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「あなたは組織の人間だから」は、今は、人を黙らせる力が強すぎると思う。

 毎週、録画して見ているテレビ番組はいくつかある。

 この番組で、さまざまな放送局のアナウンサーが集まり、悩みを相談するという企画があった。

 その中で、耳に残ったのが、この言葉だ。

 「あなたは組織の人間だから」

 この時は、笑いと共に語られていたのだけど、この言葉は、シリアスな場面で使われる頻度と、その相手を黙らせる力の強さがどんどん増してしまっているような気がする。

 それは、ちょっと怖いことだと思う。

「組織」の変化

 私自身は、組織にいる時間は短かった。

 会社、という場所で働いたのは、3年に過ぎないので、「組織」を語る資格もないのかもしれないが、フリーターという言葉が肯定的に語られた頃は「組織に縛られない自由な働き方」とも言われていたし、「派遣社員」がドラマの主役になっていた時は「どの組織でも働けるプロフェッショナル」として持てはやされていたし、「ノマド」が「どの場所でも、どの国でも働ける自由がある」と評価された時代は、どれも知っている。

 それと並行して、この30年は、ずっと日本社会が沈滞していったのも事実だと思う。

 確実に社会の空気は重くなったし、組織の持つ力というか、余裕や柔軟性はどんどんなくなっていくように見えていた。それは、組織の拘束力のようなものが強化されていく時代でもあって、組織の息苦しさはより高まっていくから、その反動のように、フリーターや派遣社員やノマドという「自由に見える働き方」が、その時々で称賛されてきたようにも思う。

 この「失われた30年」で、会社という「組織」は変化してきたのだけど、それは、外部から見ても、あまりいい変化ではないと思う。

「組織の意志」

 もし、自分が、今も、どこかの会社のような場所に属していれば、「組織の意志」というのは、もっと明確に分かるのだと思う。だけど、よく考えたら、そこにいない人間であっても、そんなあいまいなものに頼っていていいのだろうか、と思うときはある。

「組織の意志」というのは、その会社の経営者の考えよりも、もっと抽象化されたもので、その組織に属する人間が、常に忖度し続けることで、維持されているようなもので、だから、それは知らないうちに出来上がって、さらには明文化されず、暗黙の了解のようなものに近くなっているような気がする。

 近年、様々な企業が長年に渡って「不正」を行ってきたことが明らかになっている。それも、検査にまつわる「不正」が多いという印象があって、それは、自分達の基準を守っていればいい、といった驕りがあったのではないか、という指摘もあるようだ。

 だけど、それはもしかしたら、当事者にとっては「組織の意志」に従っていただけ、という意識なのかもしれない。

「組織」の不正

 ただ、30年以上の「不正」ということを聞くと、とても無理な想像なのは分かっているけれど、もし自分が、こうした企業に勤めていたら、と考えてしまう。


 その会社で働き始める。最初は、そんな「不正」があることは分からない。

 30年以上の習慣であれば、それは日常であって、自然に取り組んでいるのだから、どこかにぎごちなさがあるわけもなく、検査偽装などと言われたとしても、その検査は淡々と続けられているだけだと思う。

 働き始めて時間が経ち、その検査に関わる仕事をしたとして、それが厳密な基準で言えば「検査偽装」という「不正」であることに気づく場合もあるかもしれない。

 その時、どう思うだろうか。どうするのだろうか。

 ここからは、さらに完全に想像に過ぎないのだけど、こんな会話があったような気がする。

 「〇〇さん、これ、不正じゃないですか」
 「ああ、それか。確かに、国の基準で検査はしていない。だけど、うちの基準で、安全は十分に確保されているし、このやり方で、もう20年以上やってきた。それで、事故も起こっていない。問題はないと思う」

 そんなようなことを、淡々と言われたら、そこから何かをできるのだろうか。内部告発をした人間に対して冷たい対応しか待っていないこの社会で、自分も、もし家庭を持っていたとしたら、転職もできないかもしれないから、どこかに伝えることを考えても、結局、できないのかもしれない。

 じゃあ、自分も「組織の人間」だし、このまま、黙っていたほうがいい。ここまでの何十年の間、下手をすれば、何万人もそうやってきて、入社してから退社するまで、厳密に言えば「偽装検査」のまま会社員をまっとうした人も少なくないかもしれない。

 そう考えたら、何かを変える気力はなくなり、そのまま働き続けるしかない。そんな時に、どこからか声が聞こえてくる気もするかもしれない。

「あなたも組織の人間だから」

過剰適応

「組織」に不正があったときに、「組織の人間」として内部告発をすることによって、色々とトラブルがあったとしても、とても大きな視点で、理想論的に言えば、そのことによって、社会は良くなるはずだ。

 だけど、そんなことは現実にはありえない。どこか諦めと共に、そう思っている自分にも気がつく。


 それでも本来の意味からいえば、「組織の人間」であっても、「組織の意志」に絶対服従というのも、本当は、おかしい話なのは、間違いない。

 だけど現実には、「組織の意志に」に対して、自分の意志を伝えて、それが正当だとしても、異議を唱えること自体が、その内容を検討する前に「わがままだ」と言われる傾向が強まっているように感じる。

 それは、こうした形↓として出てしまっているようだ。

 職場いじめは残酷さを増している。経営に服従しない労働者を炙り出し、見つけたら人ではなく、人格を認めなくて良い「敵」として扱い、見せしめにする。ストレスの発散先を求めているどころか、「会社目線」に立って、会社に貢献しない労働者の存在を許すことができなくなり、攻撃性を高めている。
 ある意味、加害者にとって、職場の生産性を下げる「元凶」となる労働者を見つけていじめることが、「使命感」のようになっており、「自警団化」していると言っても差し支えないだろう。 
 むしろ、いじめを行うことが、自分も苦しんでいる働かされ方を擁護することになり、結果、自らの首を絞めている。日本では、労働者にとって、およそ「合理的」とは思えないかたちで職場いじめが起きている。それほどまでに、経営の論理と、それによる「規律」が、労働者に浸透しているのだ。 

 経営の論理とは、「組織の意志」とほぼイコールだろうけれど、そろそろ、そこに絶対的に従うことが正しいのかどうかについて、少なくとも疑問を持ってもいいのではないだろうか。

 すでに社会全体が、「組織の意志」に対して、過剰適応になっていると思う。

「あなたも組織の人間だから」

「あなたも組織の人間だから」という言葉は、基本的に、相手に忖度を強要している。

 この「あなたも組織の人間だから」のあとに続く言葉が、はっきりと言われることはない。

 このあとには、その状況で変わってくるのだろうけど、だいたいが、「今、あなたがやっていることは、組織の人間としてはおかしいから、やめなさい」。もしくは、「あなたが今、やりたくない、という自分の意志を示しているようだけど、それは組織の論理に反しているのだから、やるべき」。そんな意味につながっている、と思う。

 もしくは、「あなたも組織の人間だから」を発している人にとって、その言葉を向けている人が、基本的には気に入らない時に、ただ、黙らせるために使われることも多い感触がある。

 ただ、どちらにしても、ここ何年かでも、「あなたは組織の人間だから」は、人を黙らせる力が強くなり過ぎているように思うし、その傾向は、組織の暴走みたいなものを招きやすくなっている可能性はないだろうか。

 組織のなかで人間が自分を見失うとき、その構成員同士の化学反応によって組織全体がとんでもない方向へと突き進む。しかも、彼ら自身はそれに気づかないか、気づいていてもその事実を見ないように努める。現代日本もまた然りである。

異議を申し立てること

 本来であれば、個人が「組織の論理」に対して、正当な「異議申し立て」をする権利もあるはずだし、そこで話し合いができることがフェアな社会ということだと思う。

 それでも、他の会社に転職するのが難しい現状では、より「組織」に従わざるを得ない時間は、ずっと続くのかもしれないが、少なくともそこに属する人間の意志が少しでも尊重されるようになれば、ほんのわずかでも生きやすくなるとは思う。

 そうなるには、どうすればいいのだろうか。

 そうした問題に対して、様々な人が、もっと精緻な論理で語ったりもしているのだろうけど、それでも、この「組織に従いすぎる」問題は、解決するどころか、ある意味では悪化し続けている状況だから、私が何かその流れを変えられるような論理的な説得力のある話をできるわけもない。


 ただ、これはある意味でもっと難しいかもしれないけれど、経営者にやってもらいたいことがある。

 それは、「異議を申し立てること」だ。

杉山社長は記者会見で、「自分たちの基準でいい、というおごりがあった」と述べた。自社で製造する製品に自信を持てることは素晴らしいことだが、だからといって検査・点検が疎かになってはいけない。

 こうした検査を行わない「不正」について擁護をすることはできない。

 だけど、例えば、別の会社で、検査における「基準」に対して、国が定める基準が厳しすぎる、もしくは、自社の方法のほうが妥当だ、という自信と根拠がある経営者がいるとすれば、そのことを、堂々と主張をし、異議申し立てをし、粘り強く、その意志を通していく、ということをしてもいいのではないだろうか。

 現在は、当たり前のようにある「宅配便」も、ヤマト運輸が始めなければ、ここまでの隆盛はなかったかもしれない。そして、その「宅急便」に関して、当時の運輸省に対して訴訟を起こしたことがあるから、現在があるのも事実だと思う。

 ヤマト運輸としても、おそらくは「あなたも国の一員だから」といった言い方をされたかもしれないけれど、それを乗り越えて行ったはずなので、そういった訴訟という「正当な異議申し立て」が行われることによって、今の社会の空気のようなものが変わる可能性もある。

 だから、とても無責任な言葉なのだけど、そうした経営者による「正当な異議申し立て」が、「あなたも組織の一員だから」の力が強すぎるようになった現状を少しでも変えられるような気がするのだろうけど、どうだろうか。




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