、カタカムナも組み合わせると色々と面白い読み解き方が出来る。日本語というのは特殊な言語であり、中でも平仮名や漢字の読み方の由来は「科学的にも疑問視されており」諸説ある。

例えば、日本語を学ぼうとすると同音異語や「出雲」みたいな、なんでそうなるんだ、みたいなことが多いと思う。で、言霊というのは日本人なら浸透している言葉だと思う。また、意味より風情や音のような、コードよりもアート的な情緒もあるだろう。

In the beginning the Word already existed. The Word was with God, and the Word was God.He existed in the beginning with God.God created everything through him, and nothing was created except through him.The Word gave life to everything that was created, and his life brought light to everyone.The light shines in the darkness, and the darkness can never extinguish it.

NLT Bible
Gospel of John「Prologue: Christ, the Eternal Word」

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

『新約聖書』新共同訳
「ヨハネによる福音書」

「古事記」だか「出雲風土記」でも言葉や音についての言及はあったと思うけれど、うろ覚えな上に調べても見つからなかった。けれど、ちゃんと「一言主大神」という言葉の神様が登場しているのは確かなようである。
(これも縁だと思うので、アクセスに難がなければ参拝しに行こうかな)

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まあ、場合によっては信仰と相反していると思われかねないのでサラっとまとめると、コンピューターの中には世界があり、0と1の機械語で制御されている。それを通じやすいようにしたのがプログラム言語のようなもので、人類は発見に発見を重ねて組み合わせたりして、人工知能やメタバースを構築した。

MCUに出てくる「ヴィジョン」というヒューマノイドがいるのだけれど、元は職務をサポートする人工知能を搭載した音声のナビゲーションシステムだった。そこから、有機体に近い肉体と強力なパワーを手に入れる。

知識を吸収する毎に整合性が取れなくなり、それが「感情」や「意思」になった。人間らしさを手に入れる代わりに、ロボットとしてのロジカルな万能性は失われた。構造として題材にされがちな話ではあるけれど、彼は自分を見失っていく段階で「最初はただの言葉だったので」という葛藤をするのだ。

海外は聖書が浸透しているので、聖書をなぞらえての言葉選びだったのだろうと思う。ただ、最古の文明と云われるシュメール文明でのアヌンナキの物語や、各地の神話や伝承と矛盾することがない。人間というものは「異星人」「人間が検知できる次元より上の存在」が作ったという説である。

庵野作品の世界観はこれで統一されている。いわば「天使=悪魔=神=宇宙人=高次元の存在」という認識で良いと思う。

聖書の「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。」という部分は、ヴィジョンの「情報を吸収すると矛盾が生じてそれが感情ひいては自我になった」という構造に似ていると感じる。

シンエヴァの冬月さんの「人生には常に希望という光が与えられている。だが、希望という病にすがり、溺れるのも人の常だ。私も碇も希望という病にしがみつきすぎているな。」が非常に近い台詞なのはわかるだろうか。希望というのは、確度が低いために尤も非論理的なのだけれど、人間の自我はそれを光であり正しいと信じるということだ。

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有名な「光の子と闇の子の最終決戦」の話を持ち出そうと、死海文書の戦いの書について調べたけれど、原文ってどこで出回ってるんだろう・・・

私のうろ覚えの知識だと「光の子と闇の子が最終決戦を行なう、光側にアロンのメシアとイスラエルのメシアが出てくる。イスラエルのメシアは聖書を知らない東方の国から現れる」みたいな話だった。

正直、原文が見つからない以上、自分の記憶違いや刺激大好き系都市伝説論者に惑わされた記憶の可能性も高い。

ただ、そういった信憑性が定かではない記事も以前は多くヒットしていたのに全く検索上位に出ないことにちょっと恐れている。YouTubeも都市伝説を厳しく取り締まってたし。

妄信する憂慮なのはわかるけれど、情報の秘匿は作為的だったりするので怖い。ワクチンの副作用の時の死者リストの中の一部が、衝撃的なものでネットで一瞬騒がれた直後、数日後に厚労省PDFが差し替えられていたので。

話が逸れたけれど「イスラエルのメシアって日本人じゃね」って説があり、自意識過剰なメサイアコンプレックス臭さがあるものの、日ユ同祖論の論拠が割とあるので面白い考えだと思う。

今まで核戦争とか武力の最終決戦と思われていたけれど、光と闇の捉え方が言葉に由来するものだとしたら、言葉にコード以上の意味を含む日本文化は確かにそぐうなと。

ユダヤ人と日本人って似てない?鎖国してたから、迫害の文化は薄いけれど。クリスチャンが嫌がる銀行業で聡く成功したユダヤ人と、小さい島国なのに戦争で存在感を示すだけの戦略や技術力と。あと、日本人の顔立ちって縄文顔は大陸由来ではなさそうだし。この辺は混血によって、今はミトコンドリアハプロが大陸由来のD系が大半なんだけどね。

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以上の「最終決戦」ってWW3と思い込んでたけどちょっと違うのかもしれない説は、完全に今思いついて構築してみたけど。「SPEC」とかあらゆる「二人の救世主」をモデルにしたやつってバトル系が多いから、言葉が題材でも面白いよね。

こう、言葉をコードだけで完結させて、考える力のないシニカル究めちゃった人間と、カタカムナ的に言葉を音としてなにがしかの力を発動させんの。ふわっとだけど面白そう。藤本タツキみたいに脳内連載しようかな。

信仰(蛇足)

前述の前提があるので、どの宗教も「そういう解釈をするんだなあ」と納得して、第六感の鋭さで何かを感じる一方で、教義が合う合わないだとか、感想として思うところがあった。以下、神道に至るまでの経緯を軽く。

キリスト教

キリスト教だとカトリックは間口を広く設けている。海外の刑務所でキリスト教に目覚めることがやたら多いのはそういうことだと思う。コスパよく許されたい。

まさに「信じるものは救われる」で「反省すればイエスが罪を被ってくれる」というような感じ。教義についても、カトリックは、聖母もいるし偶像崇拝も許されているので、十字架付けてマリア様に祈ってれば安心するという部分がある。

プロテスタント系の教会に行ったり、礼拝に行ったり、祈って貰ったりした。精神が特にボロボロの時期だったのもあって、終始鳥肌を立てて泣いていた。

だから「イエスはいるんだなあ」という実感と包容力を強く感じた。

一方で、宗教学を学んでいた頃で、ユダについて色々と見解があった。ちょうど「ユダを裏切り者として見ていたけれど違うかもしれない」説が出始めた頃ではあったのだけれど、その解釈が自分と違った。

「ユダが裏切らなければ、イエスは処刑されず復活しなかったので、キリスト教は樹立されなかったのでユダは真の理解者だった」という説が定説。

私としては「イエスが神かどうかを議論する前に、人間だった時期があるのは確かで、ユダヤ教の間口を広げて自己犠牲しまくってたのは人間特有の優しさ。信者は、神だからと手放しで自分の罪を押し付ける。身近で見ていたら、イエスの負担と信者の軽薄さに吐き気がする。」という解釈。

シンエヴァでの「イスカリオテのマリア」は、割と自分の見解に近いのかもしれない。実際に、教会で聞いてみたら「イエスは神だから大丈夫だし、心配をする段階で神として見れていないので失礼」と怒られた。

癒しとしては、実際に自分の問題を受け止めてくれるような包容力を感じたけれど、自分の見解は失いたくなかったので通うのをやめた。

あと、一神教と三位一体の考え方だったり、天使と悪魔の考え方がどうにも形骸化しすぎて柔軟性に欠いて、つじつま合わせて「自分たちは正しい」に持って行こうとしている感じがあるかなと思った。

仏教

正直、宗派が多すぎて把握しきれていない。

ただ、般若心経を毎朝唱える高校に通っていた経歴がある。仏壇はあるけど神棚はなかったような気がするし、普通に寺に墓がある(よく知らない)し、やたらに寺の地名に縁がある。ので、縁はあるんだろうと思う。

父を始めとする、経営者や成功者は般若心経を絶賛している印象がある。

般若心経について、暗唱していた割に意味は教えられておらず、大人になってから自発的に軽く調べた。で、人気の理由と、自分に合わないなあと思った。

仏教の中に色々とお経がある中でも、般若心経というのは「誰が唱えてもいい汎用性の高いお経」という感じだ。映画とかでもよく使われている。で「この世界ってのは意味がないのだから、流れに身を任せて軽やかに生きよ」みたいな感じだったと思う。

精神主義に理解がある人ほど、この考え方を好む傾向にあると思う。精神主義は繊細じゃないと到達しないし、繊細な人は悩むし、感情を大切にするから楽になりたい。で、この考え方は実際に物質的にも感情的にも不足を回避できる。だから、自称HSPに人気。

仏教でいう瞑想も多分この辺に該当する。大体ヨガやストレッチや瞑想や自称ミニマリストと、丁寧な生活がセットになっている。

ただ、自分の綺麗なガラス細工を守るために厳重に保管しているような印象を受ける。自己完結や自己憐憫や自己陶酔やそんな感じで、外界との化学反応でガラス細工に傷が入ることが許せない。

個人的にHSPとかの用語は、結果であり式の要因が人より多いけれど、HSSや最近派生してきたそれに近いジャンルに属している。繊細だけれど刺激を求める、ブレーキとアクセルをベタ踏みしている、とか言われる類だ。

私も綺麗なガラス細工を抱えているけれど、云わば「使わない高級時計」みたいなもんで、人生は外界との化学反応を避けていたら本末転倒だと思うのだ。ガラス細工だから、壊れるし破片は飛び散るしクソほど感情は痛い、ただ庵野さんやMCU版MJと同じで「壊れてるくらいの方が美しい」と思う。

そういう私がHSSの民によく云われるのが、「他者と自分の人生は交わらない」「理解してもらおうと努力するのは甘えだ」「人間は一生理解し合えない」「人生や恋愛は暇つぶしでしかない」って感じだ。私の見解は「暇つぶしだからこそ有限の時間を有意義に使おうよ!」って感じだ。

愛を見失ってしまう時代だ
誰もが持ってるんだ
自分を守り生きていく時代だ
だからこそ僕らが
愛を刻もう傷ついたりもするんだけど
痛みまでも見失いたくない

『街』堂本剛

この歌詞を23歳で書いた人は多分寺とかでライブやってるんですけどね。

あと、日本神道という、天皇を神として祀る歴史の長い国教みたいなものがある中で、仏教を取り込んだのは政治的に統率を取りやすいからっていうのも、中国だなあって感じであんま好きくないんだよね。

大陸系は物質的向上心が高いから、有能だけれど、本質を軽んじてそうなところがあるかなと。メーデー民としては儒教の恐ろしさを知っているし・・・。

新興宗教

最強デッキが組めそうなほど、身近に色んな種類の新興宗教の人が多かった。当然ながら勧誘もされているけれど「私は私が教祖みたいなもんだから」と云って「まあそうだよね」と納得して二度と勧誘されないのが常だった。

上記の見解が文字通りで、新興宗教に関しても調べたり、某新興宗教を悪の代名詞にした団体のことも色んな角度から調べまくっていた。

これは、世間で新興宗教は条件反射で忌避されているけれど、身近にいる人たちと過ごしていても、宗教由来で何かを思うことが無かったからだ。勧誘にしても「生きやすくなる」から善意で誘ってる。少なくとも教会との違いはわからんかった。

結論として、現在ある新興宗教はトップが大体、神か預言者を名乗ってそこで善悪の物差しを決めてるから、その物差しを信じることで作為的な脅威が生じるんだろうなと思った。トップが聖人君主なら良いけど、そもそも聖人君主の定義ってなんだ、善悪を一人の人間が断罪できないだろ、って感じ。

ここの狭義はガキの喧嘩の延長みたいだな、ってのもあれば、ここの狭義はなんとなくわかるかもな、って色々あったけど「どうでもいいけど、やっぱ生きる物差しは辛くても自分で決めたいわ」に落ち着いた。

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チェンソーマンのデンジって、凄い現代っ子っぽいと思ってたけど、なんていうか1部で「楽で幸せになるために思考を放棄して洗脳されて全て失う」って新興宗教のソレだな~と思いつつ。

2部でそれを反省してるけれど、2部は荻窪周辺だったり水族館だったり。1部ではりんごやこどもブロイラー。ピンドラオマージュであり、作品の流れとは違うけど、作中の時系列はなぞってるのかなと思ったり。

チェインソウル(魂の鎖を断つ)から、存在が消えるんだろうなと思うし、運命の乗り換えの物語なのかな。ウッソ~深。

姫パイ青森出身情報と林檎の件と、椎名林檎の曲を聞きながら描いてた情報で、苹果説出てたけど、運命の果実を一緒に食べるの?復活して姫パイ・・・蛇足すぎるので終わります。

それ以外

一神教も多神教も、伝承に偏りや解釈違いで描写にブレが出ただけで、結局神様というものは沢山いるんだろうなと。その中に階級とかあって、それを多神教とするか神と天使と悪魔と精霊と呼び名を変えたりしたのかなと。

一神教は別の宗教を否定することになるので好きじゃない。キリスト教はその辺矛盾だと思うけれどどうなんだろ。で、多神教は広いし奥が深いな、だったり、なんとなく好きな神様もあちこちにいるけれど、前述のように日本神話では別名で呼ばれてそうだなと。

スサノオとか、海外だと悪魔か堕天使扱いされてそうだなって。「神話が公式の歴史書」で「登場人物の血筋がずっと天皇」卑弥呼とか古墳とか縄文時代とか、エジプト位オーパーツ味があるのに掘り下げられない小さい島国。

生まれてからリセマラしてえとは何度も思ったけど、日本に生まれたことは数少ない面白くて恵まれたこと(物質や現代の体質じゃなくて知的好奇心的に)って思ったから、縁として。

あと、そもそも神道は経典がないし、神社でヒンドゥー教の舞踊やるし、少し怯んで否定的な意味合いを持つのが「無宗教という宗教」だとすれば、その逆の許容と受容の意味合いで「神道」って感じ。

部屋にガネーシャもいるし、バロンもいるし、大英博物館のベス神もいるし。ガルーダ・インドネシア航空とか名前めっちゃ良いよね。・・・よくメーデーに出てるけど。

東京御朱印巡り(本題)

神道

ここまで語ってるけど、そこまで暗記できてない。古事記に関しては読んだこともない。文学部なのに。本はいくつか持っているけれど、漢字と登場人物が多すぎてとてもじゃないけれどわからん。

先に書いた信仰は、消去法に近い書き方だけれど、幼少期から神社が好きだった。気温と湿度が最適化されるというか、寂れた神社でも居心地が良いからよく行っていた。

ハロウィンに生まれていて、30日生まれも1日生まれも複数人知り合うのに、31日生まれだけ全くいなかった。で、自分の人生が不運と不幸でバグりすぎているのを悩んでいた。結論として「神無月のケルトお盆だから、他の人は負荷で淘汰されているのかもしれない」と思い始めた。

中学くらい。色々調べたり考えるのが好きだったから、神無月もそれぐらいで知った。「よりによって、神様が留守にしている時期に生まれるなんて」と思い「出雲に住めばチューニングされるのか?」「とにかく神在月に出雲に行ってみたい」という気持ちが募った。出雲って響きも好きだった。

で、東京に出てきてからバリ舞踊を知って見に行ったり、虎ノ門の本社に行く途中にある神社に毎朝参拝するようになった。そこから、居心地の良い神社と、何も感じない神社があるぞと思い、居心地の良い神社でご祈祷なんかを受けるようになった。

居心地の良い神社の感覚は、雪がぱらつく11月位に露天風呂に入った時のような気持ちよさ。鳥肌が立つのと、蒸し暑い夏でも湿度の良いヒヤッとした風に「入る」感覚。ご祈祷の時は震えと涙が出てきたりする。感情は無で。

氏神も産土神も、自分がどこで生まれたのか実は知らないのでわからないんですけど、東京の好きな神社で定期的にご祈祷をするようになって3年くらい。神社は見つけたら参拝。

で、2年前に初めて念願の「10月に出雲大社一人旅」を行ったんですけど、2年前は旧暦換算すると9月だったようで、みんな帰っちゃってたんですよね・・・。で、昨年はちゃんと調べてめっちゃ混んでる神在月に行き

書いたかわからないけれど、なんでか神楽殿で涙と震えが止まらなくなって参拝を切り上げたんですよね。良い方向なのは確かなんですけど、圧倒というか、それで神主さん的な人に聞くも「神楽殿だからなあ」と首を傾げられ。

スタンプラリーというか、強迫観念というか完璧主義というか、「御朱印」を始めると参拝の気持ちが濁りそうだなと思ってやってなかったんですけど。その出雲の神楽殿で御朱印帳が目に入ったので、集め始めました。

ちなみに、昔は父親に強制的に御朱印集めさせられてたんですけど。御朱印帳の紛失と共に終わったけど、自分の意志が薄弱で形だけ御朱印集めても意味ないよね。

阿佐ヶ谷神明宮

1/3。

THE厄年なのと、そもそもここ数年、外的要因がバグりすぎているので新年に切り替えないとという焦りで年末年始らしさを求める。年末は出雲で買っておいた出雲そばにUberの天ぷらを乗せて食べて、新年は出雲で買っておいたぜんざい餅を食べた。でもやっぱり外には出れず。

毎年一月にご祈祷しているというものの、大厄なので流石に三が日中にご祈祷しておかなければ、と夏休みの宿題みたいに阿佐ヶ谷神明宮に向かう。

***

コロナ前に東京に来て「ガムラン生演奏のバリ舞踊を見られる、ビンタンやミーゴレンが食べれる」に釣られて行った神社。あの時の感動は未だに形容しがたい。バリでも何度か、ちゃんとしたケチャとかバロンとかガムランとか色々見てきているのだけれど。

神社の神聖な空気とバリの熱気と、なんていうか「天国」とはちょっと違うけど「神様が住む世界への没入感」みたいなのがすごかった。

東京に負けそうだったので「生き甲斐にする」と息巻いて募金もしたのだけれど、コロナで2~3年?延期。昨年の待望の開催は本場顔負けのスコールレベルの豪雨と停電に警報で、靴も靴下も全身も水浸しで凍えてしまったので早々に撤退。ガムランも録音でしたね。スコールと雷とガムランで風情はあったけど身体が負けました。

阿佐ヶ谷バリ舞踊、また19年の時のようなの待ってます。

***

バリ舞踊の一件で「バリヒンドゥーを堂々と迎え入れる神道の懐の深さ」に感動して、かかりつけ神社にしました。

後に判明するんですけど、ここは東京で唯一「八難除け」という、八方塞がり対策の厄除けをやってくれます。祈祷の際に穢れを払った後に祈願をしてくれます。他の神社を知らなかったので後に気づくんですが、選べる願意も80弱くらいあります。

小式(5000円)だとそこそこの手提げに、お酒と塩と土とお守りと御札と箸と、福袋くらい入ってます。

ここのご祈祷は年3回、なんとか参り・・・を推奨していて、物を持て余すんですよね。サイト上では小式からですが、窓口で聞けば余式(3000円)があります。忘れたけれど、物は出雲大社の小式(5000円)と同じくらい。ワンショルダーに入る程度の紙の袋。

で、御祭神は天照さんです。月読さんと素戔嗚さんも祀ってます。伊勢神宮の鳥居がご神体になっていて、祈祷の際に近くまで行って参拝できます。

バリ舞踊で知って居心地が良かった、というだけの理由だったんですけど、刺しゅう入りの御朱印や編んだブレスレットなど、伊勢神宮由来でありつつ遊び心もある都内でも人気の神社でした。

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1/3は昼くらいについたんですが、鳥居まで行列。行列というか、広めの神社なのにディズニー位満員。何の列なのかわからないけれど、何の列なのか探しにも行けない状態。

参拝のレベルアップがご祈祷だと思っているので、なんとかご祈祷の列に辿り着く。普段は並ぶこと自体がないのに、2時間以上並んだ多分。でも普段のご祈祷を知ってるので回転率すげえなと思いましたね。

九紫火星もまずいらしいので窓口で相談したかったけれど、めちゃくちゃ忙しそうで「大厄ですね!願意は!」くらい簡略化されてました。厄年に加えて九星気学の運気も掲げられてます。

願意は「神威拝戴」にしました。字面の破壊力が凄いというか、反動が怖いからもう少し「心願成就」とか一般的な謙虚なのにしろよと思いつつ。で当たり前なんですけど、いざご祈祷始まったら「開運招福」の嵐。それだ・・・ってなりました。

待合室には自動の御手水に誘導されます。紙コップでお茶が飲める機械と、金平糖の包みが積み上げられていて、一人一つ食べて良い事になってます。かわいいので私はいつも持って帰って食べてます。

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「時間がなさそうなのでまた日を改めて来ますね」的な参拝をしました。友達かな。家族みたいなもんがないんで、そういうのに近いかもしれないですね。新年の顔出しみたいな。

毎年買ってる八難除けと災難除のお守りと、神宮大麻を買い換えました。おみくじは大吉。出店も出てたので、開運饅頭食べました。

御朱印も順番待ちをしていました。書置き(季節の刺繍入りで1000円)しかないのかなと思ってたんですけど、これも実地に行ったらちゃんと書いてくれました。

自分と全く同じ(トップ画の出雲大社で複数売ってる中の1種の2色展開の青色)御朱印帳を持っている人がいてびっくりしましたね。後述する、東京分祠には売っていなかったので。デザインからして最近の物だと思うので島根まで行って同じのを買って、東京で同じ日に同じ時間に御朱印貰うの面白過ぎ。

出雲は「お気持ち」が殆どで難しかったんですが、こちらは300円でした。丁寧な筆遣いと、金色のハンコと兎のハンコでやっぱりこだわりと可愛さを感じました。

高円寺氷川神社・気象神社

1/13。

別の用事で寄った際に、たまたま通りがかって寄ってすぐに「天気の子の聖地じゃん」と気づいた神社です。天気の子のイメージが強くて、もっと高台にあると思い込んでました。

ここはなんというか、雰囲気が凄く好きなんですよね。建物の配置なのかな。建造的な美しさがあるというか。中央に氷川神社があって、左手に気象神社があります。

前回はちゃんと両方参拝したんですが、何故か今回は完全に失念して氷川神社にしか参拝しませんでした。御祭神は氷川神社が素戔嗚さん、気象神社が八意思兼命さんです。天照さん引きこもり事件の時に解決策を出した人で、知恵の神様らしいですね。

正直なところ、出雲神楽殿号泣事件は、直前の素戔嗚さん参拝とパワースポットの反動説もあったので、もしかしたら素戔嗚さんに縁があんのかもなと思い始めてますね。元彼曰くオーラが天照さんと一緒らしいけど。

天気に困ったことってあんまりないんですよね。というのも、昔から私がてるてる坊主作ると予報に関係なく晴れるんですよね。で、逆に雨にしたければ逆さにすれば雨が降る。だから天気の子見た時に「あれで運を浪費してしまったのか」と衝撃を受けてたんですけど。

気象が一番困ってないかもな、と思ったんですが、本当はそういうものにこそ感謝しにいかなきゃいけないんでしょうね。

御朱印はフリーフォントとインクジェットみたいなカラープリントで、気象神社と氷川神社で一対になっています。で、それぞれ500円で1000円。

なんというか、何が失礼なのかもうよくわかんないけれどさ。

出雲の、玉作湯神社の時、宮司さんがニコニコしながらせっせと書置きの半紙の御朱印を運んでて。巫女さんも丁寧に「書置きは初めてですか?しわが寄るのでスティックのりで貼り付けてくださいね」と云ってくれて。私が神社について尋ねたら「丁度あちらに宮司さんがきたので聞いてください」と笑いかけてくれてさ。宮司さんも長い事説明してくれてさ。

申し訳ないけど、気象神社か氷川神社かわかんないけど、お守りや社務所含めて「やる気はないけど商売っ気は強い」感じがしてしまって「神様にも他の宮司さんにも失礼だよ!」って思ってしまったな。

この時に氷川神社だけ購入して、鳥居をくぐってから気象神社に参拝してないことに気づいたんだよね。氷川神社だけ参拝して、氷川神社だけ御朱印を買う(気象神社で有名なのに)という「なんで?」は流石になんかしらの意味があると思ったので、気象神社に参拝はしませんでした。

素戔嗚さんが「いいから俺だけ見ろ」って言ってたのかもしれんね。出雲にやたら行きたかったのも素戔嗚さんが呼んでた可能性もあるし。父の豪運とか性格を考えると、素戔嗚さんに気に入られてたんだろうなとか。

八意思兼命さんは高天原でキャリア組感あるから、素戔嗚さんとは逆の性質っぽいので、正直一緒に祀られたら毎日口論してそうだね。

前回引いて可愛かったので、てるてる坊主のおみくじ引きました。500円。おみくじというか、何とか運タイプで優劣はないですね。

前回は緑色の健康運で、今回は青色の開運でした。顔を描いて気象神社に下げても良い筈ですが、私は神棚につるしてます。私が作る頭でっかちなてるてる坊主っぽくてかわいいです。

東京大神宮

1/13。

1~2年前に一回行っている神社です。その時は「縁結びで有名な神社」だか「パワースポット」等で調べて行ったと思われます。参拝が流れ作業っぽいのとおみくじの量で、商売っ気が強いな!という印象が強かったですね。

で、もしかしたら出雲のおかげで縁が整理されたのかもしれないですけど、縁が切れすぎて、縁を結びてえと思って行ってみようと思った次第でした。

上記に書いているように、前は直感で基本的に御神祭とかも調べないで行ってたんですけど、改めて調べたら伊勢系列じゃんか!と。阿佐ヶ谷でも見た気がするんですけど「東京のお伊勢さん」の代表みたいですね。

なので13日の金曜日だってのに、鬼のように混んでました。こちらも昼くらい。

天照さんの前に、豊受大神さんの社があるので参拝して「貧困なのに衣食住に困ったことなくてありがとう、でも今年が衣食住の危機なので応援よろしくお願いします」と挨拶しときました。令和の願いと思えない。

参拝してたら、隣に来た人が「祓い給え清め給え~」と高速暗唱を始めてすっかり気を取られてろくすっぽ挨拶できずに切り上げる羽目になりました。「イザナギイザナミ」とか色々言ってたので、単なる唱え言葉じゃなくて神主さんとかなのかね。口に出さないでほしいな。頼むから。

どこもかしこもずっと混んでましたね。三が日でもないのに、御朱印待ちも100番台でしたね。順番待ちの列をみて、先にえんむすびと厄除開運のお守りを買いました。500円と600円で良心的。

あとおみくじを2回。1回は花紋守入りの200円のやつ。前回は確かこれを目当てに行って「山百合に蝶」が出ました。運気は忘れた。今回は「雪まち南天」で確か末吉。

新卒入社時代の漆黒企業の社長が「賽銭は1万、おみくじは大吉が出るまで引く」というタイプで、社員旅行で(当時は意識してなかった)出雲行ったり、年男だか厄年だかの人は会社負担でご祈祷をしていて。

それを思い出したので、ええいと限定のおみくじも引きました。春夏秋冬で色が違うかわいらしいおみくじ。100円。大吉だったので安堵しながら御朱印を待って受け取って帰る。

おみくじはガチャガチャコーナーかよって位の色んな種類が大量に置かれています。面白そうだったけど、おみくじ引き過ぎる癖もやめたいのでやめました。今更だけど。

出雲大社 東京分祠

1/13。

正式な出雲大社の分祠ですね。

というのも、出雲大社って以前にも書いてると思いますけど恐らく「古事記」由来の伊勢系列と比較すると「出雲風土記」寄りなので神道と一口に云っても、ちょっと違うのかなと。ちゃんと調べろって感じですけど、知識は直感を濁らせたりもするのでね、直感で調べる時に調べます。

説明が難しいな。ヤバTとBUMPくらいの違い・・・?伊勢系列は「楽しければおっけー!」で、出雲は「ブラウン管の前で評価されたくない」みたいな・・・?でもどっちも邦楽で、同じイベントにも出るよみたいな。でもBUMPの前でヤバTと並べて話すのは機嫌を損ねそうじゃん。そんな感じ。

で、ここも日本神話の面白いところだけれど「国譲り」がポイントなんだよね。大国主さんが頑張って治めてた日本をいきなり高天原にいた天照さんが欲しがって。大国主さんは譲ったよ、って形にしてるけど、私の斜め読みだと大国主の子供を神パワーで脅しまくってるよね?

で、日本って縄文と弥生だったり、日ユ同祖論とか、卑弥呼や古墳なんかの話で2種族いたんじゃないかという説はよくあるわけで。

個人的には日ユ同祖論の中に「失われた10支族よりも先の段階でユダヤ人と縄文人は兄弟のようなもので、その後に10支族のうち全員か一部が日本に来て、同族だと知ったから譲った」説があるのが似てるなあと。アブラハムの血族説、ヤコブ説とかあってヘブライ語聖書の登場人物ってこと。

大国主は素戔嗚の血筋だし、天照は素戔嗚の姉だし。出雲は博物館も勾玉や石とかスピリチュアルというかシャーマニックな感じが凄いし。まあいいや。

そんなわけで、天照さんと大国主さんは本心でどんな関係性なのかわかんないから、自分が伊勢系列なのか出雲系列なのか知りたくて、とりあえず両方参拝している感じですね。年始だから顔出しするか、でも島根まではいけないから東京の方に行ってみようって感じ。

高級タウンの端の方でこじんまりとしてました。鳥居もなかったんだよね。縄?はあったから鳥居扱いしてみたけど。小さい縦長の建物でした。下調べしてたから驚かなかったけど、建物の中の神社は初めてかも。

メジャーなお守りは多分島根と一緒なのかな。でも先述したように「御朱印帳」とだけ書いてある御朱印帳みたいなのしか売ってなかった。島根の方が展開してるかも。島根で11月に神在月限定のお守りと縁結びのお守りを買ったので、厄除御守だけ買いました。

社務所のインターフォンを押して御朱印を貰いました。金額を云われなかったので500円渡しました。順番待ちもなくその場で手際よく書いてくれたのですが、ハンコ3つと筆遣いと今までで一番かっこいいページですね。

おみくじは正月限定があったのでついひいちゃいました。もうやめろって。金色の紙で出来ていました。末吉でした。普通のおみくじもありましたけどもうやめました。

まあ、まだ顔出ししておきたい神社があるので、どっか行ったらどうせ引くと思います。同じ神社で1年間大吉引き続けた年もあるんで。でも人生は暗黒だったので大吉引くのに運気使ってんですよね多分。

面白いなと思ったのは、全部のおみくじが「人の云うことに左右されずに自分の気持ちをしっかり持って、でも長い目を持つこと、ちゃんと療養を取ること」って言ってたことなんですよね。大吉と末吉だけ引き続けるのも面白いし。

今年の身の振り方は非常に悩んでて、正直また人の機嫌とって生きた方が、しんどいけど、理解を得る為に時間もかかるし、しんどい思いをするより楽なのかなと思ったりしてて。それに対して必死で「チギャウチギャウ!」って云ってくれてる感じがしましたね。

1月中に行きたい神社

報徳二宮神社

現人神を祀っているところでは、こんな頻繁に行くところもないかなと。

なんで頻繁に行くかというと、人生に嫌気が差すと箱根の温泉に入るために小田原のビジホを取るからですね。で、いつも嫌気がさしてるからね。

居心地も雰囲気もめっちゃ良くて元から風情が半端ないんですけど、ここ数年で観光にめちゃくちゃ力入れて、センス抜群でそれも含めて好きな場所ですね。ただ、上記の「神社特有の鳥肌や涙」みたいな心地よさより、もう少し「お気に入りの本屋さん」とかそういう感覚に近いですね。

御神祭は、わかるのかな、二宮尊徳さん(現人神)ですね。二宮金次郎って云えば通じてたけど。去年か一昨年辺りに尊徳記念館で勉強してきたけれど、今ってマジで金次郎像がない学校が殆どなんだってね。

薪を背負って本読んでる銅像の人ですね。実際は休憩する時に本を読んでたらしいです。勉強がしたいけど、仕事で勉強する時間が無くて、でも夜に火をつけるお金が無かったから油を作ったとかさ。川の氾濫が酷いから、松の木をいっぱい植えたとか、めちゃくちゃ凄い人でさ。

戦後に「天皇崇拝の団結力やべえ」ってGHQが教科書から古事記を消すとか、他にも政治とか色々制限を設けて、その中の一つにお札に人を刷ってはいけないという決まりがあったんだけど尊徳さんは1円札に刷られたのよ。なんで許可が出たかというと、農民出身だったから。wikiのリンク張っときますね。

数々の名言があって、そのどれもが素晴らしいんだけど中でも「経済なき道徳は戯言であり、道徳なき経済は犯罪である」って言葉が好きで。何かしらの力を持つと本質を見失いがちになるし、人間においての本質って己の道徳心だと思うんだよね。

「この人はこれを成しました」って、云われても「歴史に貢献してくれてありがとう」くらいになるけど。二宮尊徳に関しては日本人が忘れた日本人らしさの塊って感じがして、自分を律するために忘れないようにしたい。

死ぬ間際に自分の人生を振り返って、その場の失敗とかの意味の恥じゃなくて「己の人生を見た時に、己が恥ずかしくないか」って重要だと思うんだよね。どんなに物質的に落ちぶれたとしても、そんな後悔だけは絶対にごめんだとずっと思ってる。

なんかこう、記念館で凄く詳しく聞いて、めちゃくちゃ感動すると同時にどうして必修科目じゃねえんだと思ったんだよね。おじいさんが、それこそネットに載ってないようなことを沢山話してくれるんだけど、それが受け継がれていくためのシステムがないことを非常に憂いたんだけどさ。

結局、忘れてった自分が悔しいんだよな。加齢じゃなくて薬か病気のどっちかが記憶力を鈍化させてる。でも、学びたいことは沢山あって、大人が子供に「大人になったら勉強したくてもできないんだから」というのはこれかと思うんだけど。子供に「勉強させる」んじゃなくて、子供が興味を持つことへの情報収集と思考を応援する、のが自然と勉強になると思うよ。

もう何の話かわかんない。良いところですマジで。

観光案内(蛇足)

東横取って、駅ビルの屋上の直通エレベーターの箱根温泉の無料足湯入って、屋外フードコートで鰺のからあげとか焼き蒲鉾買って、ちぼりのご当地お菓子買えばコスパが異常なんで。

スケジュールはどうでもいいけど、大涌谷に行くもよし、湯本駅前で湯もち食って日帰り温泉行くも良し。小田原城観光するもよし。駅ビルがこれでもかって位複合してるし。

ロマンスカー使えば安くて楽でよりコスパがめちゃくちゃ良い。で、なんなら海老名の東横とか取って、ロマンスカー博物館行くのもめちゃくちゃ楽しい。昔のロマンスカーがめっちゃ飾られてるし、ジオラマエリアとか最新技術を投入しすぎて凄い。ららぽやビナガーデンやビナウォークや楽しい。

神奈川にいた頃も、親に引きずられないと東京行かなかったし、ほぼ唯一年何回も東京を通って行ってたディズニーも、東京に来てから1回も行ってない。で、外に出ないし、神奈川や島根や埼玉観光してしまむらを見つけると別に人生の中でしまむらに行ってないけどテンションが上がる。

ひょっとして区民向いてない・・・?

いつか凄くちゃんとした、小田原を拠点にするとどれだけ観光が楽なのかという記事書きたいですね。

JRと小田急と箱根登山鉄道と大雄山線が交わる場所なんで。海にも行ける、山にも行ける、温泉も数種類行ける、真の田舎に行けるという首都圏グレーゾーン。

本当に書き疲れた。御朱印やお守りの画像載せるつもりだったけど、めんどくさいからやめます。以上。

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