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三冠王、食を語る。 #落合博満『戦士の食卓』を読む

球史に輝く三冠王にして名監督・落合博満さんの最新の著作『戦士の食卓』を読みました。落合を信じろ。

オチシン」というネットスラングがある。在りし日の2ちゃんねるの発祥で、元プロ野球選手・監督【落合博満】の【信者】を表す言葉だ。中日ドラゴンズ監督時代に出来た言葉なので、主に落合監督の指揮を指示し擁護するファンを指して用いられた。

何を隠そう、自分もオチシンの一人だ。いや、思うに '04年~'11年の落合監督時代を経験した中日ファンは、オチシン寄りの人が多数ではないか。ネットで用いられる「●●信者」的な表現は、あるファン層を別の党派から非難するための誇張でしかない場合も多い。しかし「オチシン」に関しては当時、少なくない中日ファンが落合を実際に「信じて」いた。チーム状況が下向いたときでも重要な一戦を落としそうなときでも「落合なら何とかしてくれる」、そのくらいの強固な信奉を持った上で、前向きにワクワクしながらプロ野球を観ていた。「落合を信じろ」というネットスラングもある。

何といっても落合(本稿では敬称略にさせていただきます)と言えば、現役時代は三度の三冠王に輝いた、日本プロ野球初の一億円プレーヤー。監督としては計四度の優勝、球団史上53年ぶりの日本一を果たしている。監督初年度 '04年、「現有戦力の底上げ」を掲げ、派手な補強に頼らず練習強度の向上とチームとしての戦術戦略の徹底により、いきなりリーグ優勝。'07年日本シリーズ、完全試合目前の先発山井を敢えて切り替えて九回を絶対守護神岩瀬に託した、ソリッドな采配。監督最終年の '11年、親会社幹部からの排斥に遭いながらチームを奮起させ、最大10ゲームあった首位との差をひっくり返した劇的な優勝。それらは、今だに記憶鮮明だ(なお、中日ゼネラルマネージャー時代のことは、自分が仕事が多忙だったせいか覚えていないのです)。

彼の置かれた立場やキャラクターも、そのカリスマ性を引き立たせている。ペナントで凌ぎを削るのは、金満補強を繰り返すスター軍団ジャイアンツ、率いるのはスポーツマンシップに溢れた陽性の野球エリート・球界の若大将こと原辰徳だ。実力はあっても決して華やかとは言えないドラゴンズナインを率い、守備力堅固でシュートスタイルな野球を以て巨人に対抗する落合は、まさにダークヒーロー当時中学~高校生だった若いファン世代には直撃だったし、長年一方的に巨人の好敵手を自負してきた歴戦の中日ファンからしても、喝采ものだったろう。実際のところ、当時の巨人は育成にも優れていたし、原辰徳監督も実像としては葛藤や挫折の末に栄光を掴んだ魅力的な野球人なのだけれど、それはまた別の話。

ダークヒーローであるからには、マスコミにも不必要な愛想は振り撒かない。不勉強なメディアの質問には答えないし、常態化していた先発投手の漏洩もシャットアウト。巨人に大差で優勝を許してしまった '09年には、普通はシーズン終了ということで他チームの監督であっても賛辞を述べるところ、すぐに始まるクライマックスシリーズを見据えて「みくびるな」の一言。結果そのシリーズは惨敗だったが、翌年と翌々年は球団初となる連覇を決めている。

とまぁ、そんな具合に「オチシン」がオタク特有の早口トークを繰り広げてしまうほどの存在、それが落合博満だ。

先日、落合の著作『戦士の食卓』('21年、岩波書店)が出版された。球史に輝く名選手名監督だけあって、落合は今まで沢山の著作(CDも!)を出版しているが、今回の本のテーマは「食」だ。本作はスタジオジブリ出版部の雑誌『熱風』に連載したエッセイをまとめたもの。鈴木敏夫プロデューサーは熱心な中日ファンで、過去にも落合は『戦士の休息』('13年、岩波書店)という映画がテーマのエッセイ集を同誌発で出版している。

本作は連載回数に基づく12章から成り立っていて、食に関する落合の随想が、幼少期・現役・監督生活から現在に至るエピソードを交えつつ語られる。回毎のタイトルを並べると「『心技体』ではなく『体技心』」「現役生活を誰よりも長く続けるための食事」といった野球OBらしいテーマから「息子と孫たちへの食育」「偉大な食の主役・漬け物」等、多様だ。野球人落合を知らない人でも楽しく読めると思う。

食に関するエッセイというと、美食家が自分の信念に基づいて食の在り方を指南したり、スノッブな食の蘊蓄を披露する内容が想像されがちかもしれない。しかし本作で語られる「食」の話は実に素直だと感じた。まず冒頭から一貫しているのは、食事とは本来「生きるため」のものであるという落合の定義だ。彼自身、それは戦後期の秋田という彼の生育環境にも依っているとした上で、現代日本の食の消費の在り方や若いアスリートのプラグマティックな食との付き合い方には距離を感じつつも、取り立てて否定することはしない。ただ落合の感覚としては、美食を追求したり或いは種々のデータに左右されることよりも、まずは「出されたものを食べる」、選べる状況では「好きなものを好きなように食べる」ことを是としているようだ。

上記のような考え方に触れて改めて感じたのは、落合博満という人物の根幹にある素直な感性だ。思えば、監督時代の落合は「何を考えているかわからない曲者」「油断すれば裏をかいてくる謀将」というパブリック・イメージがあった。しかし実際のところ、彼の哲学は「一試合の勝敗よりも144試合を通じて何勝を確保できるか」「練習の徹底によるミスの抑止と戦術理解の向上」「チーム事情を安易に外部に話さない」といった、非常に基礎に忠実な根幹をもっている(このあたりについてはオチシンのバイブル的著作『采配』[ '11年、ダイヤモンド社 ] に詳しい)。その姿勢に通ずるものが、食に関する文章からも端々に伝わってくる。ドグマを持たない。架空のロマンに囚われない。実現不可能な理屈を追わない。素朴で居続けて「何のために、何をするか」素直な思考回路で物事を判断していくことは、とても難しいことだと思う。

回毎に挟まれる、原稿の打合せ時にジブリスタッフと料理店を訪れた際の、料理の描写も出色だ。

今回そのご主人に勧められた三キロ半くらいの大ぶりなメヌケは、カマのあたりを厚く切ってもらった。キンキやノドグロよりも脂がのっており、重さを感じさせない上品な脂だった。また、毎月のように私以外のスタッフが愉しんでいるホオズキを、どんなものかと一つもらうと、これがなかなかのアクセントになる。

決して誇張や華やかな修飾があるわけではない。しかし、何とも涎が出てきそうな描写だ。

本書に関して欠かすことのできない要素が、信子夫人による執筆パートである。恐らく私より少し上の世代の方はテレビ等でも見知っているだろうか、落合の9歳年上の奥方だ。なんと本書は30%くらいを信子夫人が執筆している。なぜノンクレジットなのか。ともかく信子夫人のファンは絶対に買うべき本だ。

夫人の口から語られるのは、彼女が如何にして選手落合を食の面から支え、三冠王に育て上げたかの一代記だ。冒頭や随所で「秋田の米があれば満足」的なことを語る落合だが、夫人と出会った頃は野菜嫌いでインスタント麺好き、さらにはジュースの素を白米にかけて食べる(!?)ことを常とする問題児だったらしい。そんな偏食を直すために、夫人は落合を夕食の買い出しに連れ出し、稼いだお金が多様な食材に変わる過程を意識づける。またある時は、野球選手の食生活を知るために遠征に同行し、そこで好んで食べられていた台湾料理に着想を得て食卓に取り入れる。

言葉にすれば簡単だが、身体が文字通り資本となる野球選手の立場を考えるとシリアスな努力があったことと思う。何度かメディアで拝見した二人の仲睦まじい姿を想起すると微笑ましくもあり、NHKの朝ドラにでもして、映像で観たいようなエピソードだ。落合パートでも、随所に夫人の料理への感謝が述べられる。食事を通じた息子(こちらもかつてメディアを賑わせ、今は声優として成功している福嗣君だ)や孫との関わりにも心暖まった。和歌山の落合記念館は畑を併設しており、福嗣君への食育の場でもあったらしい。

経験や知識を自分のものとして体得するという意味で「血肉にする」という言い回しがある。食べ物が文字通り血を作り肉体を作るのと同様に、落合と信子夫人が「食」というものに率直に丁寧に向き合ってきた道筋は、選手・監督としての成功、社会的なプレッシャーを乗り越える強かさ、そして現在の穏やかな生活を形成した根源のようにも感じる。

この note は主にビールのことについて書いているわけで、その点でいうと『戦士の食卓』でも「酒の効用」という一章を割いて、酒との関わりについて書いている。

往年のプロ野球選手のご多分に漏れず、現役時代はかなりの酒豪だったようだ。ビールは大瓶で37本、日本酒は酒蔵で清酒を二升・・・と、度を越した量を飲んだエピソードも書かれているが、現役中盤以降は量を控えるようになっているそうだ。世代間コミュニケーションに関してしばしば話題になる「飲み会」の在り方についても触れていて、嫌な酒に付き合うような必要はないが、先達の技術や考えを知られる機会は活かすべきというスタンス。

最近の一杯目はビールのようだが本来は焼酎が好みのようで、地元秋田のホテルで芋焼酎「だんぶり長者」を飲み、その名前の由来の昔話に触れた感想が下記。

久しぶりの郷里で、子供の頃に使っていた「だんぶり」という言葉を観て、こんな昔話があったことを初めて知る。『だんぶり長者』という芋焼酎もなかなかの味わいで、飲みながら昔のことを思い出したりした。私にとって酒というのは、いつしか人生の中に当たり前のようにあるもの、白飯とともに殊に夕食には欠かせないものである。

前述したように、落合の魅力は素朴で率直な考え方に、その本質があると思う。そういう人間からこぼれでる一片の詩情は、打算と自己演出に満ちた百万の修辞表現よりも、美しく心に響く。三冠王の食エッセイ、自分の感性の視座をニュートラルに戻す意味でも、折に触れて再読したいと思った。

以上、オチシンキモキモ日記でした。

あんまり関係ない話。

最近飲んだ銘柄だと、伊勢角屋麦酒の24週年記念が大変美味しかったです。古き良きアメリカンペールエール。アメリカナイズされたイギリス起源スタイルに「古き良き」って使いづらいですが、アメリカンペールエールとしてのそれを感じさせる美味しいビールでした。

以上


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