それとともに在って消える
記憶とは自分がそれをどう考えているかの集まりです。
あらゆる出来事に対して人は記憶によって判断するという行為を無意識に行っています。
この無意識で行っている行為を常識、当たり前と呼んだほうがいいかもしれません。
これがあるから人は日常生活を支障なく送ることが出来ます。
個々の体験が記憶をつくると言われます。
辛い体験、悲しい体験、苦しい体験などで自身を裁いたり、嫌うような常識をつくってしまうことがあります。
故に人はそれらから目を背け、蓋をしてしまい、さもなかったことのようにしてしまいます。
これが苦しみの原因をわかりにくくさせてしまうんです。
気づくにはどうすればよいでしょうか。
日常生活の特に人との関わりで心は何かしら反応をしています。
その反応を見逃さないことです。
心が反応した時のことを思い返すのでもいいです。
そして反応の前提となっている思いや考えに気づき続けることが大事です。
自分の心である内側にある以上、必ず反応として外側に現れ続けます。
気づきを向けていくと自分や他人を攻撃するような思いがあるかもしれません。
自分や他人に対する要求や不満があるかもしれません。
『~でなければならない』『~であるべきだ』という思いがあるかもしれません。
恐怖、怒り、嫌悪、悲しみなどの感情があるかもしれません。
どんな思い、考え、感情があるかは問題ではありません。
それらがあると認め、向き合うだけでいいんです。
素直にただ見ていればいいんです。
私の師匠は『それとともにあって消える』と事あるごとに教えてくれました。
どうしてただ見ているだけで消えるのか、私の実感した理解の範囲でお話したいと思います。
私たちは子供の頃と今では常識、当たり前が違うはずです。
それはいろんな体験をしてきたからです。
つまり常識、当たり前は変えることが出来ます。
ただ見ることも体験の一つです。
常識、当たり前は思考そのもので、思考とは追い回す限りあり続けますが、追い回すのをやめれば継続する力を失うと言われます。
目を背けることは暗にあることを認め、追い回しているのと同じです。
向かい合うこと、ただ見ることは意味がないと理解することです。
意味がないと納得すれば、勝手に追い回すことはやめてしまいます。
追い回すのをやめれば、やめるほど心は静かになり、やがて心は反応しなくなります。
反応しなくなるまで『どんな意味があるのか』『それは喜びになるのか』自問続けることです。
自問続けることも、ただ見ることになります。
以下は師匠が教えてくれた瞑想に関するお話ですが、理解を深めるのに良いと思ったので載せておきます。
【師匠の教え】
瞑想とは心の掃除や洗濯のことだ。
要するに瞑想とは方法ではないけれど瞑想が起こる前段階の技法としての瞑想は古い汚れを掃除洗濯すると言う働きを持っているんだ。
瞑想で内側深く入っていくと今まで忘れようと心の奥深くにしまい蓋をしてきたものが現れるんだけれど、それは過去の悲しみであったり苦しみであったり過ちであったり様々だ。
これらを来るものは来るに任せて、去るものは去るに任せていると解き放たれて行くんだ。
悲しみに圧倒されるかも知れないけれど悲しみを悲しみのまま感じていると解き放たれていくんだ。
逃げることで心の奥底に蓋をされていたんだ。
瞑想でこんなの出たことない人は雑念は瞑想ではないと言って、来るのを拒んで瞑想ではないことしていたんだ。
誰でも負の思いはあるもんなんだ。
掃除洗濯は大事だ。
心の中綺麗になると晴れ晴れするんだ。
思い出したくないことに意識向けると苦しかったり、悲しかったりして考えるのをやめた過去の体験や、考えたくなくて避けていたことが悲しみや苦しみを伴って走馬灯のように出てくるから、その思いを解決しようとせずに出てくるに任せて去るに任せているんだよ。
人は思い出したくないこと、考えたくないことに、さもなかったことのように意識を向けないでいることで封印しているから何も本当に喜べないんだ。
考えたくも思い出したくないことに意識向けてごらん。
出てくるものは何かはどうでもいいんだ。
目を背けてきたことに目を向けることが大事なんだ。
出てくるものは出るに任せて、去るものは去るに任せていればいいんだ。