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今までを振り返った上で、これからでも通いたい「サッカースクール」を考える。

   Jリーグが始まる前に、学生として、サッカーをやっていた。
 といっても、人に誇れるような実績はまったくないに等しい。
 いわゆる部活でこつこつとボールを蹴っていただけだった。
   その頃に、「サッカー冬の時代」と名付けられたのは、そのあとの事だったけれど、冬の時代に、世の中の、すみっこでサッカーをやっていたから、どれだけ寒いところでやっていたんだろう、と思ったりすることはあった。


(あんまり言うと、同じチームにいた先輩や同期や後輩やすべての人に失礼になり、怒られてしまうと思いますので、あくまで、私の個人的な感覚と考えてもらって、このあとも読んでいただければ、幸いです)。


サッカーのトレーニング方法

 社会人としては、スポーツに関する仕事を始めて、そのうちにサッカーのことも書くようになった。プロや、大学の強豪や、高校の名門チームのトレーニングの取材もするようになり、その時に、もちろん技術力や、素質や、肉体的能力の圧倒的な凄さを感じながらも、練習方法の質の高さに感心もし、驚きもし、自分がどれだけサッカーのことを知らなかったのかを、分からされた。

   同時に、自分に、いろいろな限界があるのは仕方がないにしても、もう少しサッカーのことを知っていれば、もうちょっとでも納得のいくプレーができたのかも、と微妙に後悔のような思いにもなったりもした。

 ただ、それよりも、その頃考えていたのは、指導者もいなくて、環境にも恵まれていなくて、素質もそんなにないのも分かっていて、それでも、少しでもうまくなりたい、と思っている選手に向けて、原稿を書きたい、ということだった。本当に、そうした読者に届くかどうかわからないけれど、昔の自分に向けるように、といった感傷的な気持ちも含めて、伝えようとはしていた。

 それに何より、Jリーグが始まってからは、様々な国から指導者やプレーヤーもやってきて、通訳を通してだけど、そういう人たちの言葉は、本当に新鮮なことが多かった。取材を通して、書くことを続けて、いつの間にか、サッカーの見方そのものが、少し変わっていた。
 フリーライターとして、仕事そのものは少なくて、貧乏だったけれど、そういう仕事は楽しかった。

 あとは、仕事を始めてからの、目標の一つでもあった、サッカーのワールドカップの取材も、もしかしたら可能な場所までは来ていたかもしれなかった。ただ、周囲のもっと熱心で、もっと勤勉なサッカーライターの方々と比べると、他のことも書いている私は、何となく遠慮してしまうような気持ちもあった。

自分にとっての、本当の冬の時代

 本当に個人的なことに過ぎないのだけど、1999年から、突然、家族の介護を始めなくてはいけなくなり、そのうちに私自身が心臓の発作を起こし、仕事もやめて、介護に専念する生活になった。フリーのライターといっても、生活の全部をかけるくらいでないと、プロとしては、ダメなのではないか、といった頑なな気持ちもあったし、売れないライターは、何回か仕事を断ると、自然に仕事がなくなっていった。
 2002年のワールドカップ で取材することは不可能になった。

 思った以上に辛かった。
 サッカーを見ることも、できなくなっていた。
 ただ、介護だけを続けて、社会とほぼ断絶するような時間は、本当に土の中で息を潜めているような感覚だった。

2002年サッカー・ワールドカップ

 自分の母親には入院してもらって、そこに毎日のように通い、帰ってきてから、義母(妻の母親)の介護をする生活が続き、いつの間にか、昼夜逆転の生活になっていった。ますます、社会との距離ができているような気がした。

 たぶん2001年頃、あれはチャンピオンズリーグの1戦のはずで、確か、チェルシーとバルセロナの試合と記憶している(違っていたら、すみません)。夜中のテレビで、見る気もなかったのに、たまたま、その試合をやっているのを、見た。
 まだサッカーを見るのが、微妙に辛かったのだけど、その試合は、テレビ画面を通じても、尋常でない密度なのは分かった。ピッチのどの部分でも、プレーヤーの数が多く、プレーの密度もスピードも高かった。
 どこまで見極められたかは自信がないが、少し見ていない間に、サッカーが進化していると思った。
 それからも、介護に専念する生活は続いていたが、そのすきまの時間で、夜中にサッカーを見るようになった。かつての「冬の時代」は、もう語り尽くされているであろう、土曜日の夕方の「ダイヤモンドサッカー」くらいしか海外のサッカーを見ることはできなかったが、Jリーグ以来、サッカーを見る機会は格段に多くなっていて、それは、再び、見始めたら、やっぱりうれしいことだった。

 2002年のワールドカップ は、母親と一緒に病室で見ていた。
 日本代表チームの、予選リーグを突破を決定づけるゴールが決まった時、その病棟のあちこちから歓声が聞こえた。ちょっと幸せな気持ちになれた。

約20年ぶりのサッカーボール

 心臓の発作を起こし、次に大きい発作を、起こしたら死にますよ、と医師に言われていたし、薬も飲み続けていたし、体を動かすことは、二度とできないような気持ちになっていた。介護を続けて、サッカーは見るようになったけれど、ボールを蹴ったりはできないと思い続けた。

 母親が亡くなり、その病院に通わなくてよくなり、自分の心臓をみてもらった病院も、その近くにあったので、自分の自宅から近い、循環器科のある病院を紹介してもらおうとした。

 そうしたら、医師に言われた。

 もう毎日、薬を飲み続けなくていいし、一番いけないのはストレスで、運動は様子をみながら、大丈夫だと思う。だけど、心臓に気をつけて。時々、脈が抜けることがある。そうなると、2時間あとに発作が起こる危険性があるから、その時に飲んでください、と頓服として青と白のカプセルをもらった。ただ、そんなに心臓の異変に、2時間前に気がつける自信はなかった。でも、もう私は、病院に通わなくてよくなった。一生、毎日、薬を飲まなくてはいけないと思っていたので、意外だった。やっぱり、開放感はあった。

 母は亡くなったが、義母の介護は続いていて、仕事も再開できない状況は変わらなかった。それでも、それまでと比べると、人と会うことはできるようになっていた。そうして、大学の時のサッカー部の後輩や同期とも会うようになり、最初は飲み会だけだったのが、いつの頃からか、少しボールを蹴ろうよ、という話にもなり、当初は参加していなかったのだけど、少しずつ走れるようになり、心臓への不安もあったのだけど、もしかしたらできるかも、と思った頃に、後輩が企画してくれて、味の素スタジアムで、フットサルの大会があり、そこに参加する話が持ち上がった。

 早起きと心臓の不安はあったが、フットサルの前に、青と白の薬を飲んで、どきどきしながら、フットサルに参加した。(20年前は、フットサルという言葉自体が一般的でなかったと思った)。途中でモモの裏が肉離れもしたものの、ボールを蹴ったり、ボールを奪ったり、パスが通ったり、声をかけたり、といったすべてが、本当にうれしかった。こんなに楽しいんだ、と思え、何より心臓も大丈夫だった。そのあとの打ち上げで、心臓の病気になってから、アルコールはやめていたので、ウーロン茶だけを飲んで、周りがみんな酔っ払いになっても、何しろ楽しかった。

 それが2009年の暮れのことで、同時期に、大学の時の先輩方も、夏に、フットサルをして風呂に入って、そのまま長時間の宴会をする。それを同一の施設で続ける、という、とても楽しそうなイベントを毎年開いていたようで、ありがたいことに、そこにも誘われるようになった。だから、1年のうちに、2回はボールを蹴る機会ができた。どちらも幹事がしっかりしているから、続けることができて、とてもありがたい。

 筋トレは週に2回ほど続けているが、サッカーは、本当に少ししか練習もしていないし、走っているといっても、少しだけで、それでも、年に1回か2回、ボールを蹴る習慣は、もう10年くらい続いていて、それは、自分にとって、すごく楽しみになっている。

これからでも、通いたい「サッカースクール」を考える

 今は、40代も、50代も、60代でもリーグがあって、信じられないくらい動ける人もいる。そんな元気はとてもなくて、そこまでトレーニングができる気もしないけれど、そういう話を聞くと、いろいろと気を配れば、長くサッカーができそうだから、それは、うれしい時代になったと思っている。

 コロナ禍で、家にいる時間が長くなった時に、リフティングチャレンジ、といった話を聞くと、やっぱり、少し気持ちがうずうずするし、これだけ、サッカーが広く関心を持たれるようになったことは、別にサッカー協会と何の関係もないし、そんなことを言える資格もないのだけど、やっぱり、うれしい。

 まだ、少し体は動くと思う。
 そして、年をとって、動けなくなっても、足元にボールがくれば、うまい人は、コントロールはある程度できる。自分には、そんなテクニックがないから、これからは、年をとるほど、とにかく動ける人が偉くなってくると聞いたから、その方向を目指そうかと、思うこともあるが、振り返れば、10代や20代の時から、体力があるほうではなかった。しかも、低血圧の人間で、今も最高が100にいかなくて、最低血圧が50を切ることさえあるから、無理すると、また心臓への不安が高まるから、その路線も無理だと思う。

 とはいっても、90代でも、筋トレによって、筋力があがる、みたいな情報に接すると、もしかしたら、何かしらの向上も可能なのかも、と思うが、ちょっと無理すると、すぐに筋肉は痛くなるから、これはただ、壊れているだけだから無理ではないか、といった、やる気とあきらめの繰り返しをしている。

 昔より洗練された、サッカーのコーチングを受けたい気持ちもある。
 だけど、集団の中に入ったら、迷惑になるのではないか、といった気持ちもあるし、できたら、どこかのチームに入って、もっと練習もしたいようにも思うけれど、たぶん体はついていかない。
 年に2回ほど、同じような年代の人間と一緒に、サッカーらしきことができればそれで十分楽しいのではないか、と思いながらも、ずっと大学のOBチームのリーグ戦に参加し続けてきた、10年も下の後輩のプレーを見たりすると、本当にすごいと思うし、ほぼ同世代が、うそみたいに動けるのをみると、昔よりも尊敬できたりする。それで、自分も、と思う瞬間もあるが、彼らの日常のことを聞くと、本当に日々トレーニングしているから、それを真似するのは、難しいと、またあきらめる。

「個サル」というのも、自主練として、魅力があるけれど、ずっと続けるには、資金が足りなくなるのではないか、という予測と、フットサル独特のテクニックは、これから身に着けるのは難しいのではないか、といった気持ちになる。

「フリーキック・サッカースクール」

 自分で書いていて、そんな奴は、もうサッカーをやらなくて結構、という気持ちにもなるが、中年以降だと、似たような人も意外と多いのではないか、とも思う。

 そして、あれこれ考えてきて、これまで試みたかったけど出来るわけがないと諦めてきて、もしもできたら、本当にうれしいプレーが残っているのに、気がつく。

 直接フリーキック。
 それも、ゴール前で、壁を作られて、その壁の上を通って、カーブをかけて、ボールが落ちて、そして、それがゴールキーパーのセービングも届かないようなコースにコントロールされていて、ネットを揺らす。
 そんなフリーキックは、一度でいいから決めてみたい。

 もちろんトレーニングを実際に始めたら、とんでもなく難しいのは想像もつくし、そうしたテクニカルなことほど、若さが有利であるのも予想できる。それでも、ずっと走るわけではなく、ずっと蹴り続けて、慣れていけば、と思うと、そのトレニーングができる環境があれば、1年くらいずっと続ければ、できるようになるのではないかと、妄想する。
 
 ゴールがあって、妨害する「カベ」としての人形があって、そういう設備が揃っていて、かなり年齢を重ねた生徒に対しても、優しく的確に教えてくれるコーチがいたら、そういう「フリーキック・サッカースクール」があったら、これからでも、通いたいと思う。ただ、資金面では、ずっと貧乏なので厳しいかもしれないけれど、でも、そのためならお金を貯められるのではないか、とも思う。

 すでに、そういう「サッカースクール」は、存在しているのではないか、と同時に思った。


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