私という人間ができるまでのお話②

続き。

小学三年生にあがる頃、私は父親のもとに引き取られた。その後すぐに母親は例の博士と結婚をした。

父親の家は少し前に住んでた頃とは随分変わっていた。同じ家なのに全然違う家に見えた。

母親と違い父親は私を着飾ることはしなかった。髪の毛は多少の女の子らしさを残してるといえばそう言えるような、ショートボブに切られ、与えられた服はすべてスポーツウェアだった。

最初、父親はある意味母親とは違い私達に熱心だった。父親は自分の好きなゴルフを私達に始めさせた。最初は楽しくて仕方がなかった。父親も興味を持った私達が嬉しかったのか更に熱心になった。

私達に先生をつけ、毎晩打ちっぱなしに連れていき練習させた。お遊びじゃなくなった瞬間、私はゴルフが嫌いになった。何故なら上手くできなければ叱られるからだ。

父親は体育会系の人間だった。毎朝、はやくに起こされ、通学前にランニングをさせられた。自宅の庭に打ちっぱなしができるようにネットを建て、帰ってきたら指定されている数、玉を打たなければ家に入れてもらえなかった。

放置子のように育った私達には、突然干渉されるようになった生活がストレスで仕方がなかった。それでも辞めることは許されなかった。

当時、私達は怒った父親が怖かった。

その頃、Yさんという綺麗な女の人が常に家を出入りしていた。私達が引っ越して少しした頃からその人は私達のご飯を作ってくれたり、お世話をしてくれた。Yさんはとても優しかった。だから私達はよく懐いていたと思う。作るご飯は子供好みではないメニューばかりだけれど、毎日温かいご飯が食べれることが嬉しくて仕方がなかった。

そして同時期に父親にDSを買ってもらった。買ってもらったのはニンテンドッグス。ゲームボーイを拾って遊んでいたような私達は大喜びだった。Yさんには二人の子供がいて、たしか私の2つ上と4つか5つ上の女の子。私はその2つ上の娘と一緒にゲームをしたのを少しだけ覚えている。お姉ちゃんができたみたいで嬉しかった。

小学三年生に上がる少し前に、父親は私に「これからはYさんじゃなくて、お母さんと呼びなさい」と言われた。そして父親のことを「Tくん」と呼ぶ事も禁止された。私は特別拒否感もなく、ただ「分かった」と答えた。

ここからはYさんを「義母」と呼ぼうと思う。

その後すぐ、義母とその娘たち、そして父親と私達姉弟でディズニーランドに行った。本当に楽しかった。義母のことが好きだったし、お姉ちゃんができたことも嬉しかった。仲良く過ごしていけると当然のように思っていたし、不安なんてどこにもなかった。

ここからの話を続ける上の前提条件としてまず私達は出来損ないだ。そもそもまともな教育を受けていない。例えば、毎日お風呂に入ること。毎日歯磨きをすること。箸の持ち方から掃除の仕方まで、何一つまともに教えてもらっていなかった。

だからそんな私達に義母は酷く手を焼いたと思う。毎日怒られてばかりだった。一緒に暮らす前は優しかった義母が急に私達のことを嫌っているんじゃないかと思うほどに毎日毎日怒られてばかりだった。

そんな時に、久々に会った母親が私にこう聞いた。「新しいお母さんはどう?」と。私は「怒られてばかり、私のことが嫌いなのかも」と答えた。母親は「仕方がない」と前置きしてこう言った。「あの人はママとTくんが一緒に居るときの浮気相手なんだよ、あの人にも旦那さんがいたけどTくんと浮気してたんだよ」と。

私にとって、これがすべての歪の始まり。 

母親は単に私が懐いていることが気に入らなかったんだと思う。義母と父親が浮気をしていたのも事実だし、子供が二人生まれても父親は母親と結婚もせず、あろうことか職場の事務員だった義母と親密な関係になってしまった。母親がいるのにも関わらず、父親は事務員に通帳を渡していた。その時の母親の気持ちを考えると気の毒には思うけど。母親のそのエゴは幼い私の心を壊した。

この瞬間、私は途端に義母という存在が嫌悪の対象になってしまったのだ。そして母親は暗闇で泣いていたことや貧乏な暮らしをしたことすべてが義母のせいだと言った。それは洗脳に近かったと思う。私は不幸だと、それは義母のせいだと刷り込まれてしまった。

大人になったからこそ言える。義母はいい人ではないけれど、決して悪い人ではないと思う。確かに私達に深い愛情を抱いてるなんてことはなかったとは思うけれど、義母はちゃんと私たちの母親になろうとしてくれていたのだと、今は思える。

だけど幼い私にはそんなふうに考えることはできなくて。私は少しずつ、義母に対して反抗的な態度を取り始めるようになった。

ある日ちゃんと片付けをしなかった私の巾着袋を、義母は捨ててしまった。それは母親がくれたものだった。義母が知っていたのかは知らないけれど、私は泣き喚き、そして責めた。「ママがくれたものなのに」と。そしてそれを母親は「あのアバズレは私のことが憎くてわざとやっている」と言った。私もそうだと思ってしまった。義母が憎くて仕方がなかった。義母好みに変わっていく家の中が大嫌いだった。母親は「あの女は金目当てで近付いてきた」と言った。私もそうだと思ってしまった。

そして私は愚かにも母親が言っていた様々な義母の悪口をその意味もよくわからないまま、義母に吐き出すようになった。その言葉の数々は決して言ってはいけないような聞くに堪えないものばかりだった。

小学四年生に上がって少しした頃から、義母は私に関するすべての事を放棄した。ご飯も作ってもらえなくなった。父親は何も言わなかった。少しずつ父親のことも憎み始めた。

二人の姉も義母につられるように私への態度は酷くなっていった。二人の姉は私のことをまるでゴミのように扱った。事実ゴミだった。放置されるようになった私は清潔感のないクソガキだったから。

そんな生活になっても父親は私にゴルフは続けさせた。だから給食だけでは足りるわけがなく、私は冷蔵庫を勝手に漁って食べるようになった。当然、義母はそれを許さなかった。私が勝手に食べないように義母は別の部屋に冷蔵庫を新しく買い、その部屋に鍵をかけた。それに加えて、私達とは同じトイレも風呂も使いたくないと、義母と二人の姉のために新しく増築もされた。

最初は私だけだったのに、気付けば弟もご飯を作ってもらえなくなった。そのキッカケが何かは私にはわからないけど。きっと私の態度を見てのことか、母親が吹き込んだのか、わからないけれど。弟も反抗的な態度を取るようになっていたから。

父親が義母になにか言うことはなかった。父親は何も用意されない私達に毎晩弁当が届くように手配した。そして父親は私達に「お前らのせいでYさんと気まずい」「お父さんはお前らのせいで幸せになれない」と言った。そしてこの頃から父親は母親がなにかを吹き込んでいると気付いたのかわからないけれど、私達が母親と会う事に対していい顔をしなくなった。

母親はそもそも、父方の親戚達に好かれていなかった。私は幼心になんとなくそれを感じていた。同時に父方の祖母や叔母や叔父が私を好いてないことも。それでも祖父だけは違った。祖父自身婿入りで肩身の狭い思いをしていたからなのか、私達にとても良くしてくれた。そんな祖父も私が小学一年生の頃に亡くなり私達を受け入れてくれる親戚はいなかった。

私の母親と違い、義母は親戚によく好かれていた。だからこそ、私は尚の事親戚から冷たい目で見られるようになった。大晦日には本家に集まりみんなで宴会をして年を越す。それが父方の親戚総出の恒例行事。小学三年生の頃に一度呼ばれたきり、私は呼ばれなかった。大晦日、夕方から私は家で一人で過ごした。行きたくもなかったけれど。彼らが私を見る目が嫌いだったから。私は彼らの言う「あの女」の娘だから。そして私と同じように次第に弟も呼ばれなくなっていった。

私は大晦日が大嫌いだった。いや、全ての行事が嫌いだった。クリスマスも自身の誕生日も大晦日も私は一人で過ごさなければいけなかった。平気なふりをしていたけれど私は子供だったから、やっぱり寂しかったし、そしてひどく惨めだった。

小学5年生の冬の日の朝、私は忘れ物をして通学団の集合に間に合わず、学校に一人で遅れて向かっていた。通学路の途中にある歩道橋を通るとき、前方から来たメガネをかけた男の人に私は「おはようございます」と挨拶をした。その男の人は私を見て、そして返事をしないで私の横を通り過ぎた。と思った。なにか力を感じて振り向くとその男の人は私の制服のスカートを掴んでいた。私が声を上げるより先にその人は私のスカートの中に頭を突っ込んだ。わけが分からなかった。大きな声で「嫌だ!」と叫んだ。その人に掴まれたスカートをなんとか振りほどいて、学校まで走って逃げた。遅刻した私を叱る担任に私は涙ながらにさっき起きたことを説明をした。私は学校でも捻くれたクソガキで、きっと担任は私に手を焼いていたと思うけれど。それでも担任は私の身を案じてくれた。校長室で校長先生や他の先生と話したあと、私は担任に送られて自宅に帰った。リビングで横になっていると、連絡を受けた父親がお昼ごはんを持って帰ってきた。父親は私の身を案じるだろうかと、少し期待していた。そんな私の期待を裏切るように父親はこう言った。

「お前が可愛いからじゃない、見るからにバカで狙いやすいからそんな目に合うんだ」

私の人格形成に大きな影響を与えた言葉の一つだ。そもそも私はやたら変質者に合うことが多かった。旅先で誘拐されそうになるし、しょっちゅうイチモツを出した男性に遭遇した。それらは私が見るからにバカだから、と父親は言い放ち、私の身を案じる言葉は何一つかけなかった。

私は昔、お姫様のように育てられていたといったけれど。この頃の私は髪の毛は短く切られ、女の子らしい格好なんてしなくなった。そして父親は私のことを「ドブス」を略して「ドブー」と呼んでいた。夜ご飯を作られなくなったことで食に異常な執着を示すようになった私は、逆にムチムチとした体になっていった。それを母親はデブと呼んだ。お姫様のように扱われていた頃の自信なんてものはとっくに消えていた。

そして私は、物語の世界に逃げるようになった。リビングは居心地の悪いものだったから、テレビなどは見なかった。DSも出来の悪い私達は取り上げられてしまった。だから、図書館で借りた本や家にある本や雑誌が私の娯楽だった。好んで読んだのはギリシア神話と父親の購読していた新聞の官能小説。物語を読むこと、空想、そして書くことが好きになった。驚くことに私が人生で初めて書いた小説は官能小説だった。

私はこの頃から自慰行為に目覚めた。そしてそれに依存していた。父親が買う「プレイボーイ」という雑誌と新聞の官能小説がキッカケだろう。私がそれらを読んでいることに気付いた父親はそれらを家に置かなくなった。そして、所謂「オカズ」と呼ばれるものがなくなった私は、自己生産するようになった。他にもよく言う「拾いエロ」と呼ばれることもした。そうして私は小学生のうちからありとあらゆる性知識を詰め込んだ。それと同時にそれらは自分には縁のないものだと、思っていた。

友達は居なかったけれど、学校にはちゃんと行っていた。宿題はロクにやらなかったけど、私は幸いに勉学と、そして授業というものが好きだった。学校は居心地のいいものではなかったけれど、家にいるよりはマシだとこの頃は思っていたから。当然だけど授業参観や学校行事に親が来ることはなかった。私がお願いして、母親が一度来てくれたけれど、田舎町ではそれがすぐに噂になった、それを聞いた父親は私の母親に勝手なことをするなと怒った。そうして母親も来なくなった。

卒業式では、皆で花束を持って母親や父親の座る席まで行き、感謝を伝えるというイベントがあった。その日、私は誰もいない椅子に「お母さんお父さん今までありがとう」と言って花束を置いた。他の学友たちは迎えに来た家族と和気あいあいと帰る中、私は歩いて一人で帰った。


疲れた。

続きはまた今度にする。

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