今朝平遺跡 縄文のビーナス 64:石・鉄・青銅
GoogleMapで豊田市の∴記号(史跡・名勝・天然記念物)のある場所を巡ることにします。最初に、もっともよく通る豊田スタジアムの南側に存在し、豊田市内唯一の前方後円墳である八柱社古墳(やつはしらしゃこふん)に向かいました。八柱社古墳に向かうのは2度目で前回は2011年にやって来ています。
豊田市森町に位置する八柱社古墳は正確には前方後円墳の系統の一つである帆立貝式古墳だ。
その東側には八柱神社があり、八柱社古墳は八柱神社本殿の真後ろに位置している。
なので、まずは八柱神社に向かった。
その社頭は社地の東端に位置している。
社前の一般道は狭いので、愛車は社頭の北側のふくらみのある場所に駐めた。
社地は一般道より50cmほど上げられており、石鳥居に向かって上りの傾斜地になっており、社頭にも石鳥居の麓にも石段が設けられている。
社頭の3段の石段を上がると、左手(上記写真左側)も一般道に面しており、右手の社地内社頭脇は灌木や中木の社叢が茂っている。
その灌木の前、一般道から10 m近く引っ込んだ場所の右手に社号標が設置されていた。
石鳥居はさらにその5m以上奥に位置しており、鳥居の正面奥に拝殿の屋根がのぞいている。
その拝殿は高木の社叢にとり囲まれている。
社号標は自然の大型の石で囲われたコンクリートをたたいた基壇上に建てられ、「八柱神社」とだけ刻まれていた。
石鳥居に向かうと、その手前から社地は高さ50cmほどの石垣と3段の石段で上げられており、石段上には白っぽくて細かな砂利が一面に敷き詰められており、その中に神明鳥居が建てられていた。
鳥居の正面60m以内に拝殿が見えている。
石段を上がり、鳥居をくぐると、正面の拝殿とその裏面に見えている回廊は鉄筋造であることが解って来る。
拝殿の屋根には7本の鰹木と外削ぎの千木が乗っており、「男神」を示している。
拝殿前で参拝したが、社内に建てられた『社記』の「祭神」と「相殿」には以下のようにあった。
社名となっている八柱神社の「八柱」とは上記相殿の神以外の八柱の神を指している。
筆頭に祀られている正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命だけ、名称が長い。
この名前は『古事記』で使用されている名称だが、同じ『古事記』でもほかの神のように6文字名の「天之忍穂耳命(アメノオオシホミミ)」も使用されている。
Wikipediaではその名前の意味を当ててある漢字で解釈しているが、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命が存在していた時代には漢字はまだ使用されていなかったのだから、音で解釈しなければ意味がないのでは。
正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命の名前の中で気になる名称が「ミミ(耳)」だが、「耳」は「神霊」を二つ重ねた尊称と解釈されているのだが、なぜ、「神霊」を二つ重ねると「耳」になるのかという説明がないので、結局、「ミミ(耳)」の意味は解らない。
正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命は日本神話では天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれた五皇子の長男とされ、神武天皇の高祖父に当たる神だ。
上記八柱の神のうち男神の五柱の神は素戔嗚尊が姉、天照大神の勾玉を噛み砕いて掃き出して生まれた御子神である。
そして、女神の三柱は天照大神が素戔嗚尊から剣を受け取って噛み砕いて掃き出して生まれた御子神だ。
それぞれ五男神と三女神は天照大神と素戔嗚尊がそれぞれ生んだ子を取り替えたとされているので、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命は天照大神の御子神ということになっている。
勾玉と剣は三種の神器のうちの二神器、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ:草薙剣)と共通している。
三種の神器は石器(八尺瓊勾玉)、鉄器(天叢雲剣)、青銅器(八咫鏡)それぞれが人類が道具とした時代を現しているとみることもできる。
日本列島では青銅器と鉄器は、ほぼ同時期の紀元前3世紀頃、大陸から伝来したとされている。
712年に成立した日本最古の書物『古事記』では金属製とみられる鏡と鉄刀は神話時代に存在したことになっている。
天照大神の曾孫である神武天皇が日本を建国したのは西暦で539年とされているから、私見に過ぎないが、天照大神を人間とするなら、『日本書紀』を元に算出された『上古天皇の在位年と西暦対照表』から推測すると、天照大神と素戔嗚尊は神武天皇より280年ほど前の人物とみられ、日本国が成立した紀元前660年から推測すると、紀元前10世紀頃の人物とみられます。
このことからすると、青銅器と鉄器は紀元前3世紀頃ではなく、紀元前10世紀頃に伝来していたことになる。
日本に朝鮮半島から伝わったとする事象は近年、覆されているものが増えつつある傾向があるので、いずれ紀元前10世紀頃に伝来に変更になる可能性はあると思える(超強引😅)。
しかし、天照大神の岩戸隠れ神話に鏡が登場しているのがそれを証明している。
なんと、この神話からは天照大神は岩戸から出て来るまで、鏡の存在を知らなかったようで、自分の顔を認識できていなかったことが分る。
ちなみに天照大神の顔前に鏡を差し出したのは天糠戸神(アメノヌカド)という神だ。
名前以外に詳しい情報のない神だが「ヌカ(糠)」という台所に関係のある音を持つことと、鏡を持っていたことからすると女神なのかもしれない。
最高神の天照大神が鏡を知らなかったのに、鏡を持っていたということは大陸にルーツを持つ神だろうか。
気になったのは拝殿前の向かって右脇の手水桶などの石製品が置かれている場所にあった以下の巨石だ。
最下部は地面に埋まっているように見えるが、注連縄が張られているわけではないので、磐座として祀られている感じはしないのだが、表面は全体が紫黒に焼けており、水平、縦、斜めに亀裂が入っている。
もしかすると八柱社古墳石室に使用されていた石である可能性もあるのだろうか。
拝殿の左脇に回ってみると、ヘッダー写真のように銅板葺屋根を持つ渡殿に続いて5本の鰹木と外削ぎの千木を持つ神明造の本殿が立ち上がっていた。
屋根とアルミサッシ部分以外はすべて鉄筋造のようだ。
男神を示す鰹木と千木は正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命に代表させたものかもしれない。
前にやって来た時から12年が過ぎているが、社殿にほとんど汚れやくすみが見られなくて、綺麗な社殿だ。
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「八柱神社」という名称は主に愛知県で使用されていますが、その総本社は「 熊野三山」(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)です。「山」と称しているように神仏が習合していた場所が明治期の神仏分離で神社とされているわけです。かつては五男三女の神はまとめて「熊野権現」と呼ばれていました。
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