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イタリア旅行記②

 イタリア旅行の日記です。二日ずつ載せていきます。
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6月1日

 午前8時起床。昨日歩きすぎたのか疲れがずっしりと残っている。よろよろとベッドを出て支度し、ホテルの一階に降りる。朝食はビュッフェ形式で、クロワッサンやチーズ、サラミ、ハム、ゆでたまごなどをぞんぶんに食べる。ホテルに荷物を預かってもらい、予約していたドゥカーレ宮殿へ。
 巨大なドーム型の屋根がつらなる外観に、まず圧倒された。案内どおり進んでゆくと、豪奢な天井の部屋が連続する。宝石箱を裏返したようで、上下左右どこを向いても彫金細工とキリストを描いたこってりと濃い絵画でみちみちていて窒息しそうだ。この空間では一ミリの空白も許されない。装飾に装飾を重ね、直線はすべて優雅にねじられ、シャンデリアは果物を模し、ひとびとはぽかんと口をあけて写真を撮る。

ドゥカーレ宮殿

 次はサンマルコ寺院へ。予約を取っていなかったから心配していたが、30分ほど並ぶと中に入ることができた。モザイクがびっしりと敷きつめられた様子は、黄金色の巨大な洞窟のようだった。あかるくきらびやかな金色というより、陰を帯びた金属質のつめたい黄金色だ。窓からの陽をうけて、うっそりと昏くかがやく。
 もうすこし間近で見たいと思い、さらに料金を払って二階に上がる。ひとびとのざわめきが穹窿に反響し、金色の空気のなかでぼんやりと拡散されている。モザイクはひとかけら五ミリほどで、ひとつひとつ色の濃淡が微妙に異なっていた。こんなにちいさいものを、この広大な空間の縦横に敷き詰める手間を考えると、背骨が冷える。

サンマルコ寺院

 たてつづけに情報量の多い景色を目に入れたせいか、頭の奥が痛い。次はサンロッコ大信徒会見学の予定だったが、広場ですこし休憩することにした。ベンチに腰をおろしてぼんやり雑踏を眺めていると、かこん、と音がした。石畳の一枚が剥がれていて、だれかが踏むたびに空気が抜けて音が鳴る。向かいの教会のそばに、チェロを抱えたひとりの男性があらわれた。椅子に腰かけ、おもむろに弾きはじめる。ひとびとが足を止める。鳩がパンの欠片をついばんでいる。一曲ごとに歓声と拍手がひびく。かこん、と石畳が鳴る。そのすべてが心地良くて、ずいぶん長いあいだそこにいた。

 一時間ほど経っても、演奏はまだ終わらない。名残惜しかったが立ち上がり、チェロのケースにもっていたコインを入れてからサンロッコ大信徒会の建物に入った。
 絢爛な天井はドゥカーレ宮殿にも似ているが、こちらはより落ち着いた雰囲気だ。窓がほとんどなかったせいかもしれない。細部への執拗さは変わらず、ティントレットの絵画で四方がみっしりと埋められている。壁際に大きな手鏡が置いてあってなにかと思ったら、首を痛めないようこれに天井画を映して鑑賞しなさいという配慮らしかった。

サンロッコ大信徒会

 次にサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂に向かう。サンマルコ寺院に次ぐ高さのファサードは煉瓦造りで、足を踏み入れると思いのほか広い。目当てだったティツィアーノの『聖母被昇天』は、ステンドグラスに囲まれて最奥に鎮座していた。位置は高くて遠く、さらに逆光だ。美術館での鑑賞に慣れた目には非常に見づらく、けれどそのうち、見えなくてもいいか、という心持になった。絵の細かな部分を近視眼的に観察するよりも、この作品の置かれた教会のかたい空気、逆光にふちどられた祭壇、そういうものぜんぶを目でたべる、そのようなイメージで鑑賞する方がしっくりくるような気がした。
 最後に、海に面したサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会に行く。白亜の内装はこれまで見てきた建築物よりはシンプルで、けれど床のモザイクが圧巻だった。ふと時計を見ると、予約してあるイタロの時間が近づいていた。駆け足で駅まで戻り、ぎりぎりで電車に乗りこむ。4人掛けのボックス席で、向かいはアメリカ人の夫婦、隣はイタリア人の女性だった。途中で夫婦が下車し、隣の彼女が気持ちよさそうに足を伸ばす。真似をするとこちらを見て笑い、けれどすぐに次の乗客が向かいにあらわれ、私たちは慌てて足を下ろす。 
 フィレンツェに着いたのは19時半だった。想像よりこぢんまりとした駅舎を出て、ホテルへ向かう。まだ陽は高く、日本なら夕方の17時前くらいの感覚。チェックインを済ませ、ロッカーに荷物を入れる。四人部屋のドミトリーで、ドイツ人の初老の女性がにこやかに挨拶してくれた。夕食はどこで何を食べたか覚えていない。たぶんすぐに寝たのだと思う。


6月2日

 起床後、鏡を見てびっくりした。左目の瞼がひどく腫れている。赤い皮膚が垂れて、目のかたちが変わっている。昔から目と喉が弱く、なにかあるとすぐに異常をきたす。ものもらいか、ベッドのシーツにつよくこすってしまったのか。ひとまず持参したステロイドの点眼薬をさす。見た目が悪いだけでさいわい視界には影響がないため、予定どおり外出する。
 サーモンのサンドイッチと、梨のジュースで朝食を済ませる。まずはメディチ家礼拝堂。高さ60m、およそビル20階分に相当する「君主の礼拝堂」の迫力はすさまじかった。この旅行中で受けたなかで、一番か二番のインパクトだったと思う。広大すぎて、どうしてもカメラの画角におさまらない。あきらめて、ただぽかんと口をあけて眺めた。霞んで見えるほどの遥かな頭上で、金色の天蓋がきらきら光っている。

メディチ家礼拝堂

 どの教会も聖堂も、壁や床はもちろんだが、総じて何よりも天井に力を入れている。なぜだろう。見上げる姿勢は人体に負担をかける。首を直角に曲げていられるのはせいぜい数十秒かそこらだろう。天井に見入ったひとびとはそのあと一様にしばらく床に視線を落とし、それからまた顔を上げる。金色のひかりに包まれたキリストや神々、聖人の領域。ずっと見ていることのできない世界。凝視を許されない景色。
 呆然としたまま外に出て、チケットに目をやる。下調べでは10€かかるはずの入場料が、0€だった。手違いかもしれないとしばらく調べるうち、今日が月初の日曜日だと思い到る。市立の施設の入場料が無料になる日。全く気づいていなかった。にわかに喜びつつ、重たい脚を引きずってヴェッキオ橋を渡り、対岸に向かう。ゆるやかな坂の広場に息切れしながらピッティ宮に入場した。こちらも入場フリーだった。
 贅の限りを尽くした部屋に、カラヴァッジョやラファエロがとくに強調されるでもなく、ほとんど無造作に飾られている。あいかわらず天井もすさまじい。

ピッティ宮

 建物を出たあと、もしかして、とウフィツィ美術館を調べると、入場無料の対象施設だった。しかも予約不要だという。事前予約が取れず、出発前から諦めていた場所だったので、胸が高鳴る。
 だがおそらく、えげつない行列だろう。夕方になってからダメ元で行ってみようと思い、ひとまず本来の予定だったサント・スピリト教会に向かった。
 こちらは非常に端正なつくりの教会だった。ちょうどミサがおこなわれていたが、じきに終わって観光客に開放される。疲労がたまって若干気分が悪くなっていたため、椅子に腰かけてしばらく休む。

サント・スピリト教会

 香かなにかを焚いていたのか、わずかにあまい匂いがした。高い天井に空気が烟って、粒子のようにみえる。教会の前では、日曜の蚤の市がひらかれていた。ちいさいけれどくっきりと像が印刷された金のメダイを見つけ、1€で購入してネックレスに通して身につける。連日、キリスト教の絵画を見つづけているせいか、なにか憧憬のような、その禍々しいほどの美しさに僅かでも身を寄せてすがりたい、寄り添いたい、雰囲気に同化したいような気持ちになっていた。身もふたもない言い方をすれば、ディズニーランドでキャラクターのグッズを頭につけるような気分だった。その世界が生み出したものの一部を身につけることで、世界観を肯定し、参入してゆく感覚という意味では、けれどやはりおなじかもしれない。
 いよいよウフィツィ美術館に向かう。想像していた人だかりは、けれどどこにもない。そのせいで入り口がわからず、しばらくうろうろしてようやくエントランスを見つけた。無料の入場チケットを受け取り、保安検査を受けてあっさり入場する。待ち時間はゼロだった。うそやん、と拍子抜けして足を踏み入れる。
 素晴らしかった。ジョット、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、ボッティチェリ、ピエロ・ディ・コジモ、ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロ。教科書どおりの、錚々たる顔ぶれだ。とくにダ・ヴィンチの『受胎告知』が、画像で見るより遥かにあざやかで美しかった。来られてよかった、としみじみ思う。3時間ほどかけ、全館をまわった。
 ウフィツィ美術館でさえこれほど簡単に入ることができたなら、他の美術館も余裕かもしれない。そう思って館を出たあとアカデミア美術館にむかったところ、おそろしい行列ですぐに踵を返した。せやんな、と思いつつ路上で買ったパニーニを食べて休憩する。
 最後に、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会へ向かう。チケットを買って前庭に足を踏み入れると、駅前の喧騒が嘘のように静まり返っていた。外廊の壁に描かれたフレスコ画は長年の風雨にさらされてかすれ、剥がれ、夕方の光をうけてぼうっと淡くひかっている。

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会

 教会内部もうつくしかった。黒と白の縞模様を基調とした空間を、巨大な薔薇窓が後ろからあざやかに照らし出している。翼廊の装飾もみごとで、壁に天井にぎっしりとフレスコ画が描きこまれている。
 サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局にも寄った。たぶん今までいちばん多く、日本人観光客の姿を見かけた場所だった。満足してドミトリーに帰ると、あたらしい宿泊客の姿があった。ルーマニアからやってきた青年で、私が日本人だと知るとものすごい勢いで『進撃の巨人』の話を始めた。いちばん好きなキャラクターはマルロだという。だいぶ玄人やな……と思いながら、私はハンジが好きだと返した。幽遊白書やコードギアスの話もした。まさかこんなところでこんな会話ができるとは思わなかった、と言うと彼は笑った。インスタのIDを交換して部屋を出て、近所の公園でクロワッサンとバナナで夕食を済ませた。
 戻るとドイツ人の女性が声をかけてきた。今日はどこに行ったのかと訊かれて答えると、私が訪れたときはウフィツィ美術館は3時間待ちで入れなかった、と言う。ほんとうに、いったい何だったのだろう。21時過ぎ就寝。


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