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【雑記】落語と人々と私

#note  #やってみた大賞 応募作品

まずは、こちらをご覧ください。

※コロナ禍にある2020年、ケーブルテレビで市民から市民へエールを贈る企画があり、私、中家すゞめ講談を収録していただきました。
こちらは、その横から自分用に撮ってもらった映像です。


私が人生でやってみたのは、落語・講談をやることで人前に立てない自分が人前に立つということです。

私はカッコ悪いもんは人にも自分にも見せたくないというプライドの高さを持て余しているゆえ、あまり堂々とワクワクしたりはしゃいだりしないので、他の人から見たらとても感情の乏しい人に見えるんだろうと思っています。


というわけで。

今回は、珍しくまじめに雑記を書きます。

〈結論〉
いつ死んでも後悔はありません。笑

こう書いてしまうと、後ろ向きに生きているように見えると思います。
だいたい、これ言うと怒られるんですよ。笑。

だけど、これは
やりたいことはやりきったからもう十分!
と言うことなんです。
20代から30代にかけてやりたいこと
全部やりました。
40代の今は1番大変ですが、
私にしてみれば、今は余生なんですよね。


〈ちょっと振り返ります〉
中学、高校時代はなぜ生まれたのか意味がわからなかった。
社会人になり、その積み重ねで私のバケツの水位は上がって、溢れました。

はい、鬱になりました。
原因は所謂、人間不信。

今回はこれ、あんまり関係ないんですけど。

そもそも、上に貼り付けた動画に至る人生は、鬱きっかけでした。

入院したんですけど、鬱で。それが23歳かな。

で、そのちょっと前に宮藤官九郎さんのドラマ タイガー&ドラゴンがやってまして。
高校の頃、落語見たなーってかなり楽しかったなーって。思い出して、ハマったんです。沼。
寄席行き出して、落語の魅力が溢れて溢れてブワーでした。それからが、沼でした。

入院中は、その時の神様、古今亭志ん朝のCDを持っていたものを毎日に近いほど聞いていましたね。
んとぉにねぇい、おまいさん、良い加減にしとぉくれよぉう。
みたいなのを…毎日。

〈覚醒〉
…落語やりたいな。

そんなふうに思うのは、偶然でなく多分、そう言うレールは自分で敷いてました。

よく昔見てました。
午後10時くらいのNHK教育テレビ。

能、文楽、舞踊、歌舞伎、落語。

実際に寄席に行ってるうちに、忘れていた何かがバチーンってなってたんでしょうけど、その時は、よくわかってなかった。

絵を描いたり文章を書いたりするのは、昔から好きだったので、落語もそこに取り込みたかったはずだったんですが、絵と文章から距離を置いた時期でした。

でも、

表現することなんかやりたいなって思ったら
俺んとこ来ないか
って言ったのが、落語だった。

そんな感じです。

〈行動〉
それからは、落語を覚えました。

社会人のサークルに入り、みんな60過ぎの人ばかりで、可愛がられました。孫のように。
なんせ、24歳は、まだ孫でしょう?
しかも女子だったので!

実力もないのに客寄せパンダでした。
きものだってちゃんと着られなかったのに!笑
新聞にも載りました。笑

嫌でしたね。笑


落語会のお客さんのアンケートには、「あなたはなんなの?」と悪口を書かれて「あなたこそなんなの?」と苛立っていました。
知らない人の声って怖い。笑

ただの趣味の素人落語家が、そんな他人のことを気にして生きなければならないというのは、苦行でした。

私は落語は好きだが、落語のお客は嫌いだな。
と一丁前に思った時期があった。

宴会の余興で落語をやれば
どんなに話をしても話は聞いていない。
バカの集まりじゃないか。何故呼ぶんだ?

そう思う時期もありました。

こちらの意図と、向こうの意図が違うだけと気づいたのは、割と早くて、余興に行くのはやめました

それからすぐに、その社会人サークルは辞めてしまいました。
理由は他にも色々あるけど、話聞きたい人はTwitterのDMください。あ、本気にしないでね。

〈仲間〉
今現在は、実質どこにも属さないで、寄席に呼んでいただけたり、自分でやったりしています。

これは、すごく人に恵まれていて。

わけがありましてね。


東日本大震災のあった年、私は30歳になり立てでした。当時の誕生日、ショートケーキを1日で3個食べました。
色んな人がいろんなかたちでお祝いしてくれました。

震災前、県外に落語で行くことはほとんどなくて、県内を中心に(あ、福島県です。)落語をやっていました。

29歳までいたイベント会社をけんか当然でやめて、夜の飲食店でアルバイトをして次の仕事を探していた時期です。

根無草も同然の生活です。
落語は、やってましたけど。


2011.03.11
私が、起きたのが午後2時ごろ。とりあえず、パスタを食べようなんて、村上春樹の小説みたいに優雅にしていたんです。
そしたら、割と強めに1回目揺れて。
その前から地震はあったので、また同じやつ?
みたいな感じで余裕な感じでいたんですが、次第に強くなって、2回目がすごかった。
停電、断水、原発爆発。でした。

酷く被災したわけじゃないけど、水浸しの店内を掃除した記憶があり、バイト先からは「もう、無理だから!」と、3万円くらいを現金で押し付けられてクビになりました。
何が無理だったのかは、忘れましたが、とにかく、無理だったんでしょう。


そんなこんながあったけど、
近所のグループホームに落語をしに行きました。
みんな笑ってくれて、正直、驚きました。
もしかして、戦争中もこんな感じだったってコト? ってちょっと思います。
不安な時ほど笑いたい。私もそう。

落語で鬱状態から元気になった私は、落語で何かを元気にしたい

その考えはかなりトンチキなものだったとは、割と早く気づくのです。

避難所に行かせてもらったのは3回。
みんな、娯楽が欲しい時期に入って来ていたみたいです。ボランティアで炊き出しに出ていた方に呼んでいただいて落語をやらせてもらった。

だけど、私では力が及ばないのだと思った。

学校の体育館で何日も暮らす浜通りの人たちには、急に知らない他人が来て、おもしろいかどうかわからないものを見せられる感覚だったでしょうし。
笑いは起きず、もらった言葉は「気持ち悪い」という老人男性の一言でした。

避難所に行った自分は、どの立ち位置にいたんだろうか。

そんなことをブログに書くと、1度しか会ったことのない社会人落語家の方が、取り上げて広げてくれました。
ありがたいことに、私は何もしていないのに、記事が一人歩きを始め、私は名前だけいろんな人に知られていくことに。

自分自身は大したことないのに

ただ、いろんな人に会ってみたい。その気持ちは湧きました。その年の社会人落語日本一決定戦に応募しました。
大阪池田のアマチュア落語の大会です。主催は桂文枝さん。

書類審査を経て予選に出られることになりました。

この年2011年は、何か特別だったんでしょうか。福島からは私含め4人出場していたので、その方たちと一緒に現地入り。

会場は落語みゅーじむで、
私のブログを拡散してくれた人と再会し福島の状態を話したり、知らない人にも知ってると言われたり。

この大会には、ここから5年連続、予選に出させてもらいました。

その間に、仲間ができ、福島にも近いところ遠いところから、沢山の仲間が来てくれるようになっていくのです。もちろん、私も行きました。

長崎に呼んでいただけたことがきっかけで、やりたいことができました。

人と関わって、鬱になった私は、
落語に鬱から救われました。

人前に出ず、喜びを表さなかった私は、
人前で笑ってもらうためにひょうきんで滑稽なことを本気で見せたりすれば、人の笑う顔が見られると高座が好きになりました。

落語を続けたおかげか、人ともう一度関われるようになっていきました。

演芸を福島で楽しむ文化を作る
それが目標となり、生きていけると感じました。
何より、私自身が好きな演芸をもっと楽しみたいがためです。
なんて自己中な考えのかしら。

えー、でもそんなもんじゃない??

会社もほら、儲けるために売る!買ってくださるものを作る。デーブイデーも見られて、シーデーも録音できるんです。すごーい。って言って売るわけで。



〈まるでフェス?落語会〉
2015年から2019年。
この5年間、私は社会人落語家として1番頑張っていたと人生を振り返る時に…今?…思うでしょう。

懐かしい話をし出したら、もう年寄りです。
天ぷらはいらない、お浸しでいい。それも年寄りです。こんこんと同じことを話す。年寄り以外の何者でもありません。

ただ、自分が、自分は今日が人生で1番若いって言うタレントさんがいたんですが、そう断言し、進歩進化を求め続けるのなら、それは生涯若者と同じ目線でいられると言えるでしょう。

私は前者ですが、後者である人の方がより多く世の中に存在すべきだと、そう思います。


2015年のことは、2013年に長崎で落語をやらせていただいてから、いつかいつか、全国から福島に社会人落語家さんに来てもらって大きめの落語会をやりたいってことを仲間の皆さんに言って回っていました。

でも、いつかやるは、絶対やんないからな。
福島に落語文化とか言ってるけどやんないやつだよとか言われたくないし。

悩んだ挙句、2014年の暮れから動き出しました。
そうして2015年8月にはこんな会をやりました。

デーブイデーもお友だちに作ってもらったんですよー。
すごーい。売ってるんですかー?
こちらは非売品でーす。

北は仙台、南は長崎まで社会人落語家20人ほどの
落語会です。
飯坂温泉の町人の皆さんを福島市の皆さんを言い包め、ポスターを貼ってもらいまくって当日を迎えた
第一回「飯坂温泉で落語会 堀切亭」です。

この会のすごいところは、社会人落語の寄席を知り尽くした人しかいなかったこと。
出囃子も生演奏だったこと。私の知らないところでリモートで繋がって、お囃子のお稽古をしてくれた。
ひとりひとりが裏方もやるし、表にも出る。
始まる前から終わった後まで完全なイベントだった。

本気の遊びを楽しもうとの本気で動く。
そんな人たちが集まるとできないことはない

思わせてくれました。

落語は1人で成立するが、寄席は全体でひとつ
個人プレーの集合体に見えるがそこには紛れもないチームプレイがあったのだ!!


こんなに心強い人たちがいつの間にか仲間になってくれていました。

2015

お客さんは延人数で100人くらい来てくれました。

飯坂を会場にしたいと思ったのは、やっぱり震災以降、元気のない町だったし。

…今は、まあ、まだいいかな。

地元の観光地だし。
元気出せやいって気分でしたね。
あまり、知ってる人はいませんが、落語会をやって町の人を知り、町の人に知られました。
このつながりはおもしろいなって。そう思う。

「見に行ったって人がうちに来たよ。
楽しかったみたいね。見たかったー。」

翌日にカフェの人にそう言ってもらえて、やって良かったと思った。

『楽しい』『おもしろい』
私には何よりの褒め言葉で誇りに思える言葉

あたたかな視線を演者に向けている


そんなことを紆余曲折ありながらも、助けてくれる仲間に巡りあえて、5年連続やれたのは、周りの人の力だと思っている。
みんなが私をどう思っているかは知らないが、
仲間だと思う人たちを私は尊敬している。

高座に代わる代わる上がってくる演者をずうっと見続けるお客さんもこれまたすごい忍耐力。
落語のお客は好きじゃないなんて、過去の自分が思っていたこと恥じます。
本当の落語のお客さんは、話を聞くのが上手な人が多いんだよって教えてあげたい。
笑って欲しいと願って話せば笑ってくれるんだよ。って。



〈余談〉
そして私は2019年、突如、神田伯山先生にハマります。まあ、その前に神田鯉栄先生にハマるんですけど。

そりゃ、もう好きなものには寄っていくので、寄っていきました。

時々見に行っている仙台の花座で、講談も見られるので寄席に行き始めた頃を思い出しながら雰囲気を楽しんでいました。

講談をやり出すきっかけは、簡単で、あまりにも憧れて、釈台を作ってもらったから。
で、張り扇も作ったの。

やってみた!

これが、なんとなんと!楽しい!実況みたいで。

ただ、講談は落語と違って覚えるのが難しい。
言葉に壁を感じます。日本語なのに。

難しいから楽しい。

高座でうまくいかないこともあるが。
カッコ悪いものを見せてやれという気持ちになっていった。
今の自分の今の状態を楽しもうと思えるようになった。
高座にいるとプライドがなくなる。

商売じゃないし、
趣味だし勝手に遊んでるんだけど。

だけど、それでいいじゃん。て。
遊びを遊び尽くせ!って思う。

で、それ見て笑う人がいるなら、幸せだよね。

〈まとめ〉
コロナ禍の今、自由じゃないがたくさんあるって決めつけてるのも、制限を作ってるのも自分たち。

だから、せめて、寄席に来た時くらい
頭を空っぽにして私たちのお祭り騒ぎを一緒に楽しんで欲しいなって思う。


人と関わって鬱になった私が、
落語と関わって人とも関わり、なんだか楽しくやれてます。


だから、いつ死んだって後悔がない。
楽しんだし、楽しい人生だ。


報われないが当たり前。
それでも良い。


落語と講談をやって、悩んだり悲しんだりもしたが、ひっくるめて楽しいんじゃないのかな。


一生遊べる趣味に出会えた自分は幸せだ。
落語も講談も大して上手じゃないけど。


#エッセイ #雑記 #落語 #講談

7月2日に伊達市ふるさと会館で寄席やります!
良かったら遊びにきてねー!

#福島県 #伊達市 #ふるさと会館









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