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クラシック音楽は大衆音楽だった論

ご無沙汰しております。三國雄峰です。

今日は、のんびり・まったりするつもりでした。そこで、「そんなときにはNHK-FM」と思い、パソコンのストリーミングをONにしました。するとなんと、DJ KOOさんの番組が始まりました。

冒頭から「イエーイ、DJ KOOです!」から、はじまります。ところがその次に、「皆さま、いかがお過ごしでしょうか」。礼儀正しい!さらに続けて、「最近、TVのバラエティへの出演が多くて、僕がDJということが、あまり知られていないようなのですが」という、核心をついた自虐ネタです。

ちょっと待てい!

まったくのんびりできない。それに、その自覚があるのということについて、かえって心配になってしまう。

が、話を聞くうちに、当たり前(かもしれないこと)なことに気がつきました。その前提には、漫画『のだめカンタービレ』の知識もあります。

それは、「今、クラシック音楽と言われているものは、その当時は、実は、ポピュラー音楽だったのではないだろうか」という、素朴な疑問です。

というのは、どの時代も音楽家(現代語でいうとミュージシャン)は、均整の取れた美しい構成を目指しているからです。というか、それが当たり前です。均整がとれていない音楽は、世の中には出ません。

いつの時代でも、自分の作った音楽が美しいこと、そしてできれば、それが人に受け入れられ、聴いてくれる人に幸福がもたらされることを、作曲家は願っています。

私はなかなか、そこまで到達できないのですが。曲は作れるけれども、そのレベルまではなかなかいけない。

そしてこれは、その時代のアーティストそれぞれにとって、共通の悩みであり願望だったのだと思うのです。でなければ、ゴッホは、自分の耳を切り落としません。ゴーギャンは、自分の絵が世界に受け入れらないことに、絶望と諦観を抱かなかったでしょう。ゴーギャンについては、サマセット・モーム『月と六ペンス』をお読みください。

ちなみに、「ペンス」とは「ペニー」の複数形です。イギリスの通貨単位「ペニー」です。イギリスは、当時は週給制度です。相場は、最低賃金で1日1ペニーです。ですから、週6日働くと6ペニーです。

ようするに、最低賃金で暮らす地べたの生活を受け入れてもいいくらい、月(美しさ)を目指すのかという質問でもあり、地上の労働を離れて、あくまでも「美しさ」を求めるのかのいう衝動に従って生きるのか。このような対比を示していると思われます。

ともあれ、美に対する衝動というのは、理性で押さえつけられるものではないでしょう。これは、よくわかります。衝動は「心」から生まれます。問題は、その衝動を、衝動のままに表現して美しいのか、それとも、美的構図に従って表現した方が美しくなるのか。その差だと思います。

哲学は、真・善・美を扱います。その中で、論理の領域が働くのは「美」だけです。美は、論理的に、均整を追い求めることができるからです。

裏返して言うと、善を、理性的に追及する「倫理学」が、「理屈としてはわかるけれども、なんだか納得できない」というのは、ここに限界があります。

真も倫理も、理性を越えたことです。「語りえないことは、沈黙するしかない」(ウィトゲンシュタイン)のです。

というわけで、今日は雑談です。けれども最後に、ちょっとだけ、哲学の限界について話しました。たまにはこんな日も、いいでしょう。では。


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