「部活の言葉」は、どうして分かりにくいのだろう。
ティモンディの高岸宏行が、自分の高校時代の野球部の時のあいさつをしているのを、テレビで見た。
「おはようございます」を、「およよどぉーす」と言うのは、ギャグとしてではなく、強豪高校野球部の時のあいさつを、そのまましているはずだけど、その分からなさが笑いにつながるのだと思ったし、実際に耳にすると、私も笑ってしまった。
そして、同時に、彼の高校時代は、まだ10年ほど前のはずだから、まだ、こうした独特の「部活のあいさつ」は、延々と引き継がれているのだと思った。
部活のあいさつ
高岸の言葉は、やや極端としても、自分も、部活動で似たようなあいさつを、何十年も前にしていた。(もちろん同じ高校でもないし、野球部でもないが)
先輩と会うと、「ちわっす」と言うのが、暗黙の了解だった。それが、どんな言葉が元だったのかといったことを聞くこともなく、(そういうことを聞いたら、怒られそうだったし)ひたすら模倣をしていただけだけだった。
もちろん、元の言葉は「こんにちは」だと思うけれど、よく考えたら、「っす」って、何かと考えると、おそらくは、「こんにちは、でございます」みたいな意味ではないだろうかと思ったのは、何の根拠もないけれど、「おはようございます」からの連想になる。
「おはようございます」
芸能界用語として、今は使われなくなったようだけど、どの時間帯でも「おはようございます」と使っていた頃があったようだ。1ヶ月弱、芸能記者をしたことがあって、その頃に、ベテランの芸能関係者が、昔は、おはようございます、という言葉を使うかどうかによって、業界の人間かどうかを区別する、といった意味合いがあったのだけど、といったことを聞いたことがある。
ただ、個人的には、ある種の合理性もあると思ったのは、あいさつの言葉への違和感もあったからだ。
おはようございます。
こんにちは。
こんばんは。
朝、午後、夜。と、基本的には、こんなふうにあいさつが変わる。
ただ、この中で、最も丁寧な印象を与えるのは「おはようございます」で、それは「ございます」という丁寧表現があるからだと思う。
「こんにちは」にも、「こんばんわ」にも、それがない。
そうであれば、それを丁寧表現にするとしたら、ちょっと別の角度からだけど「ごきげんよう」という挨拶はあるものの、これは、どちらかといえば、階級に関係があって、今は、それほど使われないのかもしれないけれど、「お嬢様学校」と言われていた場所で使われていたと思うので、一般的な感覚とは相容れないような気もする。
「ちわっす」
この「ちわっす」というあいさつを、部活の中では「目上」の存在である「先輩」に使うことになっていたということは、失礼ではなく、礼儀が込められているはずだった。
そうなると、「こんにちは」だけでなく、そこに敬意を無理にでも入れるとすると、繰り返しになるけれど、「こんにちはで、ございます」といった表現になるはずだけで、だけど、このままだと、おそらくは笑われる。
それで、その丁寧な言葉を、その敬意の核を残しながら略したのが、実は「ちわっす」ではないだろうか。やたらと上下関係に厳しい、という軍隊的なモラルをどこかに引き継いでしまっている日本の部活動には、言葉の響きとして無理があったとしても、敬意を入れ込むことを優先させそうだから、「こんにちは」を「ちわ」にして、さらに「ございます」を「っす」にして、組み合わせる。
それに、言葉を短くするのは、そのあいさつを受ける側に、なるべく時間を使わせない、といった気遣いも含まれている、といった可能性もある。
そんな始まりがあれば、あとは、その響きが、部活動界の外にとって、不自然に聞こえたとしても、内部では日常的に使われると、とにかく、先輩の顔が見えたら、あいさつをする。それをしないと怒られる、みたいな繰り返しが行われ、そして、そのこと自体に疑問を持って、質問をして、納得できないと使わない人間は、「日本の部活界」からは追放されそうなので、ずっと変わりにくい。
もしかしたら、非合理のようで、合理性もあるから、余計に変わらなかったなのかもしれない。
声を出せ
あいさつ、とは別に練習中に「声を出せ」といった伝統は、今でもあるのだろうか。
「頑張っていこうぜー」「張り切っていこうぜー」「ファイッツオー」(ファイト)。
こんな言葉を練習中に大きい声で、特に下級生だと、黙って練習をしていると、「先輩」に「声出せよ」と言われて、だから、練習に使う体力とは別に、そういう声を出す。
しかも、学校が変わると、出す声も変わる。
「ツァオーイ」
そんな声を、サッカー部員の自分も出していて、それは「先輩」から受けついでいたから、その意味を問うこともなく、出していた。
特に、最後の「ツァオーイ」は、最初がどんな言葉だったかも分からないし、たとえば、サッカー日本代表が練習中に「声を出せ」と言ったことをしていなかったので、プロにとっては必要以外の声は、ほぼ意味がないので、この「声を出せ」については、ただの非合理なのかもしれない。
だけど、自分も「先輩」として、そのような「声を出せ」といったことを、自分が率先して声を出すことで、強制していた部分はあったので、その頃の自分は本当に考えが足りなくて、申し訳なかったです。
ぎょ、ぎょ
自分の身の回りの狭い経験に過ぎないけれど、部活のあいさつや、かけ声は、そうはいっても、元の言葉がわかったり、分からなくても響きが似ていることが多かった。
その中で、今でも不思議なのは、高校時代に、同じグラウンドで練習していたハンドボール部が、列を作って、走っている時の、かけ声だった。
しばらく、何も言わずに、黙々と走っていると思っていると、急に、声が揃う。
「ぎょ、ぎょ、ぎょ」
それを、リズムをとるように、「ぎょ」のあとに一拍置いてから、「ぎょ」を続ける。その声を、しばらく出し続けて、また沈黙があって、再び、始まったと記憶している。
「ぎょ、ぎょ、ぎょ」
だけど、不思議に思いながらも、その意味を聞けないまま、高校を卒業し、大学に進学し、そこでもサッカーを続けていたら、ある大学と練習試合をするときに、高校の時のハンドボール部のキャプテンだった人間に会った。彼も、ハンドボールを続けていた。
偶然に会って、お互いに少し驚き、そして、少し話をして、思い出して、かけ声のことを聞いてみた。
「あの、ぎょ、ぎょ、ってなに?」
「分からない」
やはり、というか、部活あるあるなのだろうけど、ただ「先輩」がそういう声を出していたから、受け継いだ、ということのようだった。
それは、だけど、随分と昔の話だから、21世紀になったら、不合理なものは少しでも減るかと思っていたが、ティモンディ・高岸氏の言葉によって、少なくとも「あいさつ」に関しては、かなり最近まで、似たようなことは生き残っているらしいことを知った。
それは、もはや、創業100年を超える古いウナギ屋の、開店以来、継ぎ足し継ぎ足ししているタレのように、変わりにくいのかもしれない、と思って、驚きと、無力感と、感心が入りじまったような気持ちになった。
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