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伊川津貝塚 有髯土偶 33:神社・歌舞伎座・遊郭

愛知県名古屋市中区栄にある名古屋総鎮守 若宮八幡社の裏の入り口から拝殿前広場に南北に延びる裏参道の両側には境内社が並んで祀られていました。その参道の東側に祀られている連理稲荷社とその奥之院を紹介します。

愛知県名古屋市中区栄 名古屋総鎮守 若宮八幡社
名古屋市中区栄 名古屋総鎮守 若宮八幡社 境内社 連理稲荷社/奥之院

裏参道を裏(北)の出口に向かうと、参道に面した場所に西向きの「連理稲荷社」と記された朱塗りの社号標があり、脇に延びる石畳の参道の数メートル先に南向きの石鳥居が設置されていた。

愛知県名古屋市中区栄 名古屋総鎮守 若宮八幡社 境内社 連理稲荷社 石鳥居

石鳥居の奥には朱塗りの千本鳥居が立ち並び、銅板葺切妻造の社殿に通じている。

石鳥居は南向きで柱には旧名の「連理稲荷六明神」と刻まれている。

名古屋市中区栄 名古屋総鎮守 若宮八幡社 境内社 連理稲荷社 石鳥居/千本鳥居

千本鳥居の中に入ると、そこはすでにハレの世界なので、本当に気分が晴れる。

栄 名古屋総鎮守 若宮八幡社 境内社 連理稲荷社 千本鳥居/社

千本鳥居の出口の先には正面に朱塗りの社、朱の幟、朱の鈴緒、使いの狐の朱の涎掛け、朱の紐でぶら下げられたお願い狐(陶製のミニ狐像)など、朱と石を組み合わせた世界が広がっていた。

名古屋総鎮守 若宮八幡社 境内社 連理稲荷社

朱= 朱雀 観 楽
石= 麒麟 思 怨

それは五行説に当てはめてみると、火と土に当たる要素だった。

賽銭箱には銅の稲魂神紋(ヘッダー写真)が入っている。
石造の使いの狐像は近年になってよく見かける像で、梅の花をあしらった帯と鈴緒が3本下がった朱の涎掛けを身に纏っていた。

名古屋総鎮守 若宮八幡社 境内社 連理稲荷社 使いの狐像

前脚だけ、妙にリアルな刻まれ方をしている。

連理稲荷社の社は銅板葺流造で、木部のほとんどが朱に染められていた。

名古屋総鎮守 若宮八幡社 境内社 連理稲荷社

紅白の幟には「連理稲荷大明神」とある。
案内板『縁結び・夫婦和合の連理稲荷社』には以下のような由緒が紹介されていた。

“雄雌狐がご縁を結ぶ”不思議なお話

連理稲荷社の由来は、江戸時代後期の学者富永華陽(かよう)の記した「尾張真記」に次のように記されています。
むかし若宮八幡社の境内には、二百三十歳の雄狐と、百五十歳になる雌狐の夫婦が棲んでいました。

ある日の夜のこと、境内にあった芝居小屋の番人として、寝泊まりをしていた立舞の政拾(まさはる)という人の夢の中に美しい巫女が現れて、「私は若宮八幡社に棲んでいる狐です。長いあいだ棲んでいますが、 未だ官位(朝廷からいただく位)をいただいておりません」と嘆いた。

それから何日か過ぎた夜、政拾の夢の中に今度は白髪の老人が現れて、「私はこの若宮の社に二百何十年も様んでいる狐です。長いあいだ棲んでいますが、 未だ官位(朝廷からいただく位)をいただいておりません」と嘆いた。

それから何日か過ぎた夜、政拾の夢の中に今度は白髪の老人が現れて「私はこの若宮の社に二百何十年も様んでいる狐です。しかしまだ決まった住処(すみか)の洞穴がありません。神社の中に洞穴を掘ることは恐れ多いことですが、もし洞穴暮らしを許していただけるならば、神主をはじめ町内を災いから 守りましょう」と告げた。

政拾はこの二つの夢のことを神主に語り、天保四年(1833)奉行所に許可を願い出て小さい祠を建て、京都の藤森稲荷神社(伏見稲荷)から御分霊をいただき、縁結び夫婦和合の連理稲荷社としてお祀りされました。

『縁結び・夫婦和合の連理稲荷社』

上記文中に「境内にあった芝居小屋」とあるが、この「芝居小屋」とは歌舞伎座のことだと思われる。
尾張藩第7代藩主(徳川政権中期)徳川宗春(むねはる)は第8代将軍徳川吉宗が質素倹約財政を施行し、全国の祭りや芝居などの縮小・廃止を推進していた時代に、真逆の規制緩和政策を行なった。
このため、尾張には多くの歌舞伎座が設けられ、全国の役者が尾張に集まった。
この時代があって、今でも名古屋は「芸所」と呼ばれている。
歌舞伎座は江戸時代にはどこも大きな社地を持っていた神社の境内に設けられた。
神社・歌舞伎座・遊郭は尾張の不条理要素3点セットだった。

ところで、徳川宗春自身も歌舞伎者だったとされ、江戸時代に出版された徳川宗春を描いたとされる図が以下だ。

宗春は波に千鳥の派手な柄の着物を身に付け、べっこうの斑の唐人笠を被り、異例に長い煙管を咥え、黒牛の背中にあぐらをかいて乗馬(?)している。
周囲を取り囲む小姓連も女性のような髪を結い、派手な縦縞の振袖を身に付け、太刀の鞘を肩に担いで、歌舞いている。
この図は『花の慶次』や『はぐれ雲』などの漫画作品で歌舞伎者を表現する場合によく下敷として流用されているものだ。
しかし、宗春の規制緩和政策は商人たちの繁栄を呼び込んだが、尾張藩には莫大な財政赤字を招いてしまい、幕府から隠居謹慎の命を受けてしまう。
しかし、表向きにはその命に恭順したものの、実際には自由に出歩き、茶碗を焼いたり、絵を描いたり、光明真言や念仏を唱えたりして、悠々自適の生活を送ったという。
宗春の墓は平和公園の中に奉られており、自由に参拝できる。

ところで、ここ連理稲荷社には奥之院も存在しており、連理稲荷社本社の裏面に、裏参道につながる独自の社頭と石畳の参道を持ち、以下のように西向きに祀られている。

名古屋総鎮守 若宮八幡社 境内社 連理稲荷社 奥之院

社頭の社号標には「連理稲荷社奥之院」とある。
連理稲荷社本社前からも別の脇参道が設けられており、奥之院に向かうことができる。
その奥之院にも千本鳥居が設けられていた。

奥之院の社頭には石鳥居に代わって「○にカ」の刻まれた石門が設けられているが、これはほかの境内社でも使用されていた。

名古屋総鎮守 若宮八幡社 境内社 連理稲荷社 奥之院 石門/山道
名古屋総鎮守 若宮八幡社 境内社 連理稲荷社 奥之院 石門 紋

何を意味する紋なのか思いつかない。

奥之院のアルミニュウム造の賽銭箱には朱の稲魂紋が装飾されていた。

名古屋総鎮守 若宮八幡社 境内社 連理稲荷社 奥之院 神紋

奥之院の社は銅板葺流造で形は連理稲荷社本社とおなじだが、木部に朱は使用されておらず、素木造になっていた。

名古屋総鎮守 若宮八幡社 境内社 連理稲荷社 奥之院

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名古屋総鎮守 若宮八幡社前の100m道路(若宮大通)もそうですが、空襲で焼け野原になったことから設けられたものに、徳川宗春の墓もある平和公園があります。名古屋市内に寺院は多く、戦前までは名古屋市内に真っ直ぐな道路を通すのが難しい状況にありました。しかし、空襲は278の寺院とその墓地(墓数合計18.7万余基)を1ヶ所に纏めてしまうことで、名古屋市内から不条理な道を排除し、区画整理できることにつながりました。そして、招致しようとして幻に終わった名古屋オリンピック(1988年)では平和公園内にスタジアムが建設される予定だったのです。

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