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ひとりのクリスマスに寄せて。

今年のクリスマスはひとり。
子供達は父親の家に行っている。

ヨーロッパでは、クリスマスは家族と過ごす時間の代表選手なので、こんな日に独りなどと言うと、たぶん盛大に憐れみを買ってしまう。
ひっそりとしていたけれど、心までひっそりしないようにしたい。

離婚家庭というのは、こういう行事をどう乗り越えているのかな?と思う。

ドイツも離婚は多く、しかし共同親権が普通なので父親と母親の家を行ったり来たりするケースが多い。
けれども近年の研究から、子供というのは一か所に拠点を置きたいもので、二家庭を行き来するのは、子供の成長にあまりよくない、という話も聞く。

あと男親、女親 互いに向こうが、躾や言うべきことを言っているだろう・・・と考え、実は両方が子供に向き合っておらず躾に失敗するというケースがあると、忠告を受けたこともある。

我が家は、日本語教育のこともあり最初から半々にすることは出来ないと言っている。
子供3人は土曜日に日本語補習校に通っており、1週間分の宿題はなかなかの量になる。

補習校は、基本的に日本の文科省の定める教育要綱に則って授業が進められる。
国語3時間、算数1時間だがその学年で履修する単元を学ぶため、特に漢字学習が大変で、毎週新しい漢字を7,8個ずつ憶えていかなればならない。

※バイリンガル教育については、別の記事で詳しく書きたいと思います。


初めて自力でもみの木を買う

先日、子供達ともみの木を買いに行った。
去年までは元夫にお願いしていたが、これが秋くらいからプレッシャーになっていた。
自分で買いに行かないと・・・と。

毎年、彼にお願いするのは気が重いし、自分でできることを増やしていかなければ、というのが今年の隠れた目標でもあった。

今年は外のイルミネーションもほとんど自分で行った。
ドイツ人は、家の中を整えることに深い情熱を注ぐ。
たぶん毎日の炊事はかなり適当と思われるが、例えば「芝刈り」「窓ふき」「手作りケーキ」「玄関先のイルミネーション(イエナリエ)」は恒例行事、みな率先してやっている印象がある。

芝刈りをサボると隣接する隣人から文句が入ったり、「あそこのお家どうしたんだろうね・・・?」と噂の対象になったりするらしい。

だから“芝がいつもほど良く刈られ”  “窓ガラスがピカピカの家 ” は、「ちゃんとした家」という認識を持たれる。
“手作りケーキ”は主婦のたしなみ。
“イエナリエ”もやっぱり対外的にも、余裕がある印象、豊かな生活に繫がる気がする。

特に長い冬の間は、家の中に重点が置かれる傾向が強まる。

窓ガラスは曇っていると光が入りにくいという、「日照不足」ゆえの太陽光線への憧れという理由があるのだが、家周りのことをきちんとするということはとても大切なことなんだ、ということを在独十数年を経て私も体感で理解できるようになってきた。

寒く暗い冬のために、家を温かい光で包んだり、もみの木を飾りクリスマスの到来を楽しみに待つというのは、子供がいる家庭ではマストなことだ。

そういう「季節的なものを大事にして楽しむ」ということが長年できないできた。

産後ウツや、子育てをしながらドイツに住むということ、自分のキャリアのこと、夫の不倫問題・・・

様々なことがあって、そういう生活の愉しみということから遠い所にいる自覚はあったものの、如何ともし難いものがあった。
それが少しずつ、そういうことにも目が向くようになり、少しは成長しているんだなぁと思う。

「もみの木買い」を自分でやる、ということは私にとって大きなことだった。

調べると家から12キロくらいの所に、もみの木を買える所があるらしい。
ナビを頼りに車を走らせると、住宅街に隣接しているところにもみの木農場が広がっていた。

沢山の人がもみの木を物色中で、混み具合もなかなかのものだった。

気に入ったもみの木を見つけて長さを計って貰う。
この段になって、お財布にお金が全然入っていないことに気づいて焦ることになった。

ドイツはデビッドカードで買い物できるところが多く、日頃からあまり財布の中身を気にしない癖がついてしまっていた。
おそるおそる聞くと、読み取り機がないからカードは使えないとのこと。

そりゃそうだろうなぁ、、、と急遽近くの銀行へ。
迷いながら着いたその銀行は、他銀行だったので手数料が5ユーロちょっと(700円弱)もかかり、自分の間抜けさに呆れた。
取引先の銀行もあると聞いたが、方向音痴な私のこと無駄に走るガソリン代を考えて諦めた。
今後はちゃんと外出時は、お財布を確認しよう・・・と固く誓った。

さて、3メートル近いもみの木を、車まで運ぶのは大変だった。
男の子は二人いても、まだまだ非力だ。
手こずっていたら、親切なよそのお父さんが「手伝おうか?」と声をかけてくれた。
ドイツ人は、困っている人や助けが必要そうな人にはけっこうな頻度で声をかけるという美点がある。
有難くお言葉に甘えて、木を車に運び入れるのを手伝ってもらった。

もみの木とひと悶着


午後からは今年最後の補習校で、当番だった私もいろいろ忙しかった。
学校から帰宅したのは19時で、元夫が子供達を迎えにくることになっていた。
この時点でかなり疲弊していたのだが、この後にたぶん今年最後の喧嘩に発展する事態になろうとは、予測もしていなかった・・・。

ドアの前に転がしておいた木を、リビングまで運びスタンドに立てるのはやはり一人では難しいし、去年までは全部彼任せだったので不安だった。

手伝って欲しいと言うと、

「いや、自分は子供達をピックアップしに来ただけだし、これはキミのクリスマスツリーでしょ」

という返答に、こんな売られた喧嘩は買ってやる!とばかりに猛反撃をした。

「キミのクリスマスツリー」というセリフが一番腹立たしかった。

玄関のドアを閉めて、寒空の下でどういうつもりで、そんな糞みたいな発言をするのかを問い正した。

そもそも、クリスチャンでもなんでもない自分のために、こんな大きいツリーが必要なわけがない。
私のクリスマスツリーではなくって、
「私達の子供」のクリスマスツリーだよね!?

クリスマスに誰もいないのに、なんで私がクリスマスツリーを自分のために買うの?

じゃあ隣人に運ぶのお願いするからイイワヨ!!

と啖呵を切ったが、本気でそうしようと思った。
元夫は、いかに「キミのクリスマスツリー」という単語が禁忌だったか、焦ったことだろう。

逆鱗に触れるというのはこういうことをいうんだろう。私は辰年だし、怒るときは本気で全力で怒る。

そして人には「逆鱗」というものが有ると思う。

逆鱗に触れるの「逆鱗」とは、竜のあごの下にある一枚の逆さまに生えた鱗のこと。
この鱗に触れると、普段はおとなしい竜が怒り、必ず殺されるという伝説から、天子の怒りを買うことを「逆鱗に触れる」と言うようになった。
転じて、上司や先生など、目上の人に逆らって激しい怒りを買う意味でも、「逆鱗に触れる」は用いられるようになった。
竜の怒りが天子の怒りとなるのは、天子が竜にたとえられるためである。

出典は『韓非子(説難)』
語源由来辞典

※ “逆鱗に触れる” は自分に使うことは誤りだそうですがご容赦ください。

孤独について


世間体を気にする彼にとって、玄関先での喧嘩も居心地が悪かっただろう。

ただ私は哀しかった。
長い一日だったし、がんばって選んだもみの木の前で不毛な争いをすることが。
そんな言葉を投げかける向こうの心情が。
情けなかった。

結局は、一緒に運んでもみの木を立てた。
たった10分のことだった。
そして、子供達を連れてあっという間にいなくなった。

独りになって、あらためてもみの木に「ごめんね」と謝った。
子供時代、クリスマスに飾る“本物のもみの木”に、ものすごく憧れたっけ....
大人になって、もみの木を飾ることを毎年する様になるなんて、想像もしなかった。

本来なら楽しいはずのイベントで、こんな気持ちになるのはなぜなんだろう・・・と考えた。
こういうことは別に今回が初めてなわけではない。
期待値が高いからなのか、と悩んだこともあった。

ただ相性が悪いのだろう。
自分らしさが消えていく相手と一緒にいるのは辛い。

一緒にいて感じる孤独は、独りの孤独よりも深くて大きい。

そういう孤独と、私は別れることができた。
ひとりのクリスマスも、だからそんなに悪いものでもない。

ただ子供達が、良い時間を過ごしてほしいなぁと思うだけだ。
過剰に自分が犠牲になるつもりはないが、子供を優先する時間、時代というのは確実に存在するとも思う。

両親が、糞みたいな喧嘩をしている所もあまり見せたくはない。

嬉しかったのは、クリスマスに一緒に過ごせないことを子供達が気にしてくれたことで、彼らの成長を感じた。

親が内心で「屈託を持っている」と子供というのはそれを嗅ぎ取るのだと、先日カウンセラーに教えてもらった。
子供というのは親が隠そうとしても、たとえ表面上は笑顔でも、そういう内心の懊悩というか、ゴチャゴチャを感じ取ってしまうのだそうだ。

恐るべし、と思うが自分の子供の頃を考えたら、やっぱりいろいろ感じていたなぁと思う。
それらを表現できる言葉を持たないだけで、家庭内の空気に敏感だった。
だから私は母としてなるべく晴れやかな気持ちでいたいなぁと思う。

クリスマスイブは、近くに住むシングルマザーのお家に招待された。
彼女はイラン人で政治家だった夫と一緒にドイツに亡命した。
その後、離婚しておりとても苦労している女性だ。
互いに逆境の中で知り合ったが、繋がりを大切にしていきたいなぁと思う。

今年一年はとても長かった。
ロックダウンで始まった2021年、悲喜こもごもあった一年だった。
そんな中で、noteで「書く喜び」を知ったことは、私の人生でとても重要なことだと思う。
ずっと書くことで自分を表現したり、思ったことを書くことに抵抗があった。自分のことを書いてどうするのか・・・?という問いがあった。

そんな自分が、異国で暮らすなかで繋がりの大切さや、その意味を想ったときに、note のような場所が有ることは、本当に大きなことだと感じている。

このオーナメントは昔、ケニアで買いました。
顔の部分にアフリカを感じます。


皆さま、どうぞ良い年の瀬を、そして新しい素敵な年をお迎えください 💗

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