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命を救えるのはお金? それとも?

 2020年の年明けとともに始まった日本のCovid問題は、平時なら救われるはずの命が非常時には救われないかもしれないという事実を明らかにしました。それから2024年3月に至る現在までの約4年間、私の人間関係の範囲だけでも、命と生き死にをめぐる数多くの出来事がありました。
 私にとって最も意外だったのは、「世帯の収入や資産が、いざという時の生き死にを大きく左右しているわけではないようだ」ということでした。

「お金があれば命が救える」という事実は、先進国にはなさそう(ただし米国を除く)

 少なくとも日本において、「救命が可能かどうか微妙」というギリギリの場面では、世帯や個人のお金はあまりモノを言わないようです。一定の資金力があり、その資金を治療に使うことに家族が賛成している場合でも、だから救命されるとは限りません。
 冷静に考えれば、このことは不思議でもなんでもありません。医療機関は、あくまでも医学的妥当性に基づいて判断します。そこに人間の感情が入り込まないとは限りませんし、判断が難しい場面もあるでしょう。でも基本的には「必要かつ保険の適用範囲なら行う」「不要あるいは有害なら行わない」のどちらか。「必要だけど保険の適用範囲ではないから、自費負担が可能でないと無理」もありますが、その範囲は大きくはありません。
 むろん、「必要」の判断がブレることはありえます。たとえば、1年ほど前から話題になっている東京都の西端にある精神科病院では、必要ではなく有害な医療行為が「必要」という名目のもとで繰り返されていたようです。そこまでのことでなくても、医療機関や医療従事者の判断によって若干ブレることは考えられます。場合によっては、そのブレが生き死にを左右することもあるかもしれません。でも、少なくとも保険診療または生活保護の医療扶助を前提とする限り(生活保護の医療は国民健保と同一内容)、お金があってもなくても、提供されうる医療には大きな差はありません。
 もしも、資金力ランクによって一日に利用できる補液の量が「松・竹・梅」と区分されており、「松」なら無制限、「梅」なら一日500mlが上限とされているとしたら、何が起きるでしょうか? 「『松』だから一日10リットルでも」「『梅』だから脱水が補正されなくて死んでも致し方ない」といったことが起きるでしょうか……ありえませんよね? ギャグ漫画の世界ならアリかもしれませんが、現実にしてしまったら、医療というものが意味を失います。
 「いや、米国では実際に、お金持ちでないと充分な医療が受けられないではないか」というご意見はあるでしょう。確かにそうです。それは、公的医療保険制度をなくした米国だからです。他の先進国に対する「やってはいけない」の見本です。

日本における「お金がなくて命が助からない」場面とは?

 「お金がない」ということが、生き死にが左右されるギリギリの場面にたどりつくことが不可能な事態や治療の場にいられない事態を生み出すことは、確かにあります。
 たとえば路上で生活している方が危機的な状況に陥ったとき、命がある間に仲間や支援者や通行人が119番通報してくれるとは限りません。無保険であっても、生活保護の強制的適用をはじめ健保と同様に医療費をカバーする制度が存在しますから、病院にとっての費用の問題はなかったりします。それでも、病院での差別的な扱いに耐えられず、治療が必要なのに強い意思をもって退院して路上で亡くなる事例もあります。
 生活保護制度のもと、地域でアパート暮らしをしている方の場合は、手元に現金がないと救急車の利用が難しかったりします。どこの病院に搬送されることになるかは、決まるまで分かりません。遠方の病院に搬送された後、入院することになればまだしも、数時間で落ち着いてしまって病院を出ることとなった時、「深夜にタクシー代がなく帰宅できない」という事態もありえます。日中はソーシャルワーカーがいて相談できる病院でも、生活保護に詳しいスタッフがいない夜間の時間帯だと、安心して帰宅するための知恵は得られない可能性が高そうです。ふだんは病気と無縁な人の場合、「緊急時は、福祉事務所に医療券を出してもらわなくても大丈夫」ということを知らず、なんとか翌朝や週明けまでしのごうとして手遅れになってしまうかもしれません。子どもの医療費の減免制度があるものの、いったん立て替えて後日の精算となる自治体でも、同様の悲劇が起こり得ます。
 これらの障壁は「救急車に乗る」「病院で治療を受け(続け)る」といった段階の前にあります。まさに「浮世の沙汰は金次第」であり、影響は極めて深刻です。しかしながら、治療の場に至った後で生き死にが左右される事態とは性格が異なります。私は「区分した上で、いずれも解決すべき」という立場をとります。

現状認識・知識・つながり・諦めない気持ちがあれば、命を救えるかも

 私の観測範囲では、誰かの命を救うのに最も役立っていそうなものは、正確な現状認識、だいたい正確な知識、自分の不足を補ってくれる人とのつながり、そして諦めない意思です。
 入院と治療がなければ命が危ない場合、とにかく入院させてもらわないと話になりません。「心停止や呼吸停止の際には延命を希望しない」という事項に同意しないと入院させてもらえないのが現状であるようなら、とりあえず同意のサイン。あとで「考え直させてほしい」と申し出て撤回することが可能だと知っていれば、「ここはサインしておいて、今はとにかく入院を」という判断が可能になります。
 その後も、さまざまな背景によって治療の差し控えを打診される場面はあるかもしれません。でも、そのたびに治療継続をお願いすれば良いだけです。病状や医療資源に関する医師の説明に納得がいかないようなら、即答せずに頼れる誰かに相談し、納得の上で治療継続をお願い。医療機関としては、家族が治療の中断に同意していない以上、妥当な医療は提供し続けるしかありません。結果として、助かる命なら助かることになります。
 病気の時まで「患者力」または「患者家族力」(あるいは、それらを代替できるほど強烈なソーシャルワーカー運)がないと生存を維持できない状況は、まことに疲れます。でも今のところ、老後に突入する前に2000万円の貯蓄に成功しなくても、それらがあれば「絶望しなくて良さそうだ」と思いませんか?

個人にできること、公共にしかできないこと、それらを配分する政治

 個人として「いざという時」に備えるための最大のポイントは、そういうソフトウェアの部分なのかもしれません。公的医療保険を含むシステムやハードウェアの部分の備えは、公共でなくてはできません。
 というわけで、次の選挙に向けて、アンテナを高くしておきましょう。

ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。