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小説『雨が降ったってもう泣かない』

 携帯が鳴った瞬間、雷が落ちた。猛烈な雨が花壇の土をえぐる。
「誰……? ばあちゃん!」
「真澄? あんたなの?」
よく聞こえない。俺は電話に怒鳴る。
「そう! 俺!」
もう一度、雷が落ちる。大地が揺れるほどの。雷は近い。俺は窓を離れて、病室を抜け、廊下に走る。
「あんた、まだ入院してるの?」
「そう、大分いいけど」
俺はうつ病持ちで、もう二ヵ月ここにいる。入院した頃は毎日ずっと泣いていた。今でも泣いてるけど。俺、よく泣くんだ。いい年の男にしては。
「ばあちゃんね、コロナウイルスにやられてもうダメだ」
「ええ!」
「来ちゃダメだよ。うつるから」
ばあちゃんとじいちゃんは、都心から離れた八王子に住んでいる。
「死ぬ前にお前に言うことがあって……」
彼女は盛大に咳き込む。
 
 母に電話をする。何度かけても留守電になる。時計を見る。4時。俺は着替えて、靴履いて、病棟に置きっぱなしの、誰かのビニール傘を掴むと、大雨の中に飛び込む。ラッシュアワーのちょっと前。電車の中には、突然雨に降られた不機嫌な人々。
 さっき、ばあちゃんに聞いた話。……俺の父親が生きている! 死んだって言われて、ずっとそれを信じてた。
 新橋で降りる。母ちゃんはバリバリの水商売だ。三階にあるそのバーは、まだ閉まっている。もう一度、彼女に電話する。誰も出ない。俺は一階の軒下で待った。背が高いから、傘を差しても、いつも足元が濡れる。靴の中に水が入り込む。気持ち悪くて足踏みをする。
 目が痛い。夕べ遅くまで泣いてたから。俺がいつまでも幼いのも、俺の心が弱いのも、父親がいないからだと思ってた。もし父親に会えたら、俺は変われるのだろうか?  
 ばあちゃんに聞いて、メモ用紙に書いた、父親の名前。もう何度も見たけど、雨に濡らさないようにして、もう一度見る。……川村圭次。やっぱり濡れて、少し字が滲んだ。
 黒塗りの高級車がビルの前に駐まる。母ちゃんが助手席にいる。運転してる人がよく見えない。二人で深刻そうな話をしてる。きっと俺には分からない、大人の話。なかなか車から出て来ない。大量の雨が車の屋根で弾けて、窓を伝って落ちる。幾筋にもなって。
 しばらくして立派な紳士が出て来て、助手席のドアを開ける。母ちゃんに大きな傘を差しかける。同伴出勤ってヤツかな? 母ちゃんは、花柄の派手なドレスを着ている。実は、俺の母親、若いんだ。俺が今、十八で、彼女が俺を生んだのも十八だから。
「真澄! なにしてんのここで?」
母ちゃんの黄色い声。
「ばあちゃんがコロナで死にそうだって」
彼女は俺の言ったことを無視して、ビルに入って行く。エレベーターが動く。
「昨日、検査したら、ただの風邪だって。大袈裟なんだから」
 なんだよかった。でもだったら、ばあちゃんはどうして今、俺にあの話をしたんだろう? ……俺がこないだ十八才になったから? 多分。
 
 俺は、紳士と一緒にカウンターに座る。母ちゃんが俺にコーラと、彼にスコッチのボトルを持って来る。ここは実は、今時流行らない、文壇バーで、母ちゃんはいい大学の文学部を出てて、本には詳しい。お客さんは、出版社の偉い人とか、有名作家とかが多い。この紳士もきっと、なにかそういう人。彼は優しい目をしてる。
「君、入院してるんだって?」
「もう、大分いいんです」
俺の泣いた目がまた痛む。俺の父親はどんな人なんだろう? この人みたいに、うんと大人で頼りがいのある感じかな? だったらいいな。
 あ、でも、ばあちゃんが、父親は同級生だって。実は、母ちゃんハーフで美人で、モテまくって、お腹が大きくなる前に家族で隣町に引っ越して、学校も一年遅れて違うとこに行った。じいちゃんがカナダ人で、白人で、クリスチャンで、どうしても生めってことになって、それで俺は今でも生きてる。
 ばあちゃんはどうしてコロナだって言ったんだろう? 大袈裟なドラマを演じたかったから? 同情してもらいたかったから? ばあちゃんはもっと他にも色々教えてくれた。俺の父親は売れない俳優で、母ちゃんみたいに水商売だって。
 俺、どうしよう? 会いに行く? ……明日、会いに行こう。店は新宿二丁目だって。今、何時? 七時。病院の門限は八時。
 
 外に出た。さっきよりもっと激しい雨。あの紳士、車で送るって言ってくれたんだけど、お客さんだし、悪いから断った。父親は俺にどんな風に接してくれるかな? あ、でも、ばあちゃんが、父親は、俺が生まれたこと知らないって。母ちゃんとの間に愛はなかったのかな? なんで俺のこと言わなかったのかな? ばあちゃんに電話しよう。
 電車に揺られながら色んなことを考えた。いきなり会いに行ったらビックリするだろうな。自分に子供がいたこと知らないんじゃ。あ、もし家族がいたらどうなるかな? それ、なんかの映画で観たな。母ちゃんが昔の映画好きだから、俺もよく一緒に観る。カトリーヌ・ドヌーブ。彼女が刑務所にいる間に、掃除夫とセックスして子供生んで、男の子で、孤児院で育って、出所したらその子は十六才で、父親のことを調べて会いに行くけど、その人には、妻と子供がいて、それでなにも言えない……。俺もそうなるのかな?
 
 降り続く雨が、俺の心を沈ませる。門限までに病院に戻った。ばあちゃんに電話した。
「どうして俺の父親に俺のこと言わなかったの?」
「川村の息子は不良で、なにをしでかすか分からない子だった」
ばあちゃんはわざとらしく咳き込む。
「死ぬ前にお前に言えてよかった」
「ばあちゃん、ただの風邪でよかったね」
俺はそう言って、電話を切った。
 病棟中に雨の匂いがする。濡れそぼった木のような、それにカビが生えたような。俺のベッドが窓際じゃなくてよかった。そうだったら、もっと雨の音がして、寂しくて眠れない。俺はベッドに潜って、毛布で耳を覆った。
 結局眠れなくて、起き上がって、気になったのはあの映画。カトリーヌ・ドヌーブの。検索したら、『愛よもう一度』というタイトルだった。十六才で初めて父親に会って、でもなにも言えなかった……。
 思いついて、川村圭次で検索してみた。ちゃんとプロフィールが出て来た! 顔写真もある! 俺と似てるかな? コッソリ起きて、バスルームの鏡を見る。写真と自分の顔を比べてみる。……なんだかよく分からない。
 映画やテレビドラマの端役をやってる。確かにあまり売れてなさそう。役者だけで食えないんじゃ。同じエージェンシーに有名な俳優もいる。きっとそこそこは売れている。三流じゃなくて、二流くらい?
 俺は明日のことを考えた。新宿二丁目のバー。なに着てく? なんて言う? 俺、度胸ないし、きっとなんにも言えない。雨の音。心細くて少し泣いた。
 
 ドクターに父親の話をした。
「ほんとに会いに行くの? 大丈夫?」
彼は心配そうだ。ここまで良くなるまで二ヵ月かかったから。
「もう気分は大分いいし」
この病院は自殺願望のない患者は自由に外出させてくれる。社会復帰の練習になるから。ばあちゃんに教えてもらったバーの名前。検索したらちゃんと場所が分かった。よく考えたら俺、十八才。いつも、もっと若く見られる。一人でバーには入れない。多分、大人と一緒じゃないと。どうしよう?
 庭を見ると、今日も大雨。気持ちが沈む。ほんとに行けるんだろうか? 父親に会えるんだろうか? 会ったらなにか言えるんだろうか? また誰かの傘を借りる。五時に出た。傘から転がり落ちる雫が、俺の心に染みて涙になる。俺ってやっぱりまだ、うつなんだな。こんなに涙が出る。
 新宿の東口に出る。傘だらけで交差点を渡るのが大変。向こうからやって来た、全身チャラいファッションの男が俺に話しかけてきた。
「貴方、どこかのエージェンシーと契約なさってます?」
時々ある。こういうスカウト。モデルにならないかって。俺は無視して通り過ぎようとする。ソイツは付いて来る。
「君、身長何センチ?」
俺は思いっ切り機嫌悪そうに答える。
「それ教えたら、なにかくれるんですか?」
「いや、いいです。大体分かるし」
俺、うつ病だし、気が弱いし、そんな仕事、絶対できない。
 俺は立ち止まって、バーの位置を確認する。ソイツはまだ横にいて、俺の携帯を覗いている。
「どこ行くんですか? 僕、地図見るの得意ですよ」
俺は全く方向音痴。いいことを思い付いた。もしコイツが一緒に行ってくれたら、大人と一緒なら、確か十八でもバーに入れる。
 
 けばけばしい雑居ビルの中に、そのバーはあった。不思議に思って、今朝ばあちゃんに、なんで俺の父親の職場を知ってるのか聞いた。ばあちゃんは、俺の父親の両親とまだ親交があるそうだ。
 さっきのスカウトの男はまだ俺といる。名前は慎士。俺達は、びしょ濡れの傘を閉じて、傘立てに置いて、中に入る。バーカウンターの端っこに座った。
 反対側の端っこには男が二人いて、情熱的にキスしている。二人共顔は見えない。一人が、野球選手か寿司職人くらい短い髪をしていて、もう一人は、長めの髪をオールバックにして、黒ベストにボウタイをしている。絶対舌が少し入ってる、ヤバいキス。
 俺、男子校で、男同士でふざけてキスしてんの見てるから、さほど感想はないけど、ボーっとその二人を見ているうち、それが俺のうつの脳のどっかを刺激して、涙が頬を伝う。慎士に見付かる。
「貴方、泣いてるんですか?」
俺は泣いてる人間がそんなに珍しいのか、と腹を立てながらも泣いていた。誰かが俺におしぼりを手渡す。俺はそれで涙を払う。その人はあの写真と顔が違う。父親のいなかった寂しい自分の人生が、走馬灯のようにグルグル回って、簡単には泣き止まない勢いになってきた。
「貴方、そんなに泣いてちゃ、どうせ話になんないですから、よかったら僕になんで泣いてるのか教えてください」
「俺、父親が死んだって言われてて」
「はい」
「それが実は生きてるって。このバーで働いてるって」
「すごいじゃないですか?」
「でもその人、俺の存在を知らない」
「ここゲイバーですよ。貴方のお父さん、バイセクシュアルですね」
俺はとても父親と話す勇気はないと思えてきた。俺は慎士に、携帯で父親の写真とプロフィールを見せる。
 
 お客さんが入って来て、テーブル席に座った。バーの中にいて、おしぼりくれた人が、「圭次」と呼ぶ。キスしてる、オールバックで黒ベストの男が、バーの中に入る。俺はますます涙を流す。圭次と呼ばれた男は、俺達からオーダーをとる。俺がコーラで、慎士はビール。
 そして慎士に話しかける。
「ダメですよ、こんな可愛い子泣かせちゃ」
彼は手を伸ばして、俺の涙で顔に貼りついた髪をどけてくれる。そんなボディタッチが自然にできる。父親には、ムッとする男の色気がある。その存在感に息が苦しくなる。さっきキスしてた短髪の男は、父の身体をずっと目で追っている。
「僕、泣かせてませんよ」
「じゃあ、なんで泣いてんの?」
俺はもう泣き過ぎて、あんまり喋れなかったので、慎士の耳に囁く。
「昔のことを思い出して……」
慎士が父に通訳する。
「昔のことを思い出したんだそうです」
「へえ、どんな昔のこと?」
 そこまで聞いて、あっちのテーブルに呼ばれて行ってしまった。慎士が小声で俺に聞く。
「あれがお父さん? 若いね。どうすんの?」
「分からない」
慎士は俺の携帯を覗く。
「このエージェンシー、僕んとこのライバルだな。君、ほんとに仕事する気ない?」
「俺、病気で高校もほとんど行ってないし」
「それ、関係ない。お金、入って来たらいいでしょ?」
「それはそうだけど、やれそうもない。俺、気が小さくて」
「僕が現場に付いて行くから」
 父が戻って来る。
「昔のどんなことで泣いてんの?」
せっかく聞かれてるし、泣き過ぎて頭も痛いし、もうどうでもいいや、って俺は思う。
「美記バートン、って知りません?」
母ちゃんの名前。少し間が空いて、父は口を開く。
「……知ってる」
「俺の母親」
 
 もうこれ以上、俺は耐えられない。席を立って、店を出て、階段を下りて、通りに出ようとした。傘をバーに置いて来てしまった。こんな凄い雨じゃ、ちょっと歩いたら、びしょ濡れになってしまう。俺は病気になるのが怖い。困って、そこに立ち尽くす。慎士があとを追って来る。
「あそこまで言ったら、ちゃんと話した方がいいですって!」
 俺達はまたバーのある階に戻る。あの映画みたいに、なにも言えないんじゃ寂し過ぎる。父親がここにいるのに。俺は決心する。ドアを開ける。真っすぐ父に向って行く。俺達はお互いの目を見る。
「ばあちゃんが、俺の父親は貴方だって」
今度は慎士が泣いている。俺達はまたさっきの席に戻る。
「美記はどうしてる?」
父はさっきと違う真面目な顔で聞く。
「元気です。……俺、門限あるからもう行かないと」
「君の名前は?」
「真澄です。真澄バートン」
 
 慎士は病院まで送ってくれた。彼の所にはファッション雑誌とか、広告、CMの仕事があるそうだ。ちゃんと高校を出ることにも協力してくれるって。一緒にいい仕事しよう、って言ってくれた。チャラい外見とは違って、いいヤツだった。俺は初めて本気で、早く退院したいと思った。
 ばあちゃんに電話をした。父に会った話をした。喜んでくれた。これから父にまた会えるんだろうか? きっと俺が会いたければ会えるんだろう。母ちゃんにはしばらく内緒にしよう。彼女ならDNA検査をして、養育費をふんだくるくらいのことはするだろう。
 あの時、あんなに雨が降ってなければ、なにも言えないで走って帰ってた。今頃きっとベッドで泣いてた。あの映画の通りになってた。
 雨はまだ止まない。永遠に続く雨。地球ができたばっかの時、何世紀にもわたって雨が降り続いたっていう説があるんだ。俺、雨降ったら泣くから、そんな時代に生まれてたら大変。
 夜だから雨はよく見えない。でも屋根や窓を叩く音が聞こえる。そしてあの濡れそぼった木の匂いもする。ベッドに入った。俺はもう泣いてない。

 
(了)
 
  初出 2020年


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