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改ざんされる歴史、聖徳太子編

最近、歴史に興味が湧いてきて、先日「日本とユダヤの古代史&世界史」という本を読んでいました。

本の内容は日本とユダヤのつながりなどを紐解いていくのですが、興味深かった部分の一つは、聖徳太子は暗殺されたのではないか?という内容です。

太子の死は公式には病死となっているのですが、本書を読んでいるうちに去年の春、奈良の法隆寺に行った時のことを思い出しました。
(ちなみにチャネリングで行くことをお勧めされた場所でもあります。)

斑鳩の里 法隆寺
法隆寺の建設資金の多くは蘇我氏が出している。

法隆寺を見学して感じたことは、日本でありながらシルクロードや異国っぽくありたいという主張を感じたことと、仏像たちから「もう少し自分たちに関心を持って欲しい。興味を持ってくれなくて悲しい。」という強い悲しみを感じました。

その時は「なぜ仏像が?」と、半信半疑でしたが、物資にも意識はあるから、長い年月の間に様々な人の想いや念を背負ってしまったためだろう、と解釈していました。

ところが、この本を読んで仏像たちが発していた悲しい思いが何であったかわかったのです。それは法隆寺の国宝、釈迦三尊像の光背銘にありました。光背銘とは、仏像の後ろに刻まれている文のことです。

本書では、

茂木:聖徳太子は公式には病死となっています。暗殺説の証拠のようなものはありますか?

田中:例えば、国宝に指定されている法隆寺の釈迦三尊像があります。この仏像は聖徳太子の死から1年後の623年に完成したもので、その像の背面にある光背銘には、「なぜこの釈迦三尊像がつくられたのか」という理由がびっしりと書かれています。(以降中略)

日本とユダヤの古代史&世界史

とあり、暗殺である理由が書かれています。

太子の周りで蘇我氏に暗殺された人は、
太子の叔父にあたる崇峻天皇(すしゅんてんのう)、
その兄の穴穂部皇子(あなほべのおうじ)、
太子の妻、膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいつらひめ)、
太子の息子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族
も自死においやっています。

この流れから見ると太子も殺されたと考えるのが自然な気がします。

太子が亡くなった日が622年2月22日というのも、偶然にしてはすごいゾロ目だというのもまるでメッセージのようです。。ちなみに「2」には“繰り返す”という意味があります。

ハイアーセルフは「蘇我氏が暗殺した。」と言っていました。。

蘇我氏は皇室の側近である秦氏に近づきました。
蘇我氏は天下を取りたかった。

奈良や京都に聖徳太子の像がありますが、どれも怖い顔をしていて「想像と違うな~」と、思っていたけれど、当時の状況から考えると、周りでは争いが絶えず、父である用明天皇は病気がちで、周りに信用できる人はいなかったのです。

そう考えると、学校では功績を残した立派な人物像で教わりますが、たくさんの苦悩や悲しみを背負った人だったのだと思いました。

そんな権力や野望が渦巻いていた斑鳩の里ですが、法隆寺に行った際はぜひ、仏像さんたちのこともじっくり鑑賞していただくのも良いかと思いました。


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