たった一人のリスナーが最後に開いた音声ファイル・・・

今回は辛いお話です
後輩だった、はっちゃんはごくフツーの大学生活を送り、人一倍の努力で就職し、ごくフツーの結婚をした。でもたった一つ違っていたことは医師から不治の難病と宣告されて数年来の寝たきり状態が続いていたことでした。

昼前のひと仕事を終えた机の片隅で、端末のメッセージ着信チャイムが鳴った。はっちゃんの訃報だった。

筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し片足、両足と運動機能が失われ、自発呼吸も困難に。でも視覚も聴覚も健常者と同等なので、かつての編集者仲間や同窓生らが集って、朗読の共有ファイルと、FBにプライベート・グループを立ち上げた。自宅で各々が端末に録音、共有ファイルにアップしたものを介助者が再生してくれる。

新聞等の書評も数多く録音し、その中から読んで欲しい本をはっちゃんにリクエストしてもらった。眼球の動きで透明盤キーボード上の文字をチョイスするのが、たった一つの彼女の伝達手段。それも最近では難しくなったとの由。

「“本読み”は、私を私たらしむもの」

読み聞かせを喜んでくれた本人の弁だ。

「妻は、たとえ身体のどこもかしこも動かなくても、自発呼吸ができなくて人工呼吸器を使っていて声を出せなくても、『私を私でいさせてくれるのが“本読み”』だと言ったのです」・・・・と夫は語る

さすがは編集の第一線で活躍しただけのことは有り、彼女のチョイスは有益なものばかりだった。自分では手に取らなかった様な書籍も数多く手にできたし、話題の新作も読んでみるとどんどん惹き込まれる、彼女のおかげで読書の新たな楽しみを開拓できた気分だった。

10年も前に上梓されていた小説、首都感染はまさしく今日のコロナウィルス禍を的確に予測しており、驚愕しながら読んだ。もっと話題に上るべき作品だ。そして小説の中でのウィルスの結末は・・・・・・・

聞いたこともない新たな試みも。

映画化されて話題を呼んだ「この世界の片隅に」原作はコミックだ。単行本化されているそのページを、表紙から丁寧に情景描写しながら吹き出しのセリフまでをなるべく分かりやすく、聴いただけで想像が膨らむように工夫して読破した。後にも先にもコミックの朗読はこの作品だけ。映画を見て全体像や構成はわかっていたのでさほど困難は感じることなく、楽しい作業だった。

ビートたけしの自伝的作品や文庫化された浅田次郎の大名倒産も楽しかったが、最近では直木賞受賞作の塞王の盾と黒牢城を連続して読んだ。どちらも関西が舞台、懐かしい伊丹や池田の街も題材に上り、両者を比較しながら戦国の世に行ったきり・・・・・・・もう少しで読了というところだったのに。

結局、塞王の盾は聞き終えたが、黒牢城の方は彼女の耳に届くことはなかった。たった一人の熱心なリスナーはもういない。

死因は敗血症だった。12:07分、もう2度と苦しむことのない安らかな眠りの世界に・・・・・あすは立春だという日の旅立ちだった。

この記事が参加している募集

やってみた

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?