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論説 神の存在証明(4)【短編集:創作1000ピース,60】

【はじめに】

この「【論説】神の存在証明」は「神様はいるのか?」という問いに対して著者の考察をまとめたエッセイです。

「神とはなにか?」「存在するのはどのような状態なのか?」という、言葉の定義を出発点とし、宗教や神話を例にして、「神の存在」について論じたものです。

論理的、科学的な側面から神の存在と神とはなにかを論じており、宗教、オカルト、スピリチュアルな要素は含まれておりません。
純粋に哲学的な思考で論理を展開しています。

論説で語られる宗教に関する知識はすべて著者が書籍等から得たもので、そこから著者が感じた印象も含んでいます。

信仰を批判したり、信仰心を傷つける意図はございませんが、何かしらの宗教を信仰している方、神の存在について強い信念をお持ちの方は不快に感じる可能性がありますので、閲覧をお控えください。



【前回の議論】



第4論:「神」の正体とは?


人間社会から離れた次元から、自分の運命を握っている強いパワー。それが神様の正体という答えに辿り着いた。


まだ曖昧なので、さらに深掘りしていく。


改めて神とはなんだろうか?

これは私の考えになるが、結論から言うと、神様は人間が作った概念だ。作り物である。


神は人間の創作物!?

ケルト神話やゲルマン神話、ギリシャ・ローマ神話、ヒンドゥー教などのオリエントの神様も人間が書いた物語で描かれるので、人間の創造物である。

ギリシャ神話では、雷の脅威におどろいた古代人がゼウスと人格化したようなものだ。物語、創作物の域の存在とも言える。
(そんなこと言うと怒られそう)

キリスト教はややこしいのでおいておくが、ユダヤ教ではヤハウェ、イスラム教ではアッラーが創造主とされている。

ヤハウェは神の固有名詞だが、ユダヤ教徒は恐れ多くてヤハウェとは呼ばない。主(アドナイ)、一般名詞の神(エローヒム)と呼ぶ。

イスラム教のアッラーは神の固有名詞ではなく、アラビア語で神の一般名詞である。神は神であって、ひとつしか存在しないのだから固有名詞などないのである。

これら一神教の神は、この世界と人間を作った創造主。教徒(信者)はより良い人生を生きるために、神を祀ることを神と契約(約束)した。
と、まぁ、そんな設定だ。
(そんなこと言うと怒られそう)


人間は宗教の世界観を通して神を見ている?

神と人間の立ち位置と関係については先ほど話した通りだ。
一神教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は同じ神で、言い方が違うだけと言うことだが……。
ユダヤ教にとってはキリスト教、イスラム教、その他は異教になる。異教徒にとってもヤハウェは神なのだろうか?

それは違うだろう。
ヤハウェはユダヤ教徒の、アッラーはイスラム教徒の、キリストはキリスト教徒の神で、この地球を作った共通の神様であるとは言い難い。

特にヤハウェは選民思想の強いユダヤ教のユダヤ人がユダヤ人のために作った宗教なので、ユダヤ人目線の世界観になってしまう。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は人類が共有しているこの世界と人類を創った神様と言うけれど、各々の思想、宗教のフィルターを通して神様を見ているに違いない。

信者が主やアッラーと言う神は、それらの宗教を信じていない人の神様ではない。
そんな神様が全世界共通の神様であると言えるのだろうか。


信じるものが違えば神の姿形も異なる?

信じるものが違えば、世界も異なる。神も異なる。
人の数だけ神様の姿形があると言っても過言ではない。
(一神教の定義ではあるまじきことを言っているので怒られそう)

神という概念は人間社会から離れた次元から、自分の運命を握っている強いパワーを持つ存在であることには変わりない。
しかし、その姿形は神を想う人によってそれぞれで一定ではないように思われる。

冒頭で神様は作り物。
と言ったが、神様を思い浮かべる姿形は人それぞれ。それを絵にしたときに、ギリシャ神話のゼウスのような造形が創造されるように思う。
人間が神を頭の中で思い浮かべた時の姿こそが創造物、作り物なのである。

そのように創造された神という概念は人間の畏れや天命を願う心の拠り所になっていくのだ。

第5論へつづく……。

 



*** 創作1000ピース ***

 たくさん書いて書く練習をするためにまずは1000の物語を書く目標を立てました。形式は問わず、質も問わず、とにかく書いて書いて、自信と力をつけるための取り組みです。

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