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年中無休 24時間ずっと笑顔で うさちゃんピース

“アイドル”ほど不思議な存在はない。女の子の夢と憧れの象徴であり、男性陣には希望を与え、彼らの心の支えとなる存在。
“アイドルといえば女性”というイメージが安易なものであるのは承知の上であるが「♩~なんてたってアイドル 私はアイドル」と小泉今日子が歌っていたものだから、冒頭部分がついついそうなってしまった事については少し目を瞑っていただきたく…。今回はそんな彼女たち、”女性アイドル“から話を膨らませたnoteを書いてみたいと思い立ったので。

「劣化という言葉は私にはないんです。常にピーク。今までできょうが1番かわいい」

11月28日、Twitterのトレンドには元モーニング娘。である「道重さゆみ」のこんな記事が上がっていた。それを見て私は、“嗚呼、本当に彼女はブレる事のない人なんだな”と率直に思ったのであった。なぜなら今より少し前に以下のインタビュー記事を読んだ事があるからだ。

このどこまでもアイドルを貫く姿勢に私は心から感動してしまった。そんな事を言いつつも、私はこの道重さゆみというアイドルの事を何一つ知らない。それでもただ、彼女は今までもこれからもずっと永遠にアイドルで居てくれる、そんな気がする。

「25歳がかわいさのピークだから」とモーニング娘。を卒業した道重さんは、「27歳になってもやっぱりかわいかったから」と芸能界に復帰した。

道重さゆみの存在は勿論知っていたものの、モーニング娘。を卒業した事、彼女が芸能界を引退しその後復帰していた事、その全てを私は知らなかった。そんな一連の出来事をやっと知ったのは上記の記事を読んでの事であり、その当時私は25歳だった。彼女の言う「かわいさのピーク」である“25歳”だ。
そもそも何故この記事に出会えたかというとその理由は曖昧なのだが、思い返すと“25歳”という年齢に漠然とした焦りを感じており「25歳 おばさん」「25歳 女 やばい」などと、調べたところでどうにもならないウェブ検索をしていた末に辿り着いたのがこの記事だったように記憶している。今考えるとよっぽど暇を持て余していたのだろうと恥ずかしく思う反面、このインタビュー記事を見つけ出した自分にはアッパレである。大抵の事は答えのないネット上で珍しく“アタリ”を引き当てたのだ。

そうして25歳という年齢に呪われていた私を救ってくれたのは紛れもない彼女であり、それは初めてアイドルに救われた瞬間だった。「25歳がかわいさのピーク」と言いつつも「27歳になってもやっぱりかわいかった」という言葉は私に大きな希望を与えてくれた。少なくともあと2年間はかわいく居られるのかもしれないと思った途端、あの猛烈な焦りはどこかへ消えていったのだった。
そしてそんな彼女もついに30歳となったようだが、それは「30歳になってもやっぱりかわいかった」間違いなくそういう事なのだ。

人は自分にはない性質や考え方を持つ人物に惹かれるようにできているのだと思う。少なくとも私はそうだ。
道重さゆみの最たる魅力、それこそがこの類い稀なまでの“自己肯定感の高さ”だと感じている。だからこそ、そんな彼女に私は憧れるのであった。自分を自分で愛でる事のできる人間は、この社会において絶大な強さを持つ。社会に出てその事を痛いほど思い知らされた大人はきっと少なくないのではないだろうか。

そんな事もあってか話は少々アイドルから逸れてしまうが、近頃は元TBSの宇垣アナとテレビ朝日の弘中アナがお気に入りだ。誰が見ても自信に溢れる様子がとても羨ましく映る。彼女たちからもまた、道重さゆみに通ずる自己肯定感の高さを感じるのであった。
バッサリと切り捨てる、まさにアナウンサーらしからぬ物言いをやってのけるあの姿勢こそが彼女たちの魅力だと思えるのであるが、それこそをよく思わないという人々も多い。そんな声を知ってか知らずか、この2人はいつだって飄々とした顔つきで“私らしさ”を貫いているように見える。好感度など後からついてくるものだと言わんばかりに。

実のところ私自身、初見の時点ではなんとなく宇垣アナが受けつけなかった。しかし次第に明らかになっていった彼女の“素”の部分に共感し、あんな美人にも男顔負けの攻撃性があるだなんていかにも人間的だと感じてからというもの、転じて好感を持つようになっていったという経緯がある。
この“自己開示”こそ自己肯定感と密接に関わる重要なファクターであり裏を返せば「人に嫌われたくない」という心理がはたらけばはたらくほどその難易度は増す。一般的な人間は、人間関係において相手に嫌われまいと関係性に一線を引きがちであるがゆえに彼女たちのような真似ができないのだ。素の自分を晒け出せる人物、いわば自分とは異なる人種に対して憧れたりあるいは憎らしく思おうと、どちらも結局、その根幹の正体は“羨ましいだけ”というシンプルな感情だったりするのではないだろうか。

正直なところ、あくまで大人が自己肯定感を高く保つ上ではもはや他者評価はそれほど重要なものではないと考えている。「誰がなんと言おうと私はかわいい」とマイナス評価をも吹き飛ばせる強さはきっと“育てられ方”に秘密があるはずだ。
たとえばとある女芸人のエピソードに「私はずっと親にかわいいかわいいと言われて育ってきたから、芸人になってから初めて自分が世間でいうブスであるのだと知った」というものがある。言うなれば田舎育ちの娘が上京し、唐突に方言を指摘されて「この言葉って方言だったんだ、へえ。」そんな反応に近いあっさりとした語り口だった。
結局は他者がどう思っているかなど関係はなく、幼い頃から肯定的に育てられた経験がその人の自己肯定感の絶対的な軸となっている事が上記のエピソードから伺える。自己肯定感の高い人々の誰しもがそうやって高い肯定感を培ったとは限らないが、親がくれる「かわいいね」のひと言は女の子たちにとって一生もののおまじないなのかもしれない。

道重さゆみのファンは芸能界にも多く、大森靖子は同じアーティストとしてコラボレーションしているし、ヤバイTシャツ屋さんのしばたありぼぼは「一生道重Tシャツ」がトレードマークだ。熱狂的な女性人気をも獲得する彼女の愛されようは納得と言うよりも必然と言った方が合点がいく。

うさぎのぬいぐるみにピンク色のカーテン、ごはんをいっぱい食べていちごミルクを飲んだら女の子はどこまでもかわいくなれる。
私が小学生の頃、モーニング娘。はまさに全盛期で「辻ちゃん派?加護ちゃん派?」はお決まりの質問であったし、鉛筆はモー娘。のものを使っていて鉛筆にプリントされたメンバーが鉛筆を削るとともにじりじりと消えていく様子には子供らしくしょんぼりしていたものだ。
それから先、私はアイドルにはならなかったし、それが“なれなかった”だろうと別にどちらでも構わない。365日24時間、ずっと笑顔がお仕事のアイドルになんて私の性格上そもそもなれっこないのだ。
それでも一応は親に逐一かわいいと言われながら育った身ではあるので、現在26歳となり自分で言うのもなんだがこれまで容姿で思い悩んだ事は特段なかったように思う。(この段階で既にこっぱずかしくてたまらない) だからこそ今の容姿が加齢とともに崩れていく事にただならぬ恐怖を感じていたのであった。

ただ、何も私はアイドルではないのだから人前や文面で「私はかわいい」とわざわざ発言する必要もないし需要もない。実際問題、写真を撮られるのはいつだって苦手で顔を隠している写真ばかりだったりする。
それでも道重さゆみのようにとはいかずとも、せめて心の中だけでも「私はかわいい、これからも」と自信を持って生きていけるようになりたいと強く願っている。──私はかわいいから、なんだってできる。

来年はいよいよ27歳の年だ。“私も偉大なロックスターたちのように27歳で死にたい”だなんて昔はふざけてよく言ってみたものだが、実際にその直前まで生きてみるとまだ何も成し遂げられていない自分が居て、カート・コバーンやジミ・ヘンドリックスの死がいかに若すぎるものであったかを身に沁みて感じるのであった。
そんな私は今のところは取り急ぎ、30歳までは生きてみてもいいかな、そんな結論で落ち着いている。──「私はきっと30歳になってもかわいいはずだ」と当たり前のように思えたならきっと人生は好転するに違いない。
そして4年後にその時が来て「30歳になっても、やっぱり私はかわいかった」なんて、心の中でそんな風にひっそりとどうか思えていますように。

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