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「少し遠いところ」(前編)

 もう随分と昔のことになるけれど、その人はサッカーのある場所に、いつもいたような印象がある。

 それは単なるノスタルジーなのかもしれないけれど、地元といっていい場所のヒーローがプロになって、監督になって、自分とは全く関係なさそうなのに、年月がたちながら、時々、その言動を目にする時があった。

 いつも、少し遠いところにいた。

 おそらくは、どんな人にでも、そんな気持ちの中にいるヒーローがいて、忘れていたはずなのに、時々目にして、しかも、そんな人が、もしも歳を重ねても、若い頃と同じようにぶれていないように見えたとしたら、それは、自分自身も勇気づけられることのように思う。


 そんな人のことを書いて、昔、公募された賞に送って落選した。それでも、今でも忘れられないサッカーのシーンでもあると思い、改めて伝えようと思った。

 それは、昔のことで申し訳ないのだけど、14年前の話になる。

2007年10月13日 西が丘競技場

 おにぎりやサンドイッチなど、どこででも食べやすいものがなくなっていて、残っているのは袋の甘いパン類だけだった。次のコンビニも、その次のコンビニも同じだった。

 本蓮沼駅から西が丘競技場までの道でも、ユニフォーム姿が少なくなく、わくわくした空気はすでにある。

 「東京ヴェルディ VS 湘南ベルマーレ。 2007年10月13日(土) 13時キックオフ。立ち見 アウェイ席。1500円」。

 何日か前、自宅の近所のローソンで、前売り券を買っておいた。


 低いスタンドに着くと、試合開始までまだ1時間くらいあるのに、もう大きい応援の旗がふられていた。

 選手達がウォーミングアップを始める時に肩を組むと、同じように周りと肩を組む観客もいる。ここはサッカー専用だから、スタンドから緑色のピッチがわりと近い。

 ゴール裏のベルマーレの「アウェイ 立ち見席」からも、選手達のボールコントロールが少し遠いところ、というくらいに見える。だから、初めて蹴るとけっこう固くて重いはずのボールが軽そうに、柔らかそうに飛びかっているのも、よく分かる。

 ボールの、ホントに真ん中を的確にとらえると、そういう風に見えるはずだ。プロだから新しいボールが多く、少し光って思える。サッカーがうまいって気持ちいいんだ、と改めて感じた。

「あ、かんのさんだ」。
 選手達と同じように青いウインドの上下を着て、ベルマーレ菅野将晃監督がピッチにいるのを見つけて、私は気持ちの中で勝手にそんな声をあげていた。

 ホームページの写真で見るよりも迫力のある表情で選手達に声をかけ続けている。体型はしまっているし、とても40代後半には見えないので最初は選手達の中にとけ込んでいるようにさえ見えた。

 私の30年前の記憶と、その姿はあまり抵抗感なく重なった。

1970年代 地元のヒーロー

 土のグランドには独特のにおいがある。
 学校を会場として、高校生のサッカーの試合が行われている。グランドが低いところにあるから、やや見下ろすような形になる。

 ゴール前に一人の選手が走り込んできた。守備の選手がぴったりとマークにつく。攻撃側のその選手が、ゴールに背を向けた体勢の時にパスが来た。

 その選手はうしろにマークを背負ったまま、足元に来たボールを片足ですっと高く上げ、頭越しにディフェンダーのうしろへ落として、自分は素早くターンして、そのまま相手を抜き去り、ボールをコントロールしてゴールを狙った。

 結果としてそのプレーは得点につながらなかったが、その一連の動きは軽やかで、ボールのタッチも柔らかく、うまいのが分かった。見ていて気持ちがよかった。
「あれが、菅野さん」だと、一緒に見ていたサッカー部の友達に教えてもらった。

 自分が下手なだけかもしれないが、でも「サッカー冬の時代」と後に言われるような1970年代後半の高校生では、同じような場面では、もっと「確実な」プレーが求められていたような記憶がある。

 背後に相手を背負ったゴール前ならば、いったんボールをきちんと止めてボールをキープし、味方が上がってくるのを待つか。キープしつつ、振り返るタイミングをはかるか。またはボールが来た瞬間に1回フェイントを入れてから、その逆の方向へトラップし、相手のタックルよりも5センチでも先に出てシュートをうつか。……そんな選択が一般的だったと思う。

 どの地域でも、どのスポーツでも、もしくはどのジャンルでも同じかもしれないが、この時代の神奈川県にも、よく考えたら自分とは高校も違うし、レベルも違うから、実はほとんど関係がないのに、サッカー部員ならば誰でもが知っているような有名な選手が何人かいた。

 そして、「あいつは右サイドを見ながら左へパスするんだ」みたいな“伝説”や、「全国レベル」という形容詞と共に話されたりする。そして、そういう選手にだけ、一見「確実でない」プレーが許されるような空気があったように思う。

 その中の一人が菅野将晃選手だった。出来たばかりの公立高校にも関わらず、優秀な選手が集まり、インターハイにいきなり出て活躍したチームの、中心選手だった。
 それが約30年前の事だった。

2007年10月13日 試合前半

 西が丘競技場に日がさしてきた。

 アップが続いている。菅野監督も声をかけ続けている。

 そんな時間の中で、向こう側のホームのヴェルディのスタンドでも、こちらのベルマーレででも、応援の歌が響いていて、この競技場を包むようだった。両チームのアップが終わり、ピッチには誰もいない時に選手の紹介が始まり、ヴェルディの選手の名前がアナウンスされるたびに、「アウエイ」のスタンドからはブーイングが起こり、向こうからは歓声が聞こえてくる。

 そして選手達が入場してくる。

 周りではベルマーレの歌が流れ、サポーターがマフラーを両手でかかげている。こういう場所にしかないような何ともいえない空気が流れる。


 試合が始まり、ボールが動きだし、選手達は走り出し、時間の流れが急に早くなった。

 少し地面にうまっているようになっているベンチで、片足を地面の高さに上げ、そこに手を置いて、菅野監督はもう立っていた。味方のボールになると、ベンチから出てピッチに近づき、手を動かし、おそらく「上がれ!」という声をはりあげているようだ。

 監督に注意していると、思った以上によく動いているのが分かった。ヴェルディはラモス監督。かつての日本代表でスター選手でもあった。スーツを着て立っている姿は、様になっていた。

 時々、明らかに時間の流れの質が変わり、ゴールが決まりそうな熱が上がる瞬間もあるし、相手の反則で良かったリズムが断ち切られることもある。私の隣にいる、最初はおとなしそうに見えた30代くらいの男性は、そうした変化に敏感に反応し、全身で大きな声を出していた。個人的には日本には向いていないと思っていたブーイングも、気合いがのっているせいか、かなり様になっていた。

 ピッチとスタンドの間くらいに白いちょうが飛んでいった。
 向こうのスタンドのさらに奥に、工事中の大きなビルがある。その壁の高いところに、ヘルメットの人達がたくさん並んでいて、こちらの方を…おそらくサッカーの試合を…注目しているのが小さく見える。大きなクレーンも動いている。

 試合は進み、フリーキックで1点。さらには真ん中をきれいに突破され、また1点をベルマーレは失っていた。失点の瞬間、完全に時間が止まった直後、うしろの方からすかさず「ベールマーレ」と連呼する太い男性の声が聞こえてくる。

 前半が終わる直前、パスがつながり出し、フィールドの10人が一つの意志を持ったような動きに変わり、スピードも急速に上がり、サッカーそのものに誰もが集中するような時間を、ベルマーレは少しの間だけ作ったが、得点にはつながらず、前半は終わった。

 周りの空気もゆるんだ。
 そんな時でも、スポーツの華やかさが、絶え間なく、ここにあると思った。Jリーグが始まった頃に比べて、サッカーが根付いてきたような気配を、確かに感じた。

1990年代 Jリーグの時代

 私は1980年代半ばに大学卒業後、スポーツ新聞社に就職した。その後、フリーのライターとなり、スポーツを中心に原稿を書いた。

 その頃、サッカー雑誌で、菅野選手のインタービューを読んだ事がある。高校を出てから、実業団サッカーを続けていたのを知った。その話の中では、高校時代に、正月の選手権に出られなかった事を残念そうに振り返っているようにも読めた。(菅野選手が卒業した翌年に、出身校が初出場した)。

 日本の社会人の1部リーグで活躍しているから、記事が組まれるのだが、日本代表に選ばれるような華やかな経歴はなかった。なにより、サッカーはマイナースポーツ、とマスコミの中でも言われていた頃だ。アマチュアスポーツでもあった。

 1993年にJリーグが始まる頃、私はサッカーの事も書くようになった。

 監督のインタビューという企画のため、ジェフ市原へ取材へ出かけた。クラブハウスで待っていると、無精ひげをはやし、建物のすみで腹筋を繰り返している選手がいた。険しい表情のまま若い選手に何か話している。それが菅野選手だった。古河電工から、そのままジェフ所属のプロ選手となっていた。当時は、すでに30歳をいくつか過ぎていたはずだ。その後も、華々しい活躍の話を聞くことはなかった。

2007年10月13日 ベルマーレVSヴェルディ 試合後半

 西が丘の試合は後半が始まっていた。
 10分が過ぎる前に、湘南ベルマーレはまた失点した。その瞬間、ベンチは本当に凍りついた。すべてが止まった。3対0。致命的な3点目だった。

 後半20分。ベルマーレは選手を交代した。菅野将晃監督はベンチに戻ると、手をうしろに組み、下を向いてゆっくりと歩いていた。

 ヴェルディのラモス監督は、まだピッチのそばに立ち、何か叫んで貪欲に戦っているように見えた。その姿と勝手に比べ、まだ試合は終わっていない。もっと戦ってほしい。菅野監督を見ながら、そんな言葉を気持ちの中で繰り返していた。

 あと10分。
 アップをしていた2人の控え選手を呼んで、きっちりと顔を向けて、しっかりと何かを指示した後、菅野監督は2人を交代させた。それからはずっとピッチのそばで立っていた。戦っていた。ほんの少し前、もっと戦ってほしい、なんて思った自分の事を、秘かに恥ずかしいと思った。

 スタンドの前に立つ警備員は若く、試合を背にしてずっとこちらを見渡していたが、ベルマーレの応援の歌に合わせて、ちょっとだけ左ヒザがリズムをとっていた。目の前の立ち見席の鉄の棒も、同じリズムで揺れている。

 急にベルマーレのチャンスが来た。続けてうった3本のシュートはゴールキーパーにはじかれた。

 前に出て立ち続ける菅野監督。「あきらめるなー」というスタンドの声。
 コーナーキックが2本続いた。でも、得点できずに試合は終わった。
 ウインドウパンツを両手で少し上げ、上を向いたまま菅野監督は少し止まった。

 それから歩き出し、ラモス監督と握手して何かをしゃべっている。社交辞令だけには思えないほどの長さ、そして熱心に話しているように見えた。監督という同じ立場しか分からない事がやっぱり多いのかもしれない、と思わせるような時間だった。

 私の周りで、年季の入ったサポーター同士が、この完敗の試合を振り返る会話をしていると、そこにさらに何人かが加わり、そして笑っていた。
 もう、ここにはマイナースポーツの悲しさはなかった。結果に関わらず、スポーツの幸福感といっていいものまで確かに感じたような気がした。


※(後編)に続きます。




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