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いろいろなことを、考えてみました。

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自分の能力の足りなさを自覚しながら、いろいろなことを、考えて、書いて、考えました。
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2020年11月の記事一覧

「観光の力」と「観光地の底力」

 何度か作品を見に行ったアーティストが、今年の2月に亡くなっているのを、今さらになって、ツイッターで知った。その個展が鎌倉で行われることを知り、行ってみたいと思って、私よりも、その作家さんの作品が好きだと言っていた妻に伝えたら、亡くなったことにショックは受けつつも、その個展には行きたいと言った。  ただ、コロナ禍で感染者が拡大している時期だし、本当に自主的に外出を自粛してきているし、特にぜんそくという持病をもつ妻は電車に乗ることもなるべく避けてきたから、行けないような気がし

「記憶力のばらつき」……干支と、アニメの主題歌と、中国の王朝名。

 干支が、ぜんぶ言えない。  ね、うし、とら、う、たつ、み。  ここで、記憶が途切れて、そのあとは視界を失うような気持ちで、何も言えなくなる。(といっても、それが本当だと証明する手段もないけれど)  時々、ここから先を覚えようとしたこともある。  うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、い。  最後の「い」まで言えると、ちょっと気持ちがいい。  だけど、今も、覚えていて書けるのは、「み」までで、それ以上は、たとえば全部言える妻に聞いて、自分が途方にくれている時、「うま」などと言

『21世紀の「大人」を考える』⑤『21世紀の「まともな大人」の基準を考える」。(後編)

 21世紀での「まともな大人の基準」を(前編)、(中編)と考え始めたら、長くなってしまいました。人によっては読みにくい内容で申し訳ないのですが、個人的に、どうして「まともな大人」のことを考え始めたり、少しでも「まともになりたい」と思い始めたのか?を書いた方がフェアだと思い、書くことにしました。すみませんが、もし、よかったら、少し重い内容ですが、もう少し読んでもらえると、ありがたいです。 気遣う言葉  約20年前、母親が閉鎖病棟に入院することになり、希望もないが、ただ通う日々

『21世紀の「大人」を考える』④『21世紀の「まともな大人」の基準を考える』。(中編)

 精神年齢のことを改めて考え(リンクあり)、その上で「まともな大人はどこにいるのか?」も再確認しようとして、それで、前回から「21世紀のまともな大人の基準」(リンクあり)まで考えてきました。  もちろん、こうしたことに本当に新しいことを付け加えたりもできないし、未熟なのも当然なのですが、混乱し、下降している21世紀に、さらにコロナ禍で、本当に先が見えなくなったので、自分のためにも改めて考えようと思いました。  そして、前回の「21世紀のまともな大人の基準」について考えた時

『21世紀の「大人」を考える』③『21世紀の「まともな大人」の基準を考える』。(前編)

 精神年齢のことを改めて考えると「老人」はどこにもいないのではないか(リンクあり)、と思ったり、その上で「まともな大人はどこにいるのか?」(リンクあり)と考え、そうなると、じゃあ、「まともな大人の基準」って何?という話に及んでくると思います。  それこそ、ずっと昔から考えられ、語られ、検討されつくしたことだとは思うのだけど、21世紀に入って、また混沌に戻るような流れがあって、さらにコロナ禍によって、また大きく変わって、変わり続ける中で、自分の能力の足りなさを分かりながらも、

週のはじまりは、水曜日だと思っていた。

 どんな理由か分からないけれど、勝手に思い込んで信じていることがあった。  いくつくらいか正確に覚えていないけれど、たぶん小学校へ入って1年か2年くらいまでは、1週間の始まりは、水曜日だと思っていた。 最初の記憶 自分がどんな人間なのか、幼い頃ほど客観的に見ることはできないし、その記憶が古くなるほど、あとになって情報によって出来上がっている記憶だったりするらしい。たとえば、一番古い記憶を尋ねられて、その情景が他の人が聞いた時に、きちんとわかるような内容だったら、それはあとに

『21世紀の「大人」を考える』②「まともな大人」は、どこにいるのだろうか?

 精神年齢とか、人としての成熟といったことを考え始めると、精神年齢的には「老人」はいないのではないか(リンクあり)と思ったり、もしくは、どうしても「大人とはどんな人か」を考えることになる。精神年齢をあげようと努力するのではなく、いろいろとあって、結果として気がついたら成熟し、精神年齢があがっている、というのが自然なことだと思う。  それは、明治時代に、夏目漱石が「高等遊民」といったことを繰り返し書いていた頃から、「大人」のイメージについては、ものすごく大量の文章が費やされて

『21世紀の「大人」を考える』①『「老人」は、どこにもいない(のかもしれない)』。

 「超高齢社会」になっている。平均年齢でいえば、明らかに、とても「高い」国になった。 見え方と思い方のギャップ  病院の待合室などで、5〜6人の明らかに「高齢者」の人たちが話している姿は、よく見かける。  ある時、「えー、見えない」という声が聞こえてきて、どうやら、年齢の話らしく、その声は女性からあがっていたが、見た目の感じよりも、ずいぶんと若い印象の響きだった。さらによく聞いていると、昭和の年号がいわれ、その実年齢よりも10歳は若く見える、つまりは、ここにいるのは、どう

「コロナ禍の中で、どうやって生きていけばいいのか?を改めて考える」③「自粛警察は、どこにいるのか?」

「自粛警察」という言葉は、いつのまにか日常的な言葉になってしまったように思います。ただ、秋になり、やや聞く機会が減りましたが、もし、感染者が再び増えてきたら、おそらく、また増えそうです。その前に、一度、考えてみたいと思います。  その「自粛警察」について語るのに難しいと思うのは、それが、決して他人事ではないということでしょう。  おそらく誰の中にも程度の差はあれ、「自粛警察」は存在します。そう断言できるのは、自分の中にも確実に「自粛警察」がいると感じることもあったからです。

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『「初心を忘れない」は才能なのか、努力なのか』。(後編)

 前編(リンクあり)では、長く仕事をしても慣れたり擦れたりしない「初心を忘れない人」を見て、驚きとともに、それは才能なのではないか、と思ったことから話を始めさせてもらいました。そして、それは才能なのかもしれないけれど、実は、何かしらの努力や工夫で、すくなくとも「初心を取り戻すこと」はできるかもしれない、というテーマで、さらに話を続けたいと思います。 全く別の視点から見ること  毎日、仕事に続け、年月もたって、飽きてきて、だから面倒臭いことは避けたくて、それより、何しろ働く時

『「初心を忘れない」は才能なのか、努力なのか』。(前編)

 「初心を忘れてはいけない」。  たとえば、仕事については、「名言」のように語られていて、これまでも数多く聞いてきた記憶がある。おそらく今も、どこかの職場では言われていそうで、(もしかしたら、すでに、この感覚が古いのかも、という恐れはありますが)だけど、その言葉について、年齢を重ねるほど、不思議に思うことが多くなる。 初心を忘れない人たち  学校を卒業してからずいぶんとたつが、会社という組織にいた時期は3年くらいで、あとはフリーランスでライターを細々としていたのが10年だ