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「愛される女」を脱皮することはできるのか?

私は、いわゆる”フェミニン”な服装が好きだ。
春や夏は軽やかで揺れる素材が好きだし、淡い色も発色の強い色でも「綺麗」「可愛い」と思えば身につける。背が低いので流行のオーバーサイズは似合わないので、タイトな服を着るし、そのために冬についた脂肪を削ぎ落とすようなダイエットもする。

ネイルもアクセサリーもメイクも全部好きだ。

それら全ては「私は私が大好きだ!」という叫びのようなものだ。
もちろんTPOを踏まえて服装や色味を調整はしても、守備に回るより攻めるほうが好きだ。私を奮い立たせてくれる物を私は身にまとっている。

時に異性から「化粧しないほうが可愛いよ」だとか、年配者から「露出しないほうが可愛げが増すよ」だとか、年下から「隙をつくらないとモテない」だとかアドバイスをもらうことはあったが、どうでもいい。

鏡の向こうの私の瞳に「強さ」と「幸福」が煌めいていると思えたら、今日も私は幸せだ。

磨くのは見た目だけでは足りない。
本を読み、オーディブルやラジオを聴き、記事やニュースをチェックする。自分の関心がないカテゴリーも確認したり、友人の最近ハマったものを私も試したりする。
恋人や友人知人と話をするとき、互いにインプット・アウトプットし合えれば皆が満足できる場になるし、次もまた会いたいと思えると信じているからだ。

だから、息抜きや寝る前、起きた直後の情報チェックで自分なりに更新しているつもりだった。

でも、私の幸せを脅かす瞬間、私の「女性として生きている私も好き」は容易に崩されそうになる。私が自分にかける魔法の前提は揺らぎ、私は自分の努力を疑いそうになる。


1.”わからない女”は蜜の味

私の恋人は、私の脆さも強さも知っている。
そのため、私を好きでいる一方で私を恐れてもいる。

そう言いつつも、彼は自分の道を行く人で、私に興味があろうがなかろうが自分の好きなドラマ(超大作)を観せるし、私が聞き流していようが好きなものや最近見知ったうんちく永遠と語り続ける。人生に関わる価値観(結婚・子ども)だって随分と長いこと、問答無用に押し通されてきた。

なんやかんやで多くの場面で、彼は自分の好きなことをしてきたし、私はじっと待ち続けてきた。興味を示したり、付き合ったり、聞き流しながら彼の好きなように話をしてもらったり、やりたいことをやってもらってきたつもりだった。

そう、そのつもりだった。

ある日、彼の友人夫婦と出かけることになった。
その夫婦とは以前から度々会っていたのだが、30分以上の遅刻は当たり前(謝罪も特になし)の夫婦で、こちらの都合は無視で急な誘いや提案があったりと振り回されることも多く、とにかくマイペース。

私は几帳面で常識的な人が好きなので、言葉にせずとも親しくなるのに難易度を感じていた。さらにその難しさに拍車をかけたのが彼の友人A氏の言葉。

A氏は、彼と同様に結婚制度反対派で彼とタッグを組んでいたものの、ある日の食事の席で結婚したことを発表。彼も私もビックリし、彼は裏切られた気持ちになったのだが、後日「B(妻)との喧嘩にもう疲れた…」という理由で白旗をウェディングドレスにしたという経緯を吐露した。Bさんはそんな様子を微塵も窺わせない女性で、私はその話を彼から聞いて嫌な気持ちになった。

「疲れたから結婚してやる」というA氏の姿勢に反感を持ったし、「べつにBさんを愛してるから結婚を決めたと言えばいいだけじゃん」と男友達の前で格好をつけるために関係性を卑下する男の友情のようなものに、嫌悪感を抱いた。その後、恋人とも私たちの結婚について何度も話し合った。

そんな私とは対照的に、Bさんは怒りとは無縁そうな人でとにかくのんびり、ぼんやりした女性だ。大体はヨレヨレにシワの寄った部屋着のような格好で出歩き、いつもぼんやりしている。会話をする時は十中八九、私の恋人に質問を投げかける。

机に肘をつき、両手で顎を支えてリラックスしたポーズで上目遣い気味に、

「わたし、よくわからない。○○について教えてくれる?」
「どうして△△なの?」
「□□ってどう思う?」

と、いつだってどこでだって、4人が揃っている席でBさんが何かを振られて答えること以外で発言するのは、私の恋人に質問する時だけだ。

A氏でも、私でもなく、彼にだけ。

自分の意見を言わず、常に「知らない」「わからない」というスタンスを保ったまま。

恋人がつらつらと説明した後は、感心する。

「さすが物知りだね!」
「へ〜知らなかった〜」
「すご〜い」
「そうなんだ〜、わかった気がする〜」

そして、A氏や私の意見を問うこともないし、自分の主張を続けることもない。明らかに数秒考えれば答えがいくつか浮かびそうなことでさえ、彼女は自分の考えを言わず「どう思う〜?」「〜って何?」と子どものように質問を投下し続ける。

そうして気づけば、何も知らない彼女にA氏と私の恋人が競って物事を教えてあげるレースが始まって時間はすぎていく……。


2.マンスプレイニングに付き合うのは愛か?

白目を剥き、魂を飛ばしてなんとか自我を保とうとする私。

私が代わりに「それって〜〜ってことでしょ?」と言えば、シンと静まり返る場。文脈はクシャクシャに丸めて路上に捨てられ、何事もなかったかのように次なる問いを繰り出す彼女に群がる男ども。

3人から爪弾きにされて切なくなる気持ちもあるけれど、モテテクによってマンスプレイニングを助長させていく気持ち悪さに吐き気を覚える私のなかで起こる葛藤……。

マンスプレイニングとは、「man(男性)」と「explaining(説明する)」を組み合わせた造語で、「”ものを知らない女”に男が教えてやるぜ★」という女性蔑視を示す言葉だ。

そんな光景を前に思わず閉口している私を横目に彼は「体調悪い? 寝てれば? あ、それでBちゃん、話の続き聞いて」の一言。

私は素直に応じて眠ったふりをし、話がひと段落する1時間が経過してから目が覚めたふりをして違う話題を振り、4人に合流……しつつも、心の底から「我が恋人は、私が思っている男では全然ない。見損なった〜〜〜〜★」と彼への好感度は地面を掘る勢いで下がっていくのでした…。

後日「さぞかしマンスプレイニングで気持ちよかったんでしょうね〜」と嫌味で突き刺した結果、「だって君は興味ない話でしょ? 久々にAたちに会ったから会話したかったし、僕の好きなことを聞いてくれるのが嬉しかった」との返事に私は百倍返しを喰らって見事撃沈。

あまりのショックに寝込む私。

だってさ。心底興味ないのに永遠と話を聞かされ続けてきた私の時間のほうがBさんのモテテクタイム(約30分〜1時間)よりもはるかに長いわけですよ。交際した月日のなかで、どれだけ彼の説明に付き合ってきた私がいるか…。

興味がないことがバレないように、私なりの考えや私の知っている話と結びつけることで、話題を膨らませる努力だってしてきた。以前聞いたことをちゃんと聞いていたよとアピールするために「それは前に話していたやつだよね。○○は△△だから〜〜〜だってことでしょ?」と伝えさえしてきた。

私の涙ぐましい努力を「僕の好きなことを聞いてくれるのが嬉しかった」で無視されるショックさときたら…。

告白を拒否した相手に「高飛車女」「高慢女」「調子に乗ってる」と言われたことがある。確かにそうなのだろうけど「だから何? だからお前を好きになれないんだよ」と思ったことがあった。

私の恋人の言葉は、そういう過去を思い出させ、やっぱり私が悪い女のようにも思わせ、自己嫌悪にも至った。

横になりながら私は「ッハ。私の恋人も結局、”わからない女”に教えてあげたい男の類だったんだ。自己主張せず、話題の主導権を奪わず、質問と相手を尊敬する言葉しか発しない人形のような女を彼は求めていたんだ」とすっかり拗ねたわけです。

ここで、私の前に出現する2つの分かれ道。

(1)彼に愛される女になるべく、”バカなふり”をする
(2)彼に愛されることを諦め、自己主張する女を貫く

(1)を選べば己の信念を曲げることになるし、(2)を選べば彼への思いやりや気遣いの欠けた”愛されない女”になるという葛藤。

悶々としながら携帯をいじれば目につくタイトルの数々。

「彼が結婚したいと思うコ」
「彼の本命になれるカノジョの共通点」
「彼が一生守ってあげたくなるコ」

ううううううるせええええ!!!!

女性らしい服装やメイクは好きでも、彼に笑顔を向けるのは、私が幸せを感じている時だ。私は誰かの下にいるために自分を磨いているんじゃない。厳しいと言われようが、私は彼と二人、切磋琢磨して互いに成長し合える関係性でありたかった。

彼の教えたがり欲を満たせば、そりゃ彼は気持ちいいだろう。
犬が撫でてくれる人の傍を離れないように、そりゃ動物は気持ちよくしてくれる存在に好意を寄せるでしょう。

でも、それは愛と呼べるものなのか?
貴重な人生の一瞬一瞬を捧げるに値する関係性を築けるものなのか???

あれこれ考えながら、私は己の”愛され難さ”と向き合いつつ、彼から裏切られた気持ちになってぐしょぐしょに泣いたのでした…。


3.「どんな人間でありたいか?」を問い続ける愛を選ぶ

高校生の頃、駅のホームで「人は肉体を捨てても、個体同士の愛を貫けるのか?」と考えたことがある。

私は人より成長が早かったので、胸の膨らみも8歳くらいから始まり、11歳の頃には胸の形がはっきり出てからかわれたこともあった。中高生にもなれば肉体目当ての異性がウヨウヨしだすわけで、ストーカーにあったり危険な目にあったりもした。

人並みの恋愛も、「この人はとにかく私のことが好きで仕方ないようだ」と思っても、好きな人でも体を求められることに抵抗感を覚えるようになった。それで「私がこの肉体を捨てて、男や女の体の特徴の全てがこの世から消え去って。フワフワの浮遊体になっても、この人は私を求めるのだろうか。私たちは互いを唯一の存在と識別して、今のように触れ合ったり一緒になりたがったりするんだろうか?」とぼんやり考えたりもしたのだ。

残念ながら、現世に生きる我々は肉体から抜け出すことができない。

オカルトな話はともかくとして、私はこの体に縛り付けられたまま、同じく肉の塊に縛りつけられた魂と交流している。その中にある記憶と共鳴する瞬間。その先に見える光を追いたくなる瞬間。私はこの体のことを忘れている。

私は女性でもなく、彼は男性でもなく、ただ「私たち」がいる。

そういう瞬間を体験して初めて、私は「愛」を感じる。

性的なニュアンスも相手に好かれる努力も消失して、ただ何か美しいものを見て心が動いたとき、何か恐ろしいものを体験して手が震えるとき、二人が寄り添って温度を分け合いながら互いの気持ちをひとつにする。感動を共有する。安心させる。

モテの「さしすせそ」は愛の入り口かもしれないけれど、愛の出口はモテの向こうにあるはずだ。


以前、喧嘩の最中、彼は大声で喚き散らし、私をクズと遠回しに呼んで、床に投げ捨てた書類を拾い上げて私の近くを何度も書類で叩きつけた。

親の虐待はそうやって始まっていたから、私は震える声で「やめて」と数度言い、目を閉じて顔を背けた。
それでもやめようとしない彼から私が距離をとって初めて彼は自分が何をしているのか気づき、急いで私から離れた。完全に彼の手が伸びない距離が開いてから、私は慌てて自分の部屋へ逃げ込み、扉の前に物を置いた。暗闇の中で「もう終わりにしよう。来月末までに部屋を探すからあなたもそうしてください」とメッセージを送った。

彼は自分が”そういう人間”ではないと信じてきた人間だった。

私が彼のボタンを押す。私のせいで自分は暴力的な言動をとったと彼は説明した。一見すると理屈が通っているようだ。初めてとった行動の相手が私なのだから、原因はそうさせる私であって悪いのは私だと。

そんなことは知ったこっちゃないし、答えはNOしかない。

DVの加害者が必ず言う理屈そのものだ。何が理由であれ、暴言や暴力が正当化されるはずがない。「そうしていい相手」として相手に甘えている(依存している)だけだ。私はそう理解したから、両親のように相手に叫び声で威嚇したり傷つけようと必死になることをやめた。お互いを不幸にしなくちゃいけない勝敗ゲームをやめられた。

ありのままの自分を受け入れる愛は最上でしょう。
喧嘩ひとつない平和な関係性も最上。

彼はそれしか認めていないから、私たちの関係性は間違いだとよく否定する。

けれど、どれだけの人間が出会う前から成熟しているんだろう?
価値観が120%合っていて、喧嘩を一度もしたことのない友人夫婦はいる。でも、それはどれほど当たり前のことなんだろう?

親子きょうだいでさえ価値観は違うのに。

あかの他人で、性別も生まれ育った環境も何もかも違う人と、反発する機会なく過ごせるようになるには、お互いが成熟していないと難しいのではないか。
少なくとも私も彼も未熟だ。未熟な二人が一緒にいることは間違いなのか?

私たちは、いろいろ話し合った。
いつだって問題とぶつかったら話し合う。喧嘩になるのは、話し合わずすれ違った時ばかりで、むしろよく話し合ってきたからこそ、今も二人一緒にいる。

私がもし、自分の意見や主張を言わず、彼に質問や感嘆の声しか伝えない女だったとしたら。そうしたら喧嘩のない、平和で最上の愛ある関係を築けたんだろうか?

そうしたら、今もこうして隣にいるんだろうか?

私は彼を愛し続けることを選んでいただろうか?
彼は私を愛し続けることを選んでいただろうか?

ifの正解なんてないけれど、確かに私は”愛される女”になっていたかもしれないし、彼は”愛する男”になっていたかもしれない。

でも、私は「なりたい私」にはなれなかっただろう。

彼の隣に立てる私であれなかっただろう。

いつだって私は自問自答している。
彼に愛される女じゃない私に、もっと可愛げがあって愛される女になるべきじゃないの?と。

そうしたら、もっと私の願いは叶いやすいはずだ。
結婚に悩む必要はないし、彼はもっと私を大事にして愛情表現も豊かになって、他の女性の言動に喜んで有頂天になることもないのかも……。

それでも、私は彼が誇れる私として彼の隣に立っていたい。
彼にも、私が尊敬できる人として私の隣に立っていてほしい。

だから、愛されないかもしれないリスクを背負って私は闘う。最上の関係ではなくても、今は未熟者同士、私たちは互いに自己嫌悪と戦いながら、勝ち抜いた先に互いを抱擁する二人でいようと思う。

戦ってくれる彼に感謝して、私はそっと聞き流していた彼の好きなジャンルの本を開く。

頑張ろうと思える力を今は「愛」と呼びたい。

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