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逃避行のキップ

ここは、クラシキの路地。

観光地と住宅地のはざま、陽気な空気がひと段落する曲がり門に、小さなお茶スタンドがあります。リヤカーを手直しして作られたであろう調理台と、店主と、あと一人くらいを眩しさから守るパラソルがあるだけの小さなお店。


「あー、落ち着くわぁ……もう、このまま直帰しちゃおうかな」

営業ガールAのスッキリとしたポニーテールが、春の暖かな陽光に照らされて光ります。手には、素朴なのだけど、鮮やかな色の葉や花びらで彩られたティーカップ。

「ほっほほ。菊花とジャスミンのお茶です。いい香りでしょう」

答えたのは、初老の店主アルフォンス。濃い緑のハンチング帽がよく似合います。ポットから立ちあがる艶やかで上品な花たちの香りを、嬉しそうに嗅いでいます。

モンキチョウが、お茶スタンドのパラソルを大きな花と勘違いするかのように舞っています。しかし、Aの目には蝶々など映っていないようです。

「あーあ。直帰して、そのままどこかへ逃げ出したい」
右へ左へ、駄々をこねる幼な子のように、Aは体を揺らします。

「おお、逃避行。麻生よう子を思い出しました。どちらまで?」

「え、だれ?麻生?あ、淡路島なんてどう?前から一度食べてみたかったのよね、桜鯛!とってもきれいなピンク色なの!昼はプール、夜には海を見ながらのんびりしたりして。頭の中、空っぽにして、何もかも……はぁ……」

《私、どこで間違ったのかな》


「Aが、ちまい(小さい)時分にようけ行ったお店じゃが!」

営業ガールAは、大学を卒業後、地元の文具・オフィス用品販売会社に就職しました。両親は胸をなで下ろし、祖母は、その支店の一つでランドセルをAに買ってやったことなんかを思い出し、ちょっぴり嬉し涙をながします。

A本人はどうだったかというと、泣くほどの特別な思いは無く、至って真面目な性格から、やるべきことをやれて安心した、といった気持ちの方が大きかったようです。

配属されたのは、営業部。企業向けのオフィスプランニングから移転実施までを担当します。営業職は第一希望ではありませんでしたが、推挙されればクラス委員だって真面目に取り組むAです。緊張と気力十分で、社会人生活に挑みます。

初め数年の成績は、平均点の少し上といったところ。生来、断られることが得意ではないことを考えると、Aは大奮闘していると言えるかもしれません。

しかし一方で、一部の同期メンバーたちは、サボり方を覚え、コンビニの駐車場でスマホゲームなどに興じているようです。
忘年会のすみっこでは、こんなセリフも出てくる始末。

「数年したら次の新人が営業やってくれる。営業なんて、どうせ9割ウザがられて終わるだけだろう?時間と労力の無駄だってことを、会社はわかってないんだよ。Aも、今は適当に過ごしておけばいいんだって」

効率の悪さには同意はしつつも、生真面目なAには無視できないモヤモヤが残ります。

仕事にも慣れてきた4年目、営業ガールAに新しい上司がやってきました。都会のIT会社から転職してきたらしいパリッとした風貌。自信たっぷりの話し方で、ごま粒程度の根拠であっても未来は明るいと思わせてくれるような人です。

初めての1on1ミーティングで上司からこんなことを告げられます。
「Aには期待しているよ。難しいかもしれないけど、私のいう売上目標を達成してくれたら、昇進・昇給だ」
営業ガールAは、久しぶりのワクワク感に背筋が伸びるのを感じます。地元すべての企業からオフィスを拡張したいであろう成長著しい会社をピックアップして、彼らの事業規模・テーマやカラーにあったオフィスプランの提案に没頭します。

苦労は実り、10ヶ月後、なんとAは目標を達成します。

ですが、腹立たしいことに、昇進も昇給も上司のただの虚言だったのです。上司には、給与増額の権限など、初めからありませんでした。

上司への苛立ちが、年度末の忙しさをごちゃ混ぜになり、熟成してきた頃、Aが進めていたオフィス移転でトラブルが発生します。
椅子と机を50セット発注したのにもかかわらず、椅子のみが100脚届き、期日になっても机は1台も届きません。

「イス取りゲームでもします?」なんて小言を取引先に言われ、慌てて返品処理をしているAのところに、社内メールで同僚転職の知らせが届きました。
忘年会でAをモヤモヤさせたあの人です。社内チャットにもテンプレートのような転職メッセージを残し、同僚曰く、もっと給与のいいらしい会社へと去っていきました。


「ねぇ、アルフォンスさん。私、今の職場、合ってないのかも」

「仕事が嫌いですか?」

「嫌いではないわ。真面目に取り組める、ギャンブル性の少ない仕事よ。でもね……もう少し私を認めて欲しい。仕事には意味があるんだって一緒に思ってくれる人のいる場所で働きたいの。自分がやっていることが、無駄に思えるような人生は避けたいわ」

「欲しいものを得ること、これは幸せです。避けているものに出会わないこと、これも人生の願いの一つですね」

「そうね」

「ですが、欲しいという気持ち。これを、いったん手放してみるのも一興ですよ」

「どういうこと?人にそんなことできるのかしら」

「こんな昔話を聞いたことがあります。あるローマ人哲学者に、2人のお弟子さんがいたのですが、2人は容姿も能力も、とても似ていました。唯一の違いと言ったら、1人は、《ローマ中に名が轟く高名な哲学者》を目指し、もう1人は、《恥ずかしくない生を生きよう》と謙虚だったことくらい。師匠は、面白いと思い、2人に全く同じ書物を与え、全く同じ講義をしました」

「実験じゃん。ちょっとかわいそう」

「2人は、双子のように似て育ちます。数年後、時の皇帝が息子の家庭教師を求めました。選ばれれば大出世。2人の弟子が候補です。さて、もちろん優秀な方を採用したかったのですが、あまりに2人が似ていたので、決めきれず結局、くじで、決めることなります」

「くじ引きかぁ、嫌な予感がする」

「採用されたのは、謙虚だった方の弟子です。全く同じような能力を獲得していたにも関わらず、威名を求めた弟子はやさぐれ、次の日には勉強を辞めてしまいました」

「あら、やっぱり」

「有名になりたい、人に認められたい、その種の欲望を叶えるのは、難しいものです。強弱問わず、世間の思惑が自分の思い通りになるなんてことは、ないと言えましょう」

「そうかもしれないわね。でも誰にも認められないなんて、やっぱりやってられないと私は思うわ」

「一角の人物を目指すことは素晴らしいことです。でもそれを賛美するかどうかは人様の勝手とも考えられませんか?さらに言えば、口では褒めるけど本当に心の底から認めるかどうかも、こちらの知るところではない」

「まぁ、確かに。好みや考え方の違いもあるものね。でも、それでも信じられなくて虚しくさせられるような人たちのもとでは努力しづらいし、ずっと続けられるとは思えない」

「避けられるものはうまく避けることも同様に大事なのでしょう。例えば、信用できない上司を避けることは今はできないかもしれない。でもあなたが上司に翻弄されるか否かは、あなた次第でどうにかできる」

「ちょっとそれはズルいわね!でも、言いたいことはわかるわ」

「ほっほほ。自分自身が強くある必要があります」

「あー嫌だ嫌だ。でも、このままじゃ悔しいという気持ちもあるし。ふう。ご馳走様、アルフォンスさん。もう1日よ。もう1日だけ、やってみるわ」

「そうですか。強いあなたはキップを買わずに済みそうですね」

《キップ?買ったことないわ》

(fin)


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