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見ているけれど見えていない

ふらり立ち寄った本屋さんにて、まるでこの日を待っていたかのような一冊と出会いました。


一冊の本との出会い

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」
伊藤亜沙著 
光分社新書

その本から続いての絵本
「みえるとかみえないとか」
ヨシタケシンスケ さく
伊藤亜沙 そうだん
アリス館

今、私の周りでは、まるで流行りのように、「見えない世界」の話が飛び交っています。見えない世界とは一体どんな世界なんでしょうね。神の領域なんでしょうか。

昨年私が一番印象に残っている言葉は、目の見えない人も参加されるコンサートにて、その方のコンサートを終えての感想が「光が見えた」とおっしゃられたことでもあります。

この本ではそんな「見える見えない」に心踊らされることなく、ガツンと心に響きます。良い意味でハッとさせられます。

環世界の視点から

まずは、生物学者を目指していたというこの著書の伊藤さんの見方がとても興味深いのです。ユスキュルという生物学者のいう「環世界」と呼ばれる見方にあることです。

「環世界」とは生物が自身の感覚器官と内部状態に基づいて外界を体験しているという考え方です。どの生物も全く異なる「世界」を経験しているといいます。

生物は「情報」だけの客観的な世界に生きているのではなく、主体となり周りの物事に「意味」を与え、自分にとっての世界、一種のイリュージョンの中に生きているという見方。

モンシロチョウにとってのキャベツ畑とは、「お腹を満たす」「子孫を残す」という「意味」により、花の蜜と交尾の相手で世界ができているというのです。そのほかの「情報」の花の蕾すら用はないのですね。

人間の経験もその一つに過ぎないとされます。

この本ではその「意味」と「情報」の視点で「見えない人」に関わっていかれます。

見えない人とは、見える人から「見える」を単純に欠乏した見方ではなく、「見えない」で成り立つ視覚に頼らない感覚の体を中心に意味を持ってみていかれるのです。

見える人と見えない人が「お互いの体感覚を覗き合う」といった感じでしょうか。個人的にも違いますのでお一人お一人丁寧にといった感じです。

見えている不自由

特に印象に残ったのは、見える人は二次元で見ていて、見えない人は三次元で見ているということ。

見えない人は月を「球体」、見える人は厚みのない「円形」、富士山は、見えない人は「上が欠けた円錐形」であり見える人は「上が欠けた三角形」。見えている人は文化に縛られているとあります。

壺に絵を描けば内側に描く子もいたとあります。

見えない人には「死角」がない、そもそも「視点」がないのですね。

ただ死角がある「見える人」は「見えない」ことを想像で補い、「見える人」が「見えないもの」と付き合っているのではと書かれているのも面白いです。

見えていることは視点に縛られ、実は自由がなかったのですね。また見えることで盲目となっているたくさんのことにも気付かされます。

誰もが障害を抱える

また高齢になると誰でも多かれ少なかれ障害を抱えるという一文もとても頷けます。そもそも私がこの本を手に取ったのもこの理由です。

「見ているけれど見えていない」

哲学でしたら、うんうんと頷ける言葉ですが、眼科で言われるとちょっと話が違いました。

目の違和感で眼科を訪れたら「逆さまつげが1本ありますね!」とプチりと痛みで終了!

と思いきや瞳の奥を覗かれ「念の為検査をしましょう!」と次へ誘導されます。そして更なる検査へ。

昔から、かなりの近視なので、この言葉も覚悟はありました。が、10年早いかな。。。

一瞬ショックでありながらも、「見てきたこと、見たいこと」「やってきたこと、やりたいこと」を冷静になんとなくグルリと思い浮かべるとあまり欲がないことに気付きます。

海岸風景、山の風景、高原の風景、街の風景も大体こんなものかと思う。車の運転もいっぱいしたし、もういいか。今ある仕事、描くことや縫うことも、もしできなくなったら、マッサージもあるし今度は喉でも使おうかなとも思う。

この眼科での出来事の次の日に偶然出会ったこの本。見えなくなるかもしれない現状に、見えない方々に体の使い方のコツを教えていただく!といった感じです。

この視点はこれからの高齢化社会ではとても大切なんだと思います。障害のイメージは産業社会で生まれたという言葉も本文にあります。

誰もが変わりゆく体、定年を迎えたら、障害を迎えるともいえそうです。障害は産業社会にとっては能力の欠如と言われるのかもしれませんが、生きることの意味とは全くかけ離れていると私は感じます。

ユーモアで生きる

本来、「健常者」や「ふつう」って時代や国によってバラバラで、あてにならないものなんですよね。だから「ふつう」がすでにない状態を描くしかないと思いました。宇宙に行こう!と

みえるとかみえないとかができるまで 対談より。
ヨシタケシンスケさん

ヨシタケさんの絵本では、後ろも見える星では、前しか見えない人間は「かわいそう」で宇宙人から変に気を使われるとあります。「宇宙」視点と「地球」視点のごちゃ混ぜがまた面白いのです。

地球の「ふつー」が宇宙に視点をおけば全く通用しないであろうことがこれからなんでしょうね。

見える、見えない、どちらの見方も、すごいとかすごくないとかではなく、お互いが、へー、そんな見方面白いね!!なるほど!!なんですね。

見える私にとっては、見えない世界は、神の領域でもなく「面白い!なるほど!」とユーモアな世界なんだと腑に落ちました。

ジロジロ見ちゃいけません。
笑ってはいけません。
助けてあげなければいけません。

今までの世界観、思い込みがひっくり返ります。
見方を変えればその立場なんです。

思わずこの世界に吸い込まれ好奇心なのかなんなのか、さらなる真っ暗闇の体験へも。
続きはまた今度。

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