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自分を納得させたかったら実践するしかない

聖者の経典や語録を読んだり、グルから素晴らしい教えを受けて感激したり、気分が高揚したとことがあると思います。

しかしそれは一時的なものに過ぎず、何の役にも立ちません。

なぜなら、それがあなたの人生を弥栄しないからです。

グル達の話を聞くだけで、今すぐより良く変わることなどありません。

グルが語るのは生き方であり、道の歩き方だからです。

だから大事なのは知識ではなく、教えられたことを実践し続けることです。

日常生活の中でひたすら意識して、ひたすら気づいて、ひたすら行うことです。

こうやって文字で書くのは簡単ですが、やる気があっても継続させることが難しいのはグルもよく知っています。

だからグルはその人の覚悟だけを見るんです。

唯一必要なのは死んでもやるんだ、という覚悟だと私の師匠も言っていました。

日月神示で心、言、行の一致が大事だと言われているのも意味は同じです。

心、言、行を一致させることがどれだけ困難で覚悟が必要か、皆さんもよく知っているはずです。

私が師匠から学んで何年経っても変わってこなかったのは覚悟がなかったからです。

その期間に得たものといえば教えの知識や理論が達者になったことにより、実践しない自分に対する言い訳が上手くなったくらいです。

腹を決めて実践し始めると心が苦しくなって何度も嫌だ、逃げたいと感じたのを覚えています。

しかし、それはある意味良いことなんです。

実践するということは自分の本心、本音と向き合わなければなりません。

これを内側を見ると言いますが、つまり嫌なこと、逃げたいことに正面から対峙することです。

どんな感情や思いが現れてもそれとともにいなければいけません。

それは内なる戦い、静かなる戦いです。

やめたい、嫌だ、苦しいと感じることは戦っている証拠です。

戦わない人間はそんなことすら感じないんです。

『心が動くことを積極的に行って、心が動かないところを見つけろ』というのが師匠の教えです。

私はひたすら実践し続けました。

そして実践の過程で気づいたことがあります。

嫌だ、苦しいと思うことがなくなってきたんです。

心が勝手に反応することが減って、かつ反応が弱くなってきたんです。

つまり心が静かになってきたんです。

静かにしようと意識しなくてもです。

なぜそうなったか言葉だけで説明するのは難しいですが、ようはスポーツなどで指導者の教えに従い何度も練習して上達したのと同じです。

体験的に知ることなので、実践した者にしかわかりません。

人は納得しないと行動を起こしませんが、自分を納得させるためには体験して知らなくてはいけません。

体験が先で、知るが後です。

わかってから、理解できてから行動する、は何もしないのと同じです。

最初から知らない、理解できないのは当然です。

だから体験して学ぶんです。

皆さんは自転車を運転出来るようになるためにどうしたでしょうか?

ひたすら自転車に乗ったはずです。

その時々の状態にあったコツを教えてもらい、実践したはずです。

グルの教えも同じです。

先に実践があって、理解が後です。

実践することで理解が深まり信じ、納得することが出来るんです。

納得することで考えが変わり、口にする言葉や行動も変わってきます。

つまり心と言葉と行いが一致してくるんです。

これが日月神示が言う『自分と自分の和合』だと私は感じています。

自分を納得させることが出来るのは自分しかいません。

もう一度言いますが、自分を納得させるためには実践するしかありません。

実践とは生き方です。

どうか皆さん、自分の生き方に目を向けて下さい。

以下は日月神示の一文と聖者サイババの教えです。


日月神示
【雨の巻 5帖】
口と心と行いと三つ揃った行い、マコトと申して知らしてあろうが。
時節来ているなれど、わからん人民多い故、物事遅くなりて気の毒なるぞ、今しばらくの辛棒なるぞ、⦿(かみ)は人民に手柄立てさしたいのぢゃ、許せるだけは許して善き世に致すのぢゃ、ここまで開けたのも⦿が致したのぢゃ、今の文明なくせんと申してあろうが、文明残してカスだけ無(のう)に致すのぢゃ、取り違い慢心致すなよ。
日本の国いくら大切と申しても、世界中の臣民とは替えられんから、国引っくり返ること、まだまだあるかも知れんぞ、地(くに)の軸動くと知らしてあろうがな。
この神示キのままであるから、心なき人民には見せるでないぞ、あまりきつくて毒になるから、役員薄めて見せてやれよ、一日も早く一人でも多く助けてやりたいのぢゃ、⦿まつり結構ぞ、⦿まつらいでいくら道説いても肚に入らんぞ、肚に入らん道は悪の道となるのぢゃ、頭ばかりで道歩めん道理わからんか、改心足らんぞ。


【龍音之巻 14帖】
幽界霊も時により正しく善なることを申すなれど、それはただ申すだけであるぞ。
悪人が口先だけで善を語るようなものであるぞ、よいことを語ったとて直ちに善神と思ってはならん。
よい言葉ならば、たとえ悪神が語ってもよいではないかと申すものもあるなれど、それは理窟ぢゃ、甘ければ砂糖でなくサッカリンでもよいではないかと申すことぞ。
真の善言真語は心・言・行一致であるから直ちに力する、言葉の上のみ同一であっても、心・言・行が一致しておらぬと力せぬ。
偽りの言葉は、落ち着いて聞けばすぐわかるぞ、同じ『ハイ』という返事でも、不満を持つ時と喜びの時では違うであろうがな。
我は天照大神なり、などと名乗る霊にロクなものないぞ、大言壮語する人民は眉唾もの。


【極め之巻 12帖】
口先ばかりで、その場限りでうまいこと申して御座るが、それは悪の花、心と行が伴わんからぢゃ、己自身の戦が終わっていないからであるぞ。
そなたの持つ悪クセを直して下されよ、それが御神業ぢゃ。
神々様も自分のクセを直すために御苦労なさっているぞ、そのために生長する。
昨日の自分であってはならんぞ。
六十の手習いで止まってはならん、死ぬまで、死んでも手習いぢゃ。
お互いに拝めよ、拝むとすべてが自分となる、拝むところへ集まって来て弥栄ぢゃ。

【サティヤ・サイババの教え】
現代においては、真理、正義、平安、愛に関するスピーチが行われ、価値を広めるための展示会が催されています。
しかし、実生活の中でこれらの価値を実証しようとする試みはなされていません。
価値が実践されないのであれば、スピーチや展示会が何の役に立つのでしょう?
宣伝活動によって世界が変容することはありません。
これらの理想の生きた模範があって初めて、その理想は意義深く、奮い立たせるものとなるのです。
世の中のあらゆる混乱は、人々が二重生活を送っていることに起因しています。
言行不一致なのです。
思いと言葉と行動が一貫していなければなりません。
調和のとれた生き方を通して人類の一体性を促進し、すべての人と喜びを分かち合うことの中に、真の霊性があります。
バジャンやあらゆる形の礼拝は単なる善行にすぎず、霊性においてはどうでもいいことです。
信愛は万物に対する愛を表現することにあります。
スピーチによってハートの変容をもたらすことはできません。
それらはしばしば混乱と対立を招きます。
スピーチよりも優れているのは神への信仰を伴った愛の実践です。
神を信じていながら、神の言葉や命令を無視することは、あなた自身を否定していることになります。