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葬儀のありよう

 この秋に、私と夫を引き合わせてくださった大切な方が亡くなりました。また、その数日後母方の伯母も亡くなりました。二人の葬儀で共通しているのは、「家族葬」だったことです。

祖父の葬儀(50年前)

 記憶に残っている順に葬儀を思い起こしてみました。覚えているのは、祖父の葬儀での、食べ物のことです。田舎の葬儀は、近所の女の人が何人も台所🚰に入って来て、順に料理を始めていました。誰かの指示で、戸棚を開けて煮物やなますを何皿も作ります。狭い勝手口に、多くの人、たくさんの下履きやサンダル👡が並んでいました。
 普段はお湯を沸かす時だけ使っていた「おくどさん」で、ご飯を薪で炊いて丸いおにぎりを幾つも作ります。
「熱い熱い。やけどしそう。」
と言いながら握っていました。このおにぎりは、家を建てる時にも振る舞われるおこげの入った塩おにぎりで、海苔はまいていません。

 座敷には、男の人がたくさんいて、祭壇を準備したり、葬式の盛りかごや造花などの飾りを作っています。積み上げられた段ボールの中には、リンゴ、バナナ、オレンジ、箱菓子、和菓子がたくさんありました。日持ちするマドレーヌやようかん、最中、まんじゅうなどを台座の上に並び替え、順に運び込みます。

 玄関口では次々に近所の方など来客があり、
「この度は、ご愁傷さまでした。」
と、あいさつが繰り返されています。
 奥の部屋には祖父が布団の中に横たわっています。白い布をかけてあり、死に顔を見たのかどうかも忘れてしまいました。ただ、おにぎりがおいしかったことは覚えています。

祖母の葬儀(40年前)

 祖父と祖母の葬儀は10年の開きがありますが、内容はあまり変わっていません。布団に寝かせられていた祖母の顔は覚えています。白い布をめくると、鼻に詰めた脱脂綿に鼻血が付いていました。
「ああ、生きていたのだ。」
と思いながら、叔母が脱脂綿を交換するのを見ていました。

 まだこの地域では、土葬でした。祖母の遺影を持っていたのは中学生になっていた弟だった気がします。祖母が入っている棺桶を、叔父さんたちが担いで家を出ます。参列者が集まる広場に来ると、父が挨拶をし、その後近所の人たちも長い列になって墓場まで歩いて行きます。

 集まった人たちには、お菓子や果物などを小袋に入れたものを配ります。故人の思い出話や悔やみの言葉を聞きながら、墓地に向かいます。墓地では棺桶を埋葬する穴がすでに用意され、住職が読経を始めます。親族で順に土を掛けてお別れします。 

死への畏怖

 祖母の葬儀で一番考えたことが、
「次は、父の葬儀になるのか。」
ということでした。両親を失った父は、次に、この家に葬儀があるとすれば、それは自分だと恐怖を感じないのか気になりました。父は怖れている様子もなく、淡々と葬儀を進めていきます。怖いと感じていたのは私でした。父が死んだら、次は母。そして私も死んで墓に入ってゆくのです。

 墓地から家に戻ると塩で清めてから家に入ります。墓は死へつながる場所。家は生きていく場所。
 墓から戻ると必ず
「塩で清めるように。」
という母の言い付けを守っていました。死が身近にあった子どもの頃は、気をつけないと自分が墓場に行くことになるかもしれないと畏れていました。


 
 土葬が火葬に変わってからでしょうか。普段の墓参りでも同じように塩を持ち出していた母でしたが、いつのころからか、塩ではなく、石鹸で手を洗って済ませていました。墓掃除に一人で行くことを恐れて、いつも私を連れていっていた母ですが、私が自立すると一人で墓掃除に行き、
「墓地で、お経をあげてきた。」
と、明るく話していました。
 
 私自身も子どもの頃は、墓地は怖いところ、昼でも鬱蒼とした森の中、多くの人が眠っていて気味が悪いと感じていました。しかし50代半ばにして多くの人が守ってくれている場所だと考えると、静かな落ち着いたところだと思うようになりました。
 

 

講談社出版

葬儀の変遷

 昭和の時代、会社関係の全く面識のない方の葬儀にも参列したことがあります。社会的なつながりのある方の親族の葬儀という顔も名前も知らない方の葬儀でも、
「にぎやかに送ってほしい。」
と言う上司の申し出(命令)を断ることができず、寒い冬の日に参列したこともありました。

 葬儀は、40年前の祖母の頃からずいぶんと変わりました。地域の方々で葬送してもらってきた葬儀では、食事の提供が欠かせませんでした。子どもはお菓子をたくさんもらっていました。私はこの記事を書きながら、おこげのおにぎりの味を思い出します。「食べることは生きること」だからでしょうか、
「とてもおいしかった。」
という記憶があります。葬儀の支度をしながら、大人も子ども食べながら(生を確かめながら)故人を偲びました。
 

 葬儀の変遷について、書かれている書籍を見つけました。作者の上野誠氏は、「湯灌」についての恐れを取り上げておられます。上野氏が感じた恐れを読んで、私自身は死人が棺桶に入っている姿が、怖れとして脳裏に残っていることに気付きました。「死」は、「畏れ」と「生きていく」ことへの執着をかき立てます。 


葬儀のやりかたをひとりの意志で、自由に変えることなどできなかった。それは、当時の葬儀は、地縁、血縁のネットワーク、僧侶の指導などがなくては、おこなえなかったからである。

つまり、当時は、<家族><地縁者と血縁者><宗教者>が力を合わせて葬儀をしていたのであった。
もちろん、三者は協力関係にはあったが、互いに互いを牽制し合う関係でもあった。協力しあわなければお葬式を出せないという事は、葬儀のありかたについて、協力者のひとりとして発言権があるからだ。

「万葉学者、墓をしまい母を送る」上野 誠

 葬儀を外注できるようになり、三者の中に葬儀社が入りました。そのことにより、今では、それぞれが思うようなスタイルで葬儀を執り行えるようになりました。
 これからは、残された者が考えて執り行う葬儀から、もはや故人が生前に準備手配しておかねばならない葬儀へと変わっていくのかもしれません。

 どのようなスタイルであっても、亡くなった方々へのご冥福をお祈りする気持ちに変わりはありません。そして、生きている今を大事にし「生きている」ことに感謝しています。
 

 




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