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人類は、高齢者になることに慣れてないし、これだけ多くの高齢者が社会にいることにも、まだ思った以上に、慣れていないと思う。

 誰もが、高齢者になることには慣れているわけがない。

 そのことを明確に書いたのが、自身も高齢者になった時の橋本治だった。

老いのアマチュア

誰もが「自分の老い」の前ではアマチュアなのです。

 人間としての様々な機能が衰えていくという「老い」は、生きていれば避けられないことだけど、特に自分の「老い」は認めたくない。鏡を見ても、「老い」の兆候よりも、できたら「若い」というよりは、これまでと変わらない部分を見たくなる。

 だから、慣れていないを超えて、「老い」を恐れているといった方が、今は正確な表現になっているのかもしれない。

 いつから、「老い」は、ここまで忌避されるようになったのだろうか。

「若く見える」と思いたいこと

 以前、病院の待合室のようなところで、おそらくは70歳は超えていると思われる男女が6人ほどいて、お互いに知り合いのようで、話は弾んでいるのが、少し遠くからでも分かった。

 その時間の中で、「見えなーい」という言葉がひときわ大きく聞こえてきた。それは、何かの拍子に、生まれ年のことが話題になったようで、その中で、具体的な昭和〇〇年や、それから、何年かを足した数字が聞こえてきてしまった。どうやら、その中の誰かが年齢の割には、「若く見える」という話題だったけれど、どの人が、若く見えるかは、私には分からなかった。

 でも、自分も、歳を取ったら同じようなことをするのかもしれない、と思ったし、その頃になれば、高齢者の中での違いに対して、自分のことになるから、もっと敏感になるに違いなかった。

 表立っては言わないとしても、いつまでも「若く見えたい」と思うことは、容易に想像もつく。

「美醜」と「老若」のベクトル

 もしかしたら、人によっては、10代から、「若く見えたい」と思うことがあるかもしれないけれど、どうして、より若く見えたいのだろうか。

 性別やジェンダーを問わず、おそらくは「美しさ」は、あこがれでもある。今は、それほど単純でなくなったかもしれないけれど、ある作家が「美人という最強のカード」という表現をしていたのだけど、それは、大きい声で言われなくなったとしても、ある種の事実であることは間違いない。

「美醜」の問題は、もしかしたら、最後まで差別として課題になるのではないか、といったことも言われているようで、それは、なんとなく納得できるようなことでもあるけれど、「美醜」は、かなり素質に左右される。

 もちろん、その人の人格や生き方が、その人を「美しく」させていくということはあるけれど、それでも、「美」は誰にでも手に入るものではない。(個人的には、誰もが「きれい」にはなれないけれど、「美しく」はなれると思っている。ただ、その「美しさ」は、受け手によって分からない場合がある、という難しさもあるけれど)。

 それだからこそ、もしかしたら「若さ」という基準が、より重視されるようになるのかもしれない。

 長く生きれば、誰もが老いるけれど、誰もが若い時がある。

 美醜と、老若。2つのベクトルがあって、シンプル過ぎるけれど、4つのカテゴリーに分かれるはずで、一般的には「若くて、美しい」がトップで、「老いて、醜い」がおそらく最下位になってしまうはずで、このランキングでは、近年「若くて、美しい」が、ますますトップ独走のようになっている気がする。

 少しでも、老けたように見えると、すぐに「劣化」などと言われてしまう傾向の強さにも、そんなことを感じる。

切り捨て傾向

「自己責任」という言葉が、下手をすれば、「切り捨て」傾向を増大させるようになったのが、2000年代に入ってからで、それは新自由主義的な流れにフィットしたせいもあり、弱ったり、困ったりした場合も、病気になったときでさえ、「自己責任」と「切り捨て」られることさえある。

 そんな世の中になってしまえば、「老い」て衰えることは、自然なことにもかかわらず、まるで忌避されるような状況になっているから、「老い」というものが、アンチエイジングといった言葉もあるように、まるで敵視されるようになってきている。

 介護保険でさえ、「自立支援」を目標にしてしまっているから、どれだけ老いても、ただ衰えていくことが許されないのかと思うと、ちょっと怖くもなる。

 どれだけ努力しても、節制しても、工夫しても、ある年齢を過ぎたら、衰えていくのは当然だけど、その衰えていく姿に対しての忌避感が、とても強まっているような気がするのは、「切り捨て」傾向の増大と無縁ではないように思う。

こんなに高齢者がいる社会は「人類史上初」

 この本では、「寿命脱出速度」について書かれていて、それは、どこまで寿命が伸びるのか、という話だけど、それを新しい方向と表現しつつ、古い方向についても書いている。

 古い方向とは人生30年時代で、それは旧石器時代から産業革命が始まるまで続いた。20世紀に入ると抗生物質の登場、公衆衛生の改善や清潔な水の普及などの恩恵によって、1950年には平均寿命は48歳に、2014年には72歳まで延びた。

 世界的にも、平均寿命が現在の印象になったのは、ここ30年くらいだから、人類の歴史で考えれば、本当にごく最近のことになるのだと思う。


 高齢化の進行具合を示す言葉として、高齢化社会、高齢社会、超高齢社会という言葉があります。65歳以上の人口が、全人口に対して7%を超えると「高齢化社会」、14%を超えると「高齢社会」、21%を超えると「超高齢社会」と呼ばれます。
 日本は、1970年に「高齢化社会」に突入しました。その後も高齢化率は急激に上昇し、1994年に高齢社会、2007年に超高齢社会へと突入しました。今後も高齢者率は高くなると予測されており、2025年には約30%、2060年には約40%に達すると見られています。

 日本は、世界の中でも、超高齢社会であるのだから、「寿命の長さ」で言えば「先進国」であって、そういう意味では、高齢者が、世界の中でも最も多い国の一つになっている。

 ただ、核家族化が進んでいる現代では、高齢者と一緒に暮らしている人は少なくなっているし、メディアなどで見かける高齢者は、年齢よりも元気だったりする「レアケース」が多いし、さらに、別の意味で話題になるのは要介護者になった高齢者だけれども、その間の「一般的な」高齢者は、見かけることが少なくなる。

 若くて、忙しく働いている人たちとは、行動範囲も行動時刻も違っているから、おそらく、それほど接していないこともあると思う。

高齢者に慣れていない社会

 元気な高齢者ばかりを、別の面では要介護者の高齢者ばかりをメディアを通して見かけていると、もし、標準的な「老い」である高齢者に、実際に接することになると、とても「衰えて」見えたり、場合によっては「老い過ぎて」見える可能性がある。(要介護で、寝たきりに近い高齢者は、実際に知らなければ別な存在に見えて、比較の対象にならないかもしれないので)。

 何しろ、「高齢者」に慣れていないことが多そうだ。

 慣れていないことは、思った以上に、不安や恐れを生んでしまい、それまで接したことが少ない人が「高齢者」に対応すると、老いに対して、忌避する気持ちが強くなってしまうかもしれない。

 80歳以上になると、明らかに、どんな人も「老い」を感じさせる佇まいと、動きになる印象があるのだけど、そういう人たちがこれだけ存在している社会は、これまで人類史上にはなかった。

共白髪

 たとえば、昔の「老い」の表現として、結婚するときに「共白髪」という言葉があって、それは、「白髪になるくらいまで一緒に長生き」という意味らしい。

 だけど、現代では、少しでも考えれば、個人差があるものの、一般的には白髪が生え始める年齢は、30代と言われている。


 そうであれば、この言葉で表現されている「長生き」は、40代くらいであり、今の80歳以上が「老人」だと思われている時代の感覚は違って当たり前だけど、人類史上では、寿命が「30代」の時代が長く、その年月の中で培われた「老い」への感覚が更新されるには間に合わないほど、平均寿命が急激に長くなった。

 本人も「老い」に慣れていないけれど、80代や90代になった「高齢者」自体が、人類史上では、ほぼ稀だったのだから、前例も少なすぎる。

 だから、当事者だけではなく、周囲の人たちが、80代や90代を超えるような「高齢者」に接するのに慣れていなくて当たり前、という前提を共有した上で、当事者に十分に聞きながら、適切な対応を学んでいけばいいし、それは、今、始まったばかりだから、すぐにはうまくいかない、ということを再確認すべきではないか、と思う。

 それが、(すでに遅いかもしれないが)「超高齢社会」を少しでもうまく運営していくための第一歩ではないだろうか。

103歳

 とても個人的な話だけど、妻と一緒に、妻のお母さんを介護しつつ、同居していたのだけど、2018年の末に、突然、亡くなった。

 介護も突然終わったが、義母は103歳の誕生日を迎えたばかりだった。

 100歳を超えたことに関して、「あっという間だった。夢みたい」といった言葉を聞いたことがあった。

 耳が聞こえなくなってからも長く、自力では立てなくなってからも、かなり長かったのだけど、食欲もあったし、基本的に素直で善良な人だった。普段は、年齢のことをあまり意識しないくらい、感情表現も豊かな人でもあった。そのことで、介護の大変さは、軽減されていたと思う。

 自分自身は、子どももいないし、他人への想像力や、気遣いが元々ある方でもなかったのだけど、介護の19年間で、人は、体は老いるけれど、気持ちはそう簡単に老いない、ということが体に染みたので、おそらくは「高齢者」に少し慣れたのだと思う。

 

 これは、ただの一例だし、それほど多数派の話ではないのは分かっているのだけど、おそらくは、私自身は、これから他人であっても、「高齢者」に接するときも、たぶん、少しは適切にできるのではないかと、考えている。

 だから、今、社会として「高齢者」に慣れていないことを前提として、そこから、それぞれの人なりに、少しでも慣れていけばいい。そんなふうに考えた方が、「超高齢社会」に少しでも適応していけるように思っている。




(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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