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【ダンスミュージック史】EDMがダサいと思ってる人へ

2010年代のEDMブームと2020年代のパンデミック。世界は狂乱の渦の中へと巻き込まれました。もう一度あのライブへ戻り、あの一体感を分かち合いたいですね。

そのために4つ打ち(Four on the floor)という軽視されがちなリズムの歴史と奥深さを改めて感じてもらい、「爆音でバカ騒ぎしたい奴らの音楽」という認識を覆していただければ嬉しいです。


まずは基礎知識の確認から

4分音符とは何か♩

4分音符とは「音符の王様」です。

西洋音楽教育では「♩= one beat」と教えらます。
つまり心臓が出す鼓動一つひとつが4分音符を奏でており、普段歩くときの一歩一歩が4分音符を放っているというわけです。

その際、たまたま偶然バスドラムをキックし続けると鳴るのが4つ打ちです。


テンポとは何か

テンポは一般に一分間のビートの数で図られるもので、医学においては心拍数(脈拍)、運動科学においてはケイデンス(歩行率、ピッチ)、音楽においてはBPM(Beats per Minutes)と表現されます。

心拍数は成人の通常時60~80であり、ウォーキング時には120前後、ランニングで150以上へと移行していきます。

ケイデンスはウォーキングでは120前後、ランニングでは140~180以上へと移動していきます。

音楽のノリ方には大きく縦ノリと横ノリが存在しています。身体をゆったりと横へ動かす動きはヒップホップやレゲエなど60~100のジャンルで多くみられます。一方で飛び跳ねたりヘドバンをする縦の動きは、メタルやドラムンベースなど150以上のジャンルで広くみられます。


同期現象によるリラクゼーション

心拍や運動リズム、音楽のテンポの同期現象については、多くの学術的研究がなされています。同期が誘発されることで副交感神経が優位に働いたり、呼吸のリズムへも影響を及ぼすことがわかってきています。

2016年に公開された映画「WE ARE YOUR FRIENDS」では128bpmはマジックナンバーと呼ばれ、縦ノリと横ノリを自在に行き来でき、さらには心拍数と最も同期させることができるテンポなのだと説明されています。


EDM批判が起こる理由とは

◆ダサい音楽
商業的な成功を大いに収めたEDMですが、稚拙で幼稚な音楽と表現されることもしばしばあります。

確かにクラシックやジャズのような高度な音楽理論は用いませんし、ロックのように感情のこもった生演奏をすることもなく、ヒップホップのようにメッセージ性に溢れたラップを披露することもありません。

しかし果たして本当にそれだけで幼稚な音楽なのでしょうか?

◆機能性を求めた音楽
ダンスミュージックは芸術性以上に、機能性もしくはデザイン性を追求した音楽です。そのためドラマーにとってヨダレが出るような複雑な変拍子やポリリズムなどは基本的には用いません。なぜならダンスというフロアの共体験を著しく乱してしまうからです。

かつてのダンスミュージックだったジャズが、芸術性の高いビバップやフリージャズへ傾倒し、大衆性を失ったことからも、この選択は一理あることがわかります。


しかし現代のダンスミュージックは多くのドラマーやDJの貢献なくして成立しなかったものでした。


4つ打ちの歴史

バスドラムで基盤となる一定のリズムを奏でるものは古くから存在していました。

4つ打ちというリズムの歴史は、以前まで見てきたドラムやジャズの歴史と交差しながらも、アメリカ史に沿った縦の歴史ではなく、各地域ごとの横の歴史が繋がりあったものです。


まずは13世紀ごろのクラシカルなダンスミュージックを見てみましょう。

◆マーチ(行進曲)

クラシックにおけるダンスミュージックは、ワルツ系とマーチ系に二分されます。

ワルツ(円舞曲)は、13世紀ごろ西オーストリア・南ドイツを発祥とし、「回る」を語源とした男女が踊る音楽でした。そのため緩やかな流れを生み出す3拍子で演奏されました。

一方でマーチ(行進曲)も13世紀頃オスマン帝国の軍楽隊を起源としており、軍隊の行進を意識した2拍子で演奏されました。打楽器にはkös(巨大なティンパニー)やdavul(両面叩ける肩掛け式のバスドラム)が使われ、のちのドラムセット開発に多大なる影響を与えました。

さらに18世紀ごろにフランスでは、軍事パレードが社交ダンスと結びつきはじめカドリーユという2拍子系のダンスミュージックへと変化しました。

クラシックというと優美なメロディとハーモニーが特徴ですが、聴衆のあり方を意識してデザインされたリズムを多く開発してきたことが伺えます。


◆セカンド・ライン(ジャズ・フューネラル)

南北戦争が終了し、ジャズの発祥地であるアメリカ南部のニューオーリンズでは、葬式でパレードを行う風習が生まれました。遺族をファースト・ライン、ブラスバンドをセカンド・ラインと呼びます。

棺桶を墓まで運ぶ道のりでは、アメイジング・グレイスや聖者の行進などの賛美歌黒人霊歌を演奏します。

そして土葬をした後に帰り道では、遺族もみんなして陽気な明るい曲で踊りながら帰っていきます。ヨーロッパ音楽とアフリカ音楽が融合したこの風習は、ジャズやR&B、ファンクなどアメリカ音楽へ大きな影響を与えました。


◆ディスコ

アメリカ北部のデトロイトでは、1959年にモータウンが設立され,、マーヴィン・ゲイ(Marvin Gaye)やスティービー・ワンダー(Stevie Wonder)など白人マーケットにも影響力を持つソウル、R&Bアーティストが誕生しました。

またモータウンサウンドにおける洗練されたリズムはモータウンビートとも呼ばれ、ジェームズ・ギャドソン(James Gadson)などのドラマーによって今まで演奏され続けました。


1970年代に入るとモータウンからソウルの中心地は移り、後のハウスミュージックにも影響を与えるフィリー・ソウル(北東部の都市フィラデルフィアのソウル)が誕生しました。


そしてフィリー・ソウルのスタジオ・ミュージシャンバンドMFSBのメンバー、アール・ヤング(Earl Young)が1973年に、Harold Melvin & The Blue Notesの「The Love I Lost」をレコーディングした際にモータウンビートを参考にして4つ打ちのディスコビートが生まれたと言われています。


ディスコはフランスが発祥で1960年代にアメリカへ伝わりました。当初のディスコはジャズバンドの代わりとしてレコードをかけるパーティでしたが、徐々にファンクやソウルをかけるように変わっていきました。

1970年代後半からは12インチレコードが登場し、ドナ・サマー(Donna Summer)などの楽曲が、ディスコでかけるために長時間踊れ、かつDJがミックスしやすい形へと、拡張(Extended)やリミックス(Remix)されたレコードが登場しはじめます。


しかしディスコブームの到来はすべての人に祝福されたわけではありませんでした。ディスコは黒人、ラティーノ、同性愛者などのマイノリティの象徴的カルチャーでもあったため、人種差別やホモフォビア(同性愛嫌悪)の標的とされ、保守的な白人の多いロックファンを巻き込む形で反ディスコ・ムーブメントは展開されました。

1979年には「Disco Demolition Night」というシカゴの野球スタジアムでディスコレコードを爆破するというイベントに、7万5000近くの人が押し寄せました。「DISCO SUCKS!!」という声と共に、ディスコブームは終焉しました。


◆ハウス・ミュージック

1977年にニューヨークでは最新のクラブ「Paradise Garage」が登場し、そこでプレイしていたラリー・レヴァン(Larry Levan)は選曲を非常に重視していました。彼がプレイしたレコードたちはガラージュ(Garage)と呼ばれました。

しかしゲイの間でのHIV・エイズ蔓延に伴ってパラダイス・ガラージュは閉店し、ガラージュはニューヨークで姿を潜めていきました。


ラリー・レヴァンの幼馴染だったフランキー・ナックルズ(Frankie Knuckles)は、Disco Demoliationが起こる直前の1977年にシカゴへ行き「The Warehouse」で音楽監督を務めました。彼がニューヨークから持ち込んだ楽曲もクラブ名からハウスという名前でレコード店で紹介されていました。

さらに1980年にはアナログ合成による独特な音色のドラムマシン、RolandのTR-808が登場しました。


ジェシー・サンダース(Jesse Saunders)やマーシャル・ジェファーソン(Marshall Jefferson)など、シカゴのDJたちはドラムをプログラムすることでシカゴ・ハウスをつくりました。ハウスの特徴的なハンドクラップ音や重低音など、TR-808に搭載されたことで、リズムを最重要視したクラブシーンで今まで続く特徴的サウンドが形成され始めました。


◆テクノ

さらに1983年に発売されたTR-909ではシンバルをサンプリングするなどして改良されました。しかしTR-808が発売当初からYMOやPublic Enemyなど多ジャンルで注目されていたのに対し、TR-909は活用先が見つかっていませんでした。



デリック・メイ(Derrick May)、ホアン・アトキンス(Juan Atkins)、ケビン・サンダーソン(Kevin Saunderson)らはデトロイトのクラブへ持ち込み、デトロイト・テクノを確立していきます。そしてTR-909はファンキーな黒人らしいリズムを、ドイツのクラフトワーク(Kraftwerk)らのようなヨーロッパサウンドへと近づけることに成功し、ハウス・テクノシーンで最重要の名機となりました。


◆レイブ・カルチャー

1982年にはTB-303というベースのループを作れるシンセが誕生しました。フィルターをいじることで出る幻想的な音色が注目を集め、シカゴとロンドンなどを中心としたアシッド・ハウスの流れが登場します。



それらはヒッピー文化などの快楽主義や、LSDやMDMAなどのドラック文化とつながり、イギリスではセカンド・サマー・オブ・ラブ(The Second Summer of Love)という非合法に場所を占拠してパーティを行うレイブの流行が起きました。

そして1989年のベルリンの壁崩壊を契機として、東西が統一されたドイツがテクノの聖地となり、ラブパレード(Love Parade)という世界最大のレイブパーティが催されるようになりました。

しかし非合法性を強くもったレイブの流れは規制が強くなり、新聞では「アシッドという娘たちを殺す悪魔のカルトを禁止しろ」と報道され、徐々にアンダーグラウンドへと戻っていくこととなります。

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◆DJ Mag Top 100 DJs

1992年にイングランドのDJ、ポール・オーケンフォールド(Paul Oakenfold)は、アイルランドのロックバンド、U2の楽曲をリミックスし、本家よりも高いチャートを獲得しました。

そしてDJ MagやMixmagなどのメディアとの協力をしながら、彼はスターDJとしての地位を確立していきました。

さらにポップミュージックとも接近しはじめ、ファットボーイ・スリム(FatBoy Slim)はイギリスのロックシーンやアメリカのポップスを巻き込んだ人気を勝ち取り、2002年には25万にも及ぶビーチでのライブを開催しました。


DJ MagによるスターDJの世界番付が1991年からはじまり、DJの地位は年々上昇していきました。Top 100 DJsは多くのDJから人気投票だとブーイングを集めていますが、「子供を殺すカルト」とまで言われたシーンを健全な形で商業的に復興させる大きな役割を果たしたことは間違いありません。


◆ハウスの派生

ディープ・ハウス、ハードハウス、イタロハウス、ユーロダンス、UKガラージなど様々な派生をする中で、ハウス由来の4つ打ちがヨーロッパのチャートを賑わせ始めました。


◆トランス

綺羅びやかなサウンドが席巻するハウスシーンと打って変わり、レイヴやアシッドハウスの流れや、ドイツを中心としたハードコアテクノの流れから1990年代初頭に登場したのがトランスです。

BPM135~150の疾走感のあるテンポではもはやブラックミュージック由来のビートの姿は消え去り、よりヨーロッパらしいクラシックな荘厳さを獲得しました。

そしてコンサートの指揮者のごとく会場を支配するDJの姿はヨーロッパで絶大な指示を獲得し、オランダ出身のDJ、ティエスト(Tiësto)は2004年に夏季アテネ・オリンピックの開会式でプレイするまでになりました。


◆EDM

ヨーロッパで絶大な人気を誇ったダンスミュージックでしたが、アメリカでは見向きもされていませんでした。そこでヨーロッパのDJはアメリカに進出するため、アメリカで人気のR&BシンガーやHIPHOPのラッパーを起用してエレクトロ・ハウスを歌わせることで確立したのがEDM(Electronic Dance Music)です。

フランスのDJ、デイビッド・ゲッタ(David Getta)は2004年にヒップホップグループのブラック・アイド・ピーズ(Black Eyed Peas)や、R&Bシンガーのケリー・ローランド(Kelly Rowland)らと協力して世界的大ヒットを数多く飛ばしました。

さらに2010年代にはスウェーデンのDJ、アヴィーチー(Avicii)はアメリカの白人に根強い人気を誇るカントリーやフォークとEDMを接続し、さらにプログレッシブハウスにエタ・ジェームズ(Etta James)のようなゴスペル色の強いブルース曲をサンプリングするなど、EDMシーンへ多大なる影響を与え、ブームの火付け役としてだけでなく、アーティストとして世界的な人気を獲得しました。

歌手やラッパーが中心だったアメリカの音楽業界において、歌も演奏も行わないDJがヨーロッパのように人気を獲得し国民的アーティストと認められる現象はまさに革命でした。

さらにウルトラ(Ultra Music Festival)のようなマイアミで行われる都市型の大規模フェスと結びつき、ビックルームハウス、ダブステップ、ハードスタイルなどをまとめた流行のキーワードとしてEDMという言葉がアメリカに根付きました。


◆ポストEDM

世界の音楽業界を100年近く牽引したアメリカにダンスミュージックを再び根付かせることが成功しました。けれどその急激な拡大による反動も大きいものでした。

2018年4月
Aviciiの自殺に世界が震撼
2018年9月
同世代で大活躍したHardwellは活動休止を発表


最盛期を超えてしまったシーンでは、徐々にファンクやヒップホップへの接近であったり、テクノへの回帰が図られていきました。それは冒頭で紹介した、ハウスミュージックにおける縦ノリと横ノリの同居性を再獲得するためです。

初期からEDMを牽引していたスコットランドのDJ、カルヴィン・ハリス(Calvin Harris)は、2010年代最重要アルバム「Blonde」を発表したフランク・オーシャン(Frank Ocean)をいち早く採用し2017年以降のファンク系へ路線変更を図りました。


2017年のウルトラではいち早くFutureを始めとしたヒップホップアーティストを呼び込み、大トリをEDMトラップを中心としたフランスのDJ SNAKEを起用するなど変化を進めていました。


2018年にはオーストラリア出身のDJ、フィッシャー(Fisher)の「Losing it」が影響しテックハウスも大流行しました。


EDMの生みの親であるデイビッド・ゲッタはテックハウスに寄っていき、2019年頃からはレイヴを復活させようとして、デンマーク出身のモーテン(MORTEN)と組みフューチャー・レイヴを流行らせました。


◆アジア出身者や女性が台頭

かつてからスティーブ・アオキ(Steve Aoki)や、ナーヴォ(NERVO)などEDMシーンでアジアにルーツがあったり女性で活躍する人々はいましたが、ポストEDM以降はより顕著に見うけられます。

そして冷やかしでもお飾りでもなく、彼らはみな紛れもない実力者です。


ベルギー出身のシャーロット・デ・ウィット(Charlotte de Witte)は音楽業界での女性差別を訴えながらもテクノシーンで大活躍しています。トゥモローランド(Tomorrowland)では、EDMファンの多いメインステージにも関わらずテクノをプレイし大成功しました。


チャイニーズ系アメリカ人のチュー(ZHU)は、SkrillexやDJ SNAKE、Tchamiなどと共にハウスやベースミュージック志向の強い楽曲を手掛ける一方で、R&Bやレゲエ、オリエンタルなメロディなどジャンルの垣根を超えた楽曲を広く模索しています。


韓国出身のペギー・グー(Peggy Gou)は差別を乗り越えるのは成功することだと自身のバイタリティでもって活躍の幅を広げています。


同じく韓国出身のイェジ(Yaeji)は、多ジャンルからの影響を感じさせる個性あふれた浮遊感のあるサウンドを展開し、人種性別関係なく空間の全ての人が混ぜられてるような混沌とした空間をみせてくれます。



ダンスミュージック

EDMという言葉は、流行とともに作られた不安定なものでした。徐々にその枠組は取り払われ始め、本来の実験的に変化し続けるジャンルへと戻り、多くの次世代アーティストが誕生しています。

しかし変化が起こり始めた中、ダンスフロアは閉鎖されその音楽の果たすべき機能先はどこかへ消えてしまいました。

世界中を飛び回り、精神的負荷の大きかったDJたちも、2020年はまったく違った年を過ごしたことでしょう。

パンデミック後の世界は、ベルリンの壁のように個々の仕切りが取り払われ、きっと一緒に踊れることを願っています!


よむよむ。


ここで紹介しきれなかった、4つ打ちでないブレイクビーツなどを含むダンスミュージックはこちらで詳しく述べています。

ディスコからの流れとは異なる、ドラムンベースなどの歴史的な流れが含まれているため、合わせてどうぞ。



ダンスミュージックのさらに細かい分類やつながりを知りたい方はこちらを参考にしてみてください。




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