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スポーツの記憶⑤「チェルノブイリ事故」に関する「プロゴルファーの言葉」。

 もう随分前のことになるけれど、今も歴史上の出来事として記録されている「チェルノブイリ原発事故」があった。それは、1986年の4月の末。世界的な事故でもあったのだけど、当時の日本に暮らす人間にとっては、旧・ソ連での「遠い出来事」だった。それは、情報があまり伝わってこないせいもあって、より遠くに感じていた。

ゴルフ記者

 その頃、私は、スポーツ新聞社のゴルフ担当記者になって2年目だった。
 まだ「新人」と言ってもいいのだけど、1年目は大学の卒業式より前の3月初頭から働いていたし、その年の4月には一人で取材に行き、原稿を書いていたから、たぶん、同じ入社年の他社の記者よりは、実戦経験が多く、慣れるのも少し早かったように思う。

 それに、プロゴルファーという人たちの独特のたたずまいのようなものや、プレー中の集中力が形になって伝わってくるような凄さとか、ギリギリの場面で生じてくるような整えられていない言葉とか、ゴルフに詳しくなくても分かるようなプレーの凄さとか。そんな現場にいるのは、インタビューをする慣れのなさや、大変さはあったけれど、充実感はあった。

 そして、丸1年たつ頃、前年と同じ大会で、場合によっては、同じゴルフ場に出かけるようにもなった。毎週のように、出張があって、それまであまり旅行も行かなかったのに、1年間で、日本のあちこちに行くようになり、初めて海外まで行った。

 1年目の夏には、日航機墜落事故があった。

 そして、2年目の春には、チェルノブイリ事故があった。

原稿の打ち合わせ

 トーナメント会場のゴルフ場に行って、朝の10時にプレスルームから、デスクに電話をして、打ち合わせをする。伝えられるのは、だいたい原稿の行数だけで、よろしく、と言われ、あとは自分で何をどう書くかを考えて、途中でまた電話をして、オーケーをもらう、という毎日だった。

 ある意味、適当といってもいいのだけど、これだけ任せてくれるのは、ありがたかった。そのぶん、毎日、何を書くかをずっと考えてはいた。

 それが、時々、こういう記事を書いてくれ、という指示が出ることがある。そして、チェルノブイリ事故の時も、こんなことを言われた。

 特に、海外から来ている選手に、チェルノブイリの事故があって、日本にも放射能の影響が来るかもしれないから、怖くはないか?と聞いてくれ。

 そんなことを聞いてもいいのかどうか分からなかったし、何しろ具体的な指示をされるのが、あまり好きではなかったので、気持ちは重かったが、デスクの指令だから、従うしかなかった。

プロゴルファーの言葉

 大会の、その日、上位の選手には、アメリカから来たプレーヤーがいたと思う。
 そのプレーヤーは、プレスルームに呼ばれ、大勢の記者によっていろいろな質問もされる。通訳の人もいたので、私も、デスクに指示されたチェルノブイリに関する質問をした。たぶん、浮いている言葉だったと思う。

 そのプレーヤはー、話している時は、こちらを見て、そのあとは通訳の方を向いて、じっくりと聞いて、少しにこやかな表情になり、こちらを見て、ゆっくりと言葉を発し始める。

 もちろん英語だから、全部は分からなかったが、通訳の人がすぐに訳してくれたので、少し会話のようになる。

「君は、明日は、ここへ来るのかい?」

 もちろん。仕事ですから。

「そうだったら、私も来るよ。

 …この答えでいいかい?」

 英語と日本語で、そんな会話になったけれど、こう言われたら、他に何かを聞くこともできなかった。ありがとう、と伝えるしかできなかった。

 ただ、嫌な気持ちはしなかったし、誠実な印象が残って、何より、相手の方が、大人で、何枚も上手だった、と思うしかなかった。

 その年に、会社をやめてしまうけれど、1年半しかない記者生活で、本当に豊富な経験ができたし、仕事のやり方も教えてくれたので、今でも感謝する気持ちがある。



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