見出し画像

2024年障害者週間(6日目): 障害者として最大の原発への懸念は「私、避難できないかも」

 国の障害者週間の6日目にあたり、私自身の原発への最大の懸念、「私のような障害者は、いざというときに避難できるのか?」について、ご一緒に考えていただければと思います。

災害のたびに逃げ遅れる障害者

 大災害のたびに、障害者の「死にやすい」「負傷しやすい」「避難所に到達しにくい」「避難所に居づらい」といった問題がクローズアップされます。健常者でも命からがらという場面なら、より条件の悪い障害者はもっと大変になるのが自然ではあります。
 この事実は、大災害のたびに繰り返し報道されています。また、東日本大震災後の障害者の状況にフォーカスした映画も制作されています。

原発災害で、障害者はどうなるか

 一般的な地震や風水害でも、障害者は健常者よりも厳しい状況に置かれます。ましてや、多くの人々にとって未経験の原発災害なら、なおさらでしょう。
 どのタイミングで逃げる判断をし、どこまで逃げれば十分なのか。判断に必要な情報は、タイミングを外さずに漏れなく提供されるのか(そう期待したいところですけど)。さらに障害者にとっては、「そこに自分の入れる場所はあるのか」「そこに使えるトイレはあるのか」「そもそも、そこまでどうやって到達すればよいのか」という問題が重なります。
 また、それらの情報を誰が誰に伝えるのでしょうか? 周囲の人々とのコミュニケーションは、どのように行えるのでしょうか? 点字や手話、知的障害や認知症のある人に対する情報伝達の必要性を、そこにいる人全員が忘れずにいられるでしょうか?

まずは「事故は起こり得る」という前提からか 

 2011年の福島第一原発の事故は、いわゆる「安全神話」を吹っ飛ばしました。最大限の安全を期して設計し、常に安全であるように運用していても、事故は起きるときには起きてしまうものです。
 しかし、まったく原発なしというわけにはいかない日本の現在の事情もあります。目先の電力需要だけなら、「原発を動かさなくてもよいかもしれない」と言えるかもしれません。長期的には、脱原発が必然だと私は考えています。ですが、地球温暖化や不安定化する国際情勢を考えると、少なくとも今後数年~数十年の期間において日本が原発を手放せる可能性は極めて少ないと思います。
 最大限の安全を追求しながら「もしも」に備えることが、現実路線でしょう。

生活基盤を失うことは、命をなくすことかも

 広域避難せざるを得なくなる場合、障害者は健常者と同様に、生活基盤を失うことになります。
 障害者にとって深刻なのは、地域を離れるのと同時に、生存に必要な資源を失ったり得られなくなったりすることです。人工呼吸器の電源はどうなるのでしょうか? バッテリーで持たせている間に、電力の得られるところまでたどり着けるのでしょうか? 1日に3人必要なヘルパーが1人や0人になってしまったら、生存に必要なケアを得ることは可能でしょうか?
 福島第一原発事故の避難区域では、多くの人々が遠隔地へ避難せざるを得なくなり、現在は「帰郷できるはずだから」という理由で避難先での住居費補助を打ち切られたりしています。避難先でなんとか新しく築いた生活基盤を、再び帰郷によって手放すことは、「あれをもう一度やるのなら、もう生きていかなくていい」という方向性に人を導きかねません。
 もしも原発事故ではなく「地震だけ」「津波だけ」であれば、大災害によって生活基盤を失わせられた人々の損失や再起の苦しみに、一定の配慮がなされるのではないかと思います。10年や20年で立ち直れない方は、必ずいます。原発の場合も、「もう放射線量が減ったから帰れるはずだ、ついては避難先での居住支援は打ち切る」では済まないはずではないでしょうか?
 「原発」の一言が入り込んだとたん、「安全なはずだ」「逃げなくていいはずだ」「帰れるはずだ」と「安全ではない」「本当のことがわからない以上は最悪に備えなくては」「帰るわけにはいかない」が厳しく対立してしまいます。なぜなのでしょうね?

 ともかく、原発の関係する事故や天災の可能性が常にある以上、私は「その時、生きていけないかも」という絶望を軽く味わいながら、災害について考えざるを得ません。やはり、死にたくないです。

いいなと思ったら応援しよう!

みわよしこ
ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。