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エッセイ『一体小説をなんだと思って書いているのか?』

昨夜、芥川龍之介の『或阿呆の一生』の書評をやったんだけど、その十七章にこんな詩が出てくる。「蝶」というタイトル。

そんなことより、この表紙のグラフィックだけど、到底上手くいったとは言えないけど、まあ、このくらいが私の限界。反省する。氷の写真は自分で撮った。紫なのは有名な「八章 火花」の火花が紫だから。いつも紫だったか緑だったか忘れてしまう。だから少し緑も入れた。

こっちの国では、葬式の色は黒と紫だ。いつか車の葬列を見ていたら、棺の入ったリムジンの上に、紫色のライトがぐるぐる回っていた。

Youtubeの掟だと、こんなsubtletyは淘汰されるけど、だからなに? 私は好きな様にやっていく。品格の無い、目立つ為だけの表紙は創らない。


     十七 蝶

 藻の匂の満ちた風の中に蝶が一羽ひらめいてゐた。彼はほんの一瞬間、乾いた彼の唇の上へこの蝶の翅(つばさ)の触れるのを感じた。が、彼の唇の上へいつか捺(なす)つて行つた翅の粉だけは数年後にもまだきらめいてゐた。

芥川龍之介『或阿呆の一生』青空文庫

これって、明らかに詩ですよね。

数日前、Twitterに載せた私のYoutubeにいいねをしてくれた人がいて、珍しいことに、それでその人はプロの詩人だった。詩の出版社から本が出ている。読んだんだけど、詩って一体いつからあんな風になっちゃったの? と、私は思ったんですよ。

まず、考えられるのは、詩の世界って相互に感想を言い合って、高め合っていく機能がない。だからどんどん堕落していった。まあ、そんなこと言ったら小説の世界も同じだけど。

褒められたことは信用しない方がいい。私は人に褒められるようなことは書かない。伸びていく可能性のあることを書いている。


それで、その人の詩を読んでみよう。内容は大幅に変えてあります。

そういう
雨の激しい夜半が嫌いだった

これって思ったことそのまんまですよね。詩的な要素はどこにもないし、子供にも書ける。これが冒頭にくるのはどう考えても不味い。

……もっと引用しようと思ったけど、面倒くさいからやめておく。浅い描写と陳腐な警句に満ちている。

「むくむくと育つ入道雲」とか「空を駆ける向日葵」とか、なんでそういう当たり前のことが書けるの? どうなっちゃったの? きっと私の知らない内に、人気の詩人とかがいて、みんなはそれを真似て、一緒に堕ちて行った。小説が村上春樹と一緒に堕ちて行った様に。


小説も詩も全くその通りだけど、もっと昔に戻るといい。過去、五十年より新しい詩は読まなくていい。芥川龍之介の「蝶」は死ぬ前の月に書かれている。私達も死を覚悟するくらいの気持ちで書かないと駄目だ。

結局、世の中、詩を分からない人が殆どなんだと思う。詩人でさえ詩を理解していない。

現代音楽、現代美術を理解する為には、多少のインテリジェンスが必要で、そうばかりでもない場合はあるけど、それを言ったら、クラシックな美術でも音楽でも、本当に理解する人は予想よりずっと少ないと思う。

もう一回見てみよう。

    十七 蝶

 藻の匂の満ちた風の中に蝶が一羽ひらめいてゐた。彼はほんの一瞬間、乾いた彼の唇の上へこの蝶の翅(つばさ)の触れるのを感じた。が、彼の唇の上へいつか捺(なす)つて行つた翅の粉だけは数年後にもまだきらめいてゐた。

芥川龍之介『或阿呆の一生』青空文庫

96年前に書かれている。これは私のYouTube「百年経っても読まれる小説の書き方」にぴったりはまっている。

五感が巧みに使われている。藻の匂。ひらめいていた、のは視覚と聴覚。触れるのを感じた。唇の上、は味覚。

私の考えでは、生まれたばかりの赤ちゃんは、五感を得て初めて人間として存在する。おぎゃあと叫んで(聴覚)、ドクターに抱えられて(触覚)、ミルクの味、匂い、そして目が開いた時点で存在が確定する。

時間の流れがある。「ほんの一瞬間」に感じたことが「数年後」にもまだきらめいていた。

彼が「鱗粉」という言葉を一度も使わずに表現したのは、そのものずばりの言葉を使っては詩にならないことを知っていたから。そんなことを夢にも知らない詩人が多過ぎる。

向日葵のことが書きたいなら、絶対、向日葵という言葉を使わない。それができるまで詩は書かない。

「ひらめいていた」「きらめいていた」のリズム。アメリカのラップでさえ、今の日本の詩より韻を踏むことの意味を知っている。


ボーナスで、『或阿呆の一生』から、一番有名な「火花」を入れておきます。

 彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。雨は可也(かなり)烈しかつた。彼は水沫(しぶき)の満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。
 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
 架空線は不相変(あひかはらず)鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄(すさ)まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。

芥川龍之介『或阿呆の一生』青空文庫

だらだら書いたけど、批評する人間がいないから、文学が下がっていく。私も勉強するから、みんなもしよう!


芥川龍之介『或阿呆の一生』誰も言わない感想と文章の分析。

誰も言わない小説創作論 ③一体小説をなんだと思って書いているのか?

昨夜、撮っている時、何度もばたん、という音が入って、いつもと同じようにしているのに不気味。きっと龍之介さんの悪戯。『歯車』の時は本人が出てきて、数日家に滞在されたけど、今度は大分お疲れのようだった。やっぱり『或阿呆の一生』の頃はもう駄目だ、という感じだったんだろうと察する。

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