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「いじめ」に対抗する絶望感との戦い

皆さまこんにちは。

こちらの本を読んでのもう一つの感想を書きます。

なかなかに書いていてツラい気持ちになります。

この書を読んで理不尽だと思ったのが、いじめによる自殺から、自殺がいじめによるものと認定されるまでの経緯です。

学校はあてにならない

今でも、いじめを隠蔽しようという学校側の姿勢が浮き彫りになっている報道をたくさん見ます。

ある町のケースでは、あろうことかその自治体の首長までが学校側のおかしな対応を容認するかのような発言をしている。生徒がなぜ命を断たねばならなかったのか。その決意は相当の覚悟が必要なことに思いを寄せれば、無責任な発言が出ようはずがないのに。呆れかえります。

「私は責任を負いたくない」という姿勢が見え見えです。

著書に書かれてあった事例です。

いじめによる自殺から、学校側がいじめを認めるまでに4年7カ月が経過。それまでには母親が実名や写真をメディアに公開(=プライバシーをあえて侵害されるリスクを冒さざるをえない)。

これによって「世間が騒ぎ」、やっと行政が動く。

著者が述べていることは以下の通り。
「1」なぜここまで個々人が肉体的、精神的に消耗しないと、対応してくれないのだろうか。
「2」同じように苦しんでいる家族は多いだろう。泣き寝入りして諦めている人も多いのではないか。
「3」むしろ、「あの母親が執念深く騒ぎ続けなければ、こんな大事にならずに済んだのに」と、あらぬ方向に批判がましい視線が向いてしまいかねない。

この3項目は絶妙にリンクしています。

「3」は世間の冷たい目、学校側による陰湿な指南のことでしょう。それがつらくて「2」に連動する。それでも執念を持ってい続ければマスコミが騒ぎ立ててくれるかもしれないが、そこで得られる感情は「1」です。

いじめではありませんが、私も裁判を起こさなければならないことがあり、明らかに被害者だったのにも関わらず、「1」の思いを抱き、続けることがつらくなって「2」の結果に至りました。

追い続けているのに精神的に疲れてくる→疲れたのでやめる=泣き寝入り

こういう図式です。

いじめのほうに話を戻すと、一生懸命騒ぎ立てて「3」になれば、一時期はマスコミや世の中も注意喚起をしてくれるかもしれませんがそれも「一時期」のこと。根本から変わらなければダメですが、実際にはそこまで至らないことがほとんどです。だから、いじめ問題はいつまでも再発するのです。

極限状態に置かれて感情を無くす

著書では、アウシュビッツ収容所で極限状態におかれた収容者の多くが、無感動、無感覚、無関心の状態になった、と書かれています。

先日読んだ「アーモンド」という小説でもいじめの描写が出てくるのですが、主人公がそれに対して何のリアクションもしないため、そのうちいじめがなくなった、と書かれていました。

「アーモンド」は逆説的な事例ですが、極限状態に置かれた結果感情をなくす。いじめも、極限まで追い詰められればそうなるのです。

著書のタイトルに「日本の体質を変える」とあります。大人社会でいじめがあるのに子どものいじめをなくせるわけがない、とも。

根本から変わるには果てしのない道のりを感じさせる内容でした。

でも、「これならいじめはなくせるかも」という僅かの光明も感じさせる1冊です。


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