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読書感想 『愛という名の支配』 田嶋陽子 「全人類のためのフェミニズム 」

 おそらくある年代以上の人にとって「田嶋陽子」という人は、テレビに出てきては、ずっと怒っている人、というイメージだと思うし、怖くて、ずっと感情的な印象で、そのまま、私も、最近までは忘れていた。

 だけど、それもつい最近になって、私と同じように、いつも怒っている人、という印象だった人が田嶋陽子氏の著作を読んで、それがまったく変わった。申し訳ない、といった文章を読んだことがあって、そういえば、昔の一時期は頻繁にテレビでは見ていて、だけど、その文章をちゃんと読んだことはないと思い、読もうと思った。

『愛という名の支配』  田嶋陽子

 私も書籍を初めて読んで、自分が無知であることを知った。
 以前のイメージは、おそらく作られたものだと思った。テレビは編集ができるから、怒る場面ばかりを見せられて、たぶんまんまとテレビ側の意図に乗っかっていたことに、そういう操作が多いのを、いい加減わかっているはずなのに、これまで、気がつくことができなくて、それは、やっぱり恥ずかしく申し訳ないことだと思った。

 こうしたことを書くこと自体が自己弁護だし、偽善的だったりすることは分かった上で、でも、この著作は思った以上に、切実で誠実で、しかも優しくて強い思想が書かれていたから、私自身は、昭和生まれの中年男性という、著者にとって「敵」でしかない行動を無意識にとってきた可能性も高いのだけど、それでも紹介したいと思った。

私の「フェミニズム」

 私は、母から苦しまぎれに足蹴にされた人間です。足蹴にされて傷ついた心を長い時間をかけて癒しながら、なぜ私が足蹴にされなければならなかったのか、その理由をずっと考えつづけてきました。

 こうしたことは、男性の自分では本当には理解はできないし、想像するしかないのだけど、田嶋氏は、この著作では、率直でありながら、どこか温かさのある冷静さがあり、この場合も、母親を一方的な悪役にすることもない。それは、「男社会」の中で、追い詰められての行動であり、言動であったことを「理解」していくことによって、自分の人生の歩みの中で、和解するという切実なストーリーでもある。

 その「理解」のためには、今までの「男社会」の学問では、どうしてそうなったのかは分からない。そのために必要な理論として、『「私」を生きるにあたって、役に立つからフェミニズム を使っているのです。私のフェミニズム は、私のフェミニズム です』と、田嶋氏は書いている。このことに対しては、私が何かを語る能力と資格はないとしても、その切実な必要性は、想像させてくれた。

男性の描き方

 この著作の中で、「男」というものは、これまでの社会を作って、女性を「ドレイ」のように扱うことで、目一杯働いて、経済的にも社会的にも有利な位置を占め続けてきた、というのは、本当にそうなのだろうけど、おそらくは有利な地位にいる「男性」ほど、そのことは分からないし、認めないのだろうと思った。自分も、その恩恵に預かっているはずだけど、そのことについて、特に若い頃は、無自覚な部分が多かったはずだ。今だと、ケアレスマン・モデルという表現もされるようになってきている。

 ただ、田嶋氏の著作の中での「男」の描かれ方は、付き合った男性との関係についても、率直で正直には書かれているが、赤裸々のような押し付けがましさはなく、べったりするわけでもなく、突き放しすぎない距離をキープしているように感じた。

 男性の無神経である部分や、自分では見ることもできない醜い像も、正確に描写はされているのだけど、不思議とただ見下して、切り捨てている感じもしなかった。(これは私が男だからそう思いたいだけかもしれないが)。これがフェアな姿勢ということかもしれない。

 それでも、今でも変わらない「男性」のあり方は、過不足なく書かれている。

 そういう男の人たちは、外では民主化だとか自由平等だとか、「万国の労働者よ、団結せよ」だとか言ってきました。でも、それはみんな男向けのことばです。彼らの視界には、女の人権や労働権などはいっていません。家に帰ると、それこそ彼らが罵倒していたはずの、かつての資本家が労働者に対してやっていたのとおなじようなことを、女房にやってきたわけです。

 ここ何年かで、「社会的に立派な仕事」をしながら、社内的や組織内的には問題があった男性像は、こういうことだろうし、それは、本人には自覚はないのだと思う。


 男性と同じように働くとしたら、女性は二重どころか三重労働をすることになります。
 そうやってがんばって、女の人が甲板にかけたその手を踏む、というのがセクハラです。セクハラというのは、「あんたら、二級市民のくせして生意気だ。おれたち一級市民のところに来るんじゃない」という嫌がらせなんですね。そうやって手を踏まれると、みんな痛くて甲板から手を離して落ちてしまう。「私、疲れた。もう働くのいや」と言って。

 私が無知なだけかもしれないが、セクハラについて、これだけ本質的なことが書かれたのは、とても珍しいとも思った。

優しい言葉

 自分が大変な時間の中をくぐり抜けてきた場合に、同じように「まだ」悩んでいる人に、すごく厳しく接する人と、「いま」葛藤の中にいる人に対して、とても優しい人に、不思議なほど分かれてしまう。

 田嶋氏は、幼い頃から大変な時間を歩んできたはずなのに、本の中では、明らかに後者であって、こういう人であったことを、私は、これまで知らずに、分からないままにきたことは、恥ずかしいことだと思った。

 この本が最初に書かれたのが1990年代初頭なので、その頃から変化したことはあるとしても、この30年を振り返ると、表面的には変わったようでも、少し考えると、ぞっとするほどの変わらなさを象徴するような出来事(リンクあり)も、まだ多いと感じるので、ここに書かれていることは、本質的には、今でも通じることだと思う。(男性社会の中で、女性が構造的に「下」にされていることを、ドレイ船の船底にいると例えています)。

 ドレイ船の船底から一歩、踏みだして、甲板の上にのぼってみることは、とても勇気と決断力のいることです。経験がないですから、とても大変です。一人では大変だから、みんなで手をつなごうと言ってみても、手をつないだ人みんながおなじ「女らしく」生かされた人だと、どこにも行きつかない。ドレイ状況におかれているというのは、とても恐ろしいことです。とても生きにくい。そういう生き方を、文化は暗黙のうちに女に強制してきたということです。いま、悩んでいて決断力がなかったとしても、自分のことをイヤな女だと思っていたとしても、それがわかったら、いまあなたが悩んでいるのはあなただけの責任ではない。そう思えたら、もう少し気が楽になる。気がラクになったところで、こんどは、そんな文化に負けないように、二つに引き裂かれている自分を一つにしていってほしい。失われたエネルギーを取りもどしてほしい、と思います。

全人類のためのフェミニズム

 田嶋氏は、今後のことを語る時に、ただ攻撃的でない表現で、女性だけでなく、たぶん男性にも語りかけている。それは、もしかしたら、誤解しているのかもしれないけれど、「田嶋陽子のフェミニズム でしかありません」と語る思想は、「全人類のためのフェミニズム 」にも思えてくる。

 差別は、差別している男性自身もそれに気づかないほど、構造化され、慣習・風俗となり、自然となっているので、目には見えにくいのです。しぜんに見える、男性による女性の構造的支配、女性の私物化、隷属化、そういう男権支配を可能にさせている父権制社会のメンタリティそのものを検討し、もっと民主的で差別のない、ゆるやかでゆったりとした豊かな社会への模索が、今後のフェニミズムの目的なのです。

 女性だけでなく、男性にも、もちろん読んで欲しい一冊です。
 自分も初めて、この著者の凄さを、ほんの少しだけ分かったので、偉そうなことを言うのは恥ずかしいですが、本質的なことは古くならない、と感じました。



(他にも、いろいろと書いています↓。読んでいただければ、うれしいです)。


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