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言われんでもそうするし、そうするかは自由にさせていただきます

「楽しんでね!」

これは一種の定型文であり、社交辞令であり、相手に特に悪意もなければ好意すらないのかもしれない。しかし、言われて気になる(イラつく)フレーズがこれだ。

「楽しんでね!」

あなたに言われなくても楽しむよ。楽しみにしてた旅行だもん。

「楽しんでね!」

何かしらのプレゼンやいわゆる“大舞台”を控えた際にもこの「楽しんでね」は現れる。相手がこの日に向けて一緒に頑張ってきた同僚や、アドバイスをくれた上司、影ながら支えてくれた家族……等々ならこの言葉も素直に受け取れる。

だけど、直接なんの関係もないほぼ他人から「楽しんでね」と言われると「え?何?その上から目線??」と感じてしまう。そこは、(具体的なことは知らなくても)この日の為にいろいろ準備をしてきたであろう私の努力をねぎらったり、「へぇ、そんなことやってたんだ!」と驚くパターンじゃないの?

旅行にしたって、あなたに「楽しんでくるように」と指示される筋合いはない。仕事の調整や旅費の捻出、旅程の計画・手配、全てがあなたと無関係で、楽しむかどうかは私の自由にさせてもらいたい。

もはや(うるさいな)とすら思う。

冒頭に「好意すらないのかも」と書いたのは、つまりはそれを受け取る相手の状況や背景に対してなんの気遣いもなく、通り一遍に、右から左になんとなく耳触りの良いフレーズを言っているだけではないかと感じるからだ。私個人に対する興味関心が感じられない。

ちなみに“大舞台”を前にしている時に

「緊張することないよ!」が付随すると、もう、ダメだ。

「緊張しないで!楽しんでね☆」

緊張するか・しないかなんて、自分自身ではどうにかできるものではないのに、何故かこれを言った本人は「リラックスさせてあげなきゃね」みたいな謎の使命感を持っており、さらには「気ヅカイできるワタシはヤサシイ」という自己満足感に味を占めている。そこには私に対する気遣いはなく、自己の欲求を満たす為の道具にされている。そんなように感じる。

こうやってその場で本人に言えなかったことは繰り返され蓄積していきます。そういったことを書いておきます。

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