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伊川津貝塚 有髯土偶 32:橘とハタ
愛知県名古屋市南区呼続(よびつぎ)の曽池遺跡から北北西6.5kmほどに位置する名古屋総鎮守 若宮八幡社に向かいました。鎮守社とは特定の建造物や一定区域の土地を守護するために祀られた神社のことですが、名古屋に鎮守社が設けられていることを、どれくらいの名古屋人が知っていることでしょうか。私はこの20年以内にここ名古屋総鎮守 若宮八幡社に初めて参拝にやって来たきた時に、名古屋に総鎮守社が存在することを知りました。この若宮八幡社は名古屋市中区栄3丁目に存在しますが、同じ中区に居住しているか、通勤で栄に通っていないと、ほとんどの人が隣の区のことを知ることはないでしょう。名古屋人が誰でも知っている愛知県の神社というと、尾張三宮の熱田神宮か、はだか祭が新聞TVで報道される尾張国一宮の真清田神社(ますみだじんじゃ)の2社くらいです。なぜ、尾張国一宮より三宮の熱田神宮の方が知られているのかというと、真清田神社の存在する一宮市(いちのみやし)より熱田神宮の存在する名古屋市の方が人口が多いことと、熱田神宮が皇室と関係のある三種の神器である草薙剣を神体として祀っている神宮であることなどが要因とみられます。 一方、名古屋総鎮守 若宮八幡社の祀られた名古屋は徳川家康が名古屋城を築城(1609年)して大きな城下町となったものの、若宮八幡社の創建された飛鳥時代(701年〜704年)には鎮守社であったものの、「総鎮守社」は名乗ってはいなかったでしょう。
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●100m道路と名古屋総鎮守 若宮八幡社
名古屋総鎮守 若宮八幡社は現在は東西に延びる若宮大通の北側に面している。
若宮大通の名称は若宮八幡社に由来する、いわゆる100m道路だ。
100m道路は空襲で焼け野原になった状況を利用して戦後の各都市に官僚だった田淵壽郎(じゅろう)によって表向きは緑地帯と防火帯を目的とし、裏では航空機の滑走路として利用できることを目的として立案されたもの。
全国に24本の100m道路が計画されたものの、この若宮大通、久屋大通(名古屋)、平和大通り(広島)の3本が実現したものの、計画を察知したG.H.Q.によって、建設は中断されている。
こうした、日本のために働いた人の名前は消される傾向があり、以前にはWikiの「100m道路」の項目に記載のあった記憶のある、田淵壽郎の名は抹消されている。
さて、若宮大通を西から東に向かっていると、若宮大通の広い歩道に面して南向きの石造八幡鳥居が立てられていた。
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右脇にある社号標の「名古屋総鎮守 若宮八幡社」という名称からすると鳥居の規模が小さく感じる。
この石鳥居の真正面奥20mあまりの場所に銅板葺屋根の社殿があるなと思ったら、手水舎であることが判った。
鳥居に比して手水舎は「総鎮守」級だ。
ただ、100m道路に違法駐車は無理なので、若宮八幡社の周囲に愛車を駐められる場所はないかと、反時計回りに周回していると、若宮八幡社の裏面である北側が駐車場になっていることに気づいた。
それで、裏面から社内に延びている裏参道とも言うべき参道を辿って、再び、社頭の石鳥居の前まで戻って来たが、ここは社地の広い神社で、社地内に迎賓館の大きなビルが建っている。
改めて表参道を手水舎まで進み、右に90度折れて10mほど東に進むと、南向きの大きな拝殿の正面に出る。
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尾張一宮真清田神社の拝殿や熱田神宮は形式が異なるので比較できないが、同じ形式の尾張二宮大縣神社(おおあがたじんじゃ)の拝殿より大きく、美しい。
個人的に遭遇したこの形式の拝殿としては愛知県下最大の拝殿だ。
最初に来た時は拝殿直前まで観に行ったが、以後は恐れ多いので、金色の三つ足橘紋の付いた銅板葺屋根の付いた賽銭箱の前で参拝した。
この参道に面して掲示されていた『若宮八幡社の御由緒』には以下のようにあった。
御祭神 仁徳天皇 応神天皇 武内宿禰
当神社は文武天皇大宝年間(701〜704)に那古野庄今市場(現在の名古屋城付近)に創建され、天文元年(1532)三月十一日織田信長公の父信秀公の那古野城攻略の戦禍により、社殿ことごとく焼失いたしましたが、天文八年(1539)再建、その後豊臣秀吉公は社領二百石を寄進、慶長十五年(1610)徳川家康公は名古屋城墓域に際し社殿を現社地に遷し、名古屋の総鎮守と定められました。寛文四年(1664)二代尾張藩主徳川光友公は社殿の造営を行い、以降歴代藩主の崇敬すこぶる篤く、営繕修造などは明治維新まで藩主によって行われました。
〜以下略〜
まず、祭神に関して、八幡宮の総本社である宇佐神宮とは若宮であることから、異なっている。
宇佐神宮の祭神は以下の3柱。
・八幡大神(応神天皇)
・比売大神(宗像三女神)
・神功皇后(応神天皇の母)
メインが(第15代)応神天皇となっているが、若宮八幡社の場合はメインが応神天皇の息子の(第16代)仁徳天皇になっている。
そして、若宮八幡社に祀られている武内宿禰(すくね)は景行天皇に始まり、応神天皇〜仁徳天皇に至る5代の天皇に合計283年間仕え、360歳まで生きたとされているが、第73世タケウチスクネを名乗っている竹内睦泰氏が「タケウチスクネ」は役職名と言っているように一人の人間ではないとする説はある。
ところが大物主を役職名としている『ホツマツタヱ』は武内宿禰に関しては個人名としているのが面白い。
ところで、賽銭箱の神紋が不明確だったので、拝殿の屋根に乗っている千鳥破風(ちどりはふ)に装飾された破風拝紋(はふおがみもん)金飾りの三つ足橘紋を撮影した。
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さらに破風拝紋金飾り部分をUPにしたのが下記写真だ。
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後で駐車場に面した若宮八幡社本殿の裏面から西側に迂回して撮影したのが以下の銅板葺流造の本殿だ。
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この流造の本殿も大きい。
銅板葺の廻廊には連子窓(れんじまど)が巡らされていた。
本殿の正面から東側に並んで祀られている若宮恵美須神社の社頭に向かった。
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若宮恵美須神社は石造の明神鳥居と鳥居から始まる石畳の参道と銅板葺切妻造で吹きっぱなしの拝殿を持つ境内社だ。
祭神は主にえびす、ヒルコ、事代主(ことしろぬし)という3つの別名を持ついずれかの神であると考えられる。
本殿は銅板葺切妻造で躯体は総素木造のまだ新しい本殿になっていた。
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若宮恵美須神社の脇からは裏の出入り口から延びている参道を北に向かった。
若宮恵美須神社本殿の裏面に東向きに祀られていたのが合殿社だった。
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この境内社は5社が合祀されており、若宮恵美須神社と同じく明神鳥居、石畳の参道、吹きっぱなしの拝殿が設けられていた。
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この合殿社に面白いものがあったので拝殿に入った。
奥の連棟社に合わせて社名を墨書きされた素木の名札が小型の鈴2コを下げた朱の鈴緒に取り付けられていたことだ。
この合殿社も新しいものだが、5社の境内社が並ぶ連棟社を区切る柱が連棟社としては太い物で、それに朱色の5本の鈴緒は映えていた。
この5社の祭神と神徳を案内しているパネルが以下だ。
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5社の中であまり遭遇することのない社が「香良洲社(からすしゃ)」だが、祭神の稚日女尊(ワカヒルメ)はスサノオの乱暴が原因で亡くなったことが原因でアマテラスが岩戸隠れをする原因となった女神だ。
相殿に少彦名命を祀っている理由は不明だ。
社名の「香良洲」は総本社と思われる三重県津市香良洲町の香良洲神社の社名が香良洲の浜から取られていることによる。
もしかすると砂が黒い海岸なのだろうか。
航空写真を見ると砂ではなく、GoogleMapやYahooMapでは海が黒いのだが、これは陸との境目を強調するために黒っぽく表現したもので、自然の色とは違うようだ。
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八幡社は末社として祀られることの多い稲荷社を除くと最多の4809社が祀られている神社です。社名に「ハタ」が含まれているように秦氏が関係している可能性の高い神社です。八幡社神紋の橘は秦の人々を率いて徐福(じょふく)が日本列島に探しにやって来たという仙薬であるとされている果実です。
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