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10.明智と六角と、忍者・多賀坊人誕生

前回 09.明智神社と、光秀近江出身説 
では、光秀が生まれる前の佐目のポジションについてお話しました。
今回は、光秀の一生を理解する上で必要なバックボーンについてお話します。最初にお断りしておきますと、もちろん

「光秀が、近江の多賀の佐目」で育っていた

という強引な視点と、光秀、近江守護六角氏、本願寺、地元土豪エコ贔屓するのは言うまでもありません(笑)

1.近江守護 佐々木六角氏とは

ドラマでは、どうしても信長・秀吉など天下とった、つまり近江を手に入れた人が主人公になりますので、地味にしか登場しない代々の近江守護 佐々木家ですが、『淡海温故禄』に出てくる佐々木六角高頼を調べていると、かなり魅力的な人物だと思うようになり、今の近江人気質は、この人によって生まれたのではないかとまで、思うようになりました。少なくとも、滋賀県人はもっと 高頼をフィーチャーした方がいいんじゃないかと(笑)

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以前、違う資料用に作ったので、画質が悪く申し訳けないですが、近江は佐々木信綱(1181年-1242年)の四人の息子に分け与えられ、近江守護を三男から続く六角氏が守護を引き継ぎ、途中、四男から続く京極氏と守護の座や所領を取り合いながら、戦国を迎え、京極氏は浅井氏に下克上で奪われてしまいます。佐々木の本家はやはり六角氏だと思われます。

次男から続く 高島氏は後、高島七頭といい、在京御家人の名門であり、足利将軍家の直属部隊で、「麒麟がくる」に出てくる朽木氏、はじめて光秀の名がでてくる田中城籠城の田中氏 ともに ずっと前から六角氏の傘下で、近江守護佐々木家の誉れを持った武将たちだと思われます。

2. 惣村と 忍者、多賀坊人 誕生!

六角高頼は、戦国に向けて近江にあった公家領・寺社領や奉公衆の領地を押領して配下の国人衆に分け与えたため、室町幕府六角征伐がはじまります。これが、1487年 鈎(まがり)の陣で 高頼は観音寺城を放棄して撤退しますが、甲賀山間部でのゲリラ戦を展開します。

これがきっかけで、現在「忍者」と言われている 甲賀古士や 後の多賀坊人が誕生していきます。

坊人

高頼は近江守護ではありますが、村落の自治組織を認めていて(統一できる状態ではなかったとも言えますが)、甲賀は惣村として、高頼と軍事同盟的な結びつきをしていたそうです。

佐目も「惣村」と書いてあり、一般的には京極氏のエリアですが、自治が行われいたので、六角氏と関係が深い法蔵寺佐目道場明智家も受け入れたのではないでしょうか。

近江の人にとって、何もせずに年貢だけ徴収する公家や遠く離れたお寺より、自分たちで自分たちの暮らし方を決められる方がよいに決まってます。
近江一体は、天台宗延暦寺に属していましたが、1465年京都大谷本願寺を焼き討ちしたのをきっかけに、本願寺門主 蓮如上人は近江に逃れ、教えを説いて回ったので、浄土真宗の教えが農村、庶民に浸透し、権力者に対して「自治」を要求し、権力者からすると「抵抗勢力」になっていきました。

甲賀の人が、六角さんを応援したのも、自分たちの為であり、ある意味 WinWinの関係であったように思います。

3. 逃げるが勝ち

城を捨てて、逃げるなんて卑怯者のように思う人もいるかもしれませんが、私は無用な戦いをして見栄をはる人より 家臣や民の命をおろそかにしない道を選んだ高頼が好きです。

そして、暫く、近江守護の座を明け渡しますが、1489年に守護に復帰し、又、逃げるという事を繰り返します。もしかして、将軍家と戦う事をさけつつ、領土を民の物(自分の物)にする為だったかもと、えこ贔屓した見方をしてみました(笑)

4. 三方よし作戦、日野家、甲賀衆、多賀大社 

多賀大社は(当時は、多賀神社ですが)、元々鎌倉幕府の御家人だった京極氏系多賀氏が、神官も兼ねて運営をしていました。大神主は犬上氏です。ところが、本当にバカバカしい同族同志が東西に分かれて戦うという応仁の乱で、京極氏は弱体化していきました。
多賀大社も、次第に協議制になり、近江国士三十六人衆で運営していくという形になっていきます。(実際は36人もおらず、国士という訳でもなさそうですが) 既に、神仏習合しており、境内には観音院があり、本地堂には阿弥陀如来が祀っていました。敏満寺から、僧侶が出向き行事をしていたと言われています。

 六角高頼の3つの策略

そこへ、六角高頼は 3つの手を打ちました。
( まだ、光秀は生まれていません)
1494年
〇多賀豊後守高満に、護摩堂と不動坊舎一棟を建てさせ、日野家より別当を迎えます。日野家は何代にもわたり将軍の御台所を輩出していましたが、有名な日野富子の代で断絶します。日野家の子息が門主となっていた尊勝院には寺領がありません。そこで、多賀大社に目をつけ社領を与え、日野家が落ちぶれている時に助け、これが将軍家、天皇家との太い縁につながります。

〇高頼が幾度と城を放棄し、甲賀に逃げた事で職住を失った者、又、逃げている時や戦いの時に助けてくれた甲賀衆に仕事をつくりました。甲賀には修験者が多く、忍者で有名な木村奥之介一族も、この時 多賀大社の坊人になっています。この時以来、多賀大社の布教活動は著しく遠方に及び、諸国にその名が知られ、全国の武将の崇敬も増えていき、情報が集まるようになっていきます。祈祷もすれば、薬も調合します。

〇多賀大社の実権を徐々自分の息がかかった不動院に実績をあげさせてスライドさせていきます。多賀大社は、京極氏(後、浅井氏)との境目、美濃以東と、京都や西国の行き来には、重要な施設になります。軍事的に、貴重なポイントを押さえた事になります。

5. 光秀のルーツとされる土岐氏と六角高頼

『淡海温故禄』では、明智家が土岐成頼に背き、六角高頼を頼って佐目に住んだとあります。土岐成頼は「麒麟がくる」では、尾美としのり演じる土岐 頼芸祖父にあたります。

高頼は、成頼の息子を猶子としており、土岐の戦いに応援に行ったり、戦ったりしています。六角家臣小川氏によって、佐目より美濃南濃町に分社された十二相神社が立て替えられ、出城代わりに使われていたようです。

 その間に、明智家と近江の人々は知りあいになっていたのでしょう。

そして、六角高頼の息子・定頼の娘土岐 頼芸の正室です。
定頼嫡男・義賢( よしかた)が1520年生まれですので、明智光秀と義賢、土岐 頼芸の室はほぼ同年代かと。
その他に、六角定頼の娘は、 細川晴元継室 武田 信豊室 になっています。これ、のちのち結構、大事なご縁なんですよね。

因みに、 細川晴元は代々将軍の次に偉い管領細川京兆家。細川家の宗家・嫡流です。「麒麟がくる」では国広富之が演じています。とてもよい家柄ですが、この当時は既に力ははなくなっていました。その後、六角定頼の外孫、嫡男昭元は、織田信長の妹「犬」と結婚していますが、これは、個人的に少々むかつきます(笑) 。これは、次回に。

ややこしいので、ついでに 「麒麟がくる」では眞島秀和が演じている
細川藤孝は、細川家庶流ですが、足利義晴・義輝将軍の幕臣として、1547年に細川晴元と戦っています。敵味方です。

武田 信豊は、若狭武田氏で六角定頼の娘と結婚しています。その娘が光秀の母だという説がありますが、若干年代が合わない気がします。
嫡男義統、またもや、六角定頼の外孫は、足利義輝・義昭の妹と結婚しています。「麒麟がくる」では義輝向井理、義昭遠藤賢一です。
(敬称略ですみません。)

さて、土岐氏はじめ、六角氏とかかわりがあれば、何らかの形で将軍家とは関りがあり、明智家が七頭の土岐氏の庶流であれば、家柄は悪くなく、明智家再興を願い、人脈を活かしていたと思われます。

6. 六角定頼と足利幕府

話が前後しますが、明智家が六角高頼を頼って佐目で2~3代暮らしたという事は、光秀が関係したのは、六角定頼だと思われ、六角から離れて行ったのは定頼嫡男・義賢の時代かと想像します。
 
1495年(明応4年)
定頼は、高頼の次男として生まれ、仏門に入りますが兄の早世します。

1516年 還俗して家督を相続します。
室町幕府10代将軍・足利義稙の近侍として仕えています。
足利義稙の母は日野富子の妹です。六角高頼の3つの策略がつないだ縁が実りました。
11代将軍 足利 義澄の正室は日野阿子、継室が六角高頼の娘(諸説あり)
12代将軍・足利義晴の擁立に貢献し、朽木や観音寺城山麓桑実寺境内に約3年にわたり幕府を移しています。つまり、がっつり六角頼りです。

1546年
足利義晴の嫡男 義輝 (「麒麟がくる」では向井理)が、わずか11才で13代将軍の地位を譲られています。ややこしいので、NHKさんのリンク使わせて頂きますね。子供の頃を想像して下さい。

日吉大社で行われた元服式では、管領代として異例の六角定頼が烏帽子親(えぼしおや)を務めています。本来、この役目は管領家である細川家の役目でしたが、当時、将軍は近江の六角に世話になっており、細川晴元自体が戦いの最中であり管領にも命じておられず、先に書いたように定頼は義父でもありました。

そして、この義輝の乳母が、日野 晴光の妻 春日局で、日野 晴光の父は内光であり、多賀大社不動院門主祐尊とは兄弟という事になります。ほんまかうそかはわかりませんが。少し時代がずれるので、検証が必要ですが、1550年の書状に多賀大社不動院門主祐尊とあるので、将軍家との縁は続いていたと思われます。
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つまり、六角氏は、表では将軍家や公家、幕臣とつながり、裏では、全国の大名家の表玄関から入る事ができる多賀坊人の情報と、利害関係で軍事的に協力していた忍者がいた( 甲賀も伊賀も六角系です) わけで、そこに、自由に動ける明智光秀という武士がいたら、便利だっただろうなぁと、妄想できるわけです。

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次回は、いよいよ、光秀登場です。このようなバックボーンを知っているとフムフムと思える事が出てきます。

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近江出身説3

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