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親知らずを産んだ夜

今日、およそ10年ぶりに親知らずを抜いた。
前回抜いたのは、たしか中学生くらいの時。下の2本を抜いた。

今回は上の2本を抜くことになったのだけれど、治療がこわいという気持ちなんてまったくなかった。当時中学生だったわたしが耐えられたのだから、今のわたしがその痛さに耐えられないはずがない。わたしは案内された施術椅子の上に、涼しげな顔で座った。

そもそも親知らずってどうやって抜くんだっけ?ポロッと抜けるものなんだっけ?そんなことを思うくらい、もう親知らずについての記憶なんてさっぱり失くしていた。口の中に麻酔が入る。だんだんと痺れ始めた頃、お医者さんがわたしの親知らずのあたりに金具でググッと力を入れた。痛い!でも我慢できる。そして何かが取れたような気がしないでもない。お?と思って、わたしは無意識のうちに構えていた心の緊張がふっとほどけた。「お口の中、すすいでください」といわれ、言われるとおりにすすぐ。

まだ口の右奥の方が痺れているから、いったい何が起こっているかわからないけれど、きっともう親知らずが抜けたんだろうと思った。歯科衛生士さんが、わたしの隣で「親知らずを抜いたあとに注意してほしいこと」の項目を1つずつ説明した。今夜の入浴・飲酒・運動は控えること、血が出てきてもうがいはやさしくすること、抜いた部分を舌で触ったりしないこと、など。いよいよこれは本当に親知らずが抜けたんだろうと思って、わたしは淡々と1つ1つの説明に返事をした。あまりにもあっという間だったので、そのあと歯科衛生士さんがいなくなり部屋で1人待っている間、夜ごはんにつくるカレーのことを考えていた。

すると5分ほど経過したあと。お医者さんと歯科衛生士さんがやって来て「麻酔がきいているか確認しますねー」といい、わたしの椅子を倒した。それを聞いてわたしは、歯が抜ける前に腰が抜けてしまった。まだ麻酔をしただけだったという事実を飲み込めないうちに、わたしの口の奥には大きなスプーンのような(見えないのであくまでも想像の形だけど)器具が入り「ガコーーン!!!」という大きい音を立てながら、歯と歯の間をこじ開けた。

この歯医者に通い始めてから、歯医者に対するイメージがガラッと変わるくらい本当に丁寧で安心する治療を受けてきたけれど、今回ばかりはそういうわけにはいかなかった。ガコーン!!!ガコーーン!!!麻酔はしているものの、あまりにも鈍い音が聞こえてくるのと、すごく強い力が奥歯全体にかけられているので、その衝撃が痛みとして感じられる。「ごめんなさい、怖いですよね!」とお医者さんが心配の声をかけてくれて、気づいた。そうか、わたしは今「怖い」んだ!感情に名前がつくと少し安心するので、それからわたしは何度も頭の中で「怖い!怖い!」と叫んで心を落ち着けた。

それからしばらく、親知らずとの戦争は続いているようだった。いつもはおだやかな担当のお医者さんが、途中途中で頭を悩ませているのがわかる。「頭が大きいのに出口が狭いから、なかなか出てこないんですよねえ」と教えられた。それを聞いて、まるで赤ちゃんを産もうとしているみたいだと思った。まだ親を知らない赤ちゃん、親知らず。ピンと来てしまった。

それならなんとかして産みたい、と思い、わたしも痛みに耐えることに必死になった。「ちょっと出てこないので、少し切ってみましょうか」と言われ、それはもう帝王切開では!と思ったわたしは、これで確実に子と対面できるのだと思った。ピリピリピリ……という機械音が鳴り響く。これはこれで怖い。しかし、音が止まったあともなかなか親知らずは出てこようとせず、お医者さんはまた別のお医者さんを呼んできた。

「◯◯さんこんにちはー!ちょっと失礼しますね!」ハリがあって安定感のある声。タオルで目隠しをしていてもすぐに分かった、この人はこの医院の中でかなり技術が高いと知られているベテラン医師なのだろう。思わずわたしも少しハリのある声で「ハイッ!」と返事をした。すると、ものの5秒も経たないうちに「バチンッ!!」という音が口の中で弾けた。「はい、終わりましたからねー」そういって敏腕(であろう)医師は、颯爽と部屋を後にした。早い。早すぎる。そのまま担当のお医者さんにバトンタッチされ、抜いたあとの歯茎を洗浄された。洗浄されている間、きっとあのお医者さんがこの医院ではたらくスタッフたちのことを支えているのだろうなぁという想像を巡らせた。もうわたしの頭には今夜のカレーのことなんて浮かんでこなかった。

歯科衛生士さんが「抜いた歯、持ち帰りますか?それとも大丈夫ですか?」とわたしに聞いた。思わず「大丈夫です!」と言ってしまって、直後に後悔した。あれほど苦しい思いをして産んだ子どもを、さらっと置いていくなんて、あまりにも薄情なのではないか。しかし、親知らずを持ち帰ってどうするんだろうと想像されることが、なんだか恥ずかしいと感じてしまう。興味のないふりをしながらも、わたしは1人になった部屋でこっそり顔を横に向け、銀色のトレーの上に置いてある血まみれの親知らずを眺めた。思ったよりも大きい。たしかに、奥歯のちいさな隙間からあれを取り出すのは、むずかしそうだ。この親知らずが、わたしの中に居残ろうと抵抗してくれたことに、少しだけ嬉しい気持ちにもなった。

歯茎の出血がおさまってきた頃、戻ってきた歯科衛生さんに「口の周りに血がついちゃったので、そこのおしぼりで拭いてください」といわれ、手鏡を渡された。手鏡を持った瞬間、思わずヒッ!と驚いた。口の周りが、鮮やかな赤い血でぐっしょりと汚れているのだ。口に血がついている自分の顔を見るなんて、はじめてのことだった。まるで人を喰った後みたいだ。

おしぼりで血を拭いながら、またトレーの上にある血まみれの親知らずを見た。何も悪いことはしていないのだけれど、すごいことをしてしまったような、そんな気持ちになった。置いていくと決めた親知らずに対して、ますます申し訳ないという気持ちが湧いてきた。だけどもう、わたしはもう今夜つくるカレーのことを考え始めていた。


歯医者を出たあと、近くのスーパーへ行って買い物をした。袋に商品を詰めながら、ふと目の前にあった鏡で、自分の顔に血がついていないか確めた。体温で頬がすこし赤く染まっているだけで、血はついていなかったので安心した。

まだあと1本、親知らずは口の中に残っている。

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