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「甘え」総集編

〇はじめに

 この話は、私の一連の「甘え」ネタの、総集編です。まず、この話は、レポートでも論文でもなく、ゆるーい話ですので、まったく学術的ではなく、したがって参考文献などもないのですが、まったくなにもないところから話は作れませんので、最初に、大きく影響を受けている人を2人、明らかにしておきます。ひとりは土居健郎(どい・たけお)。『「甘え」の構造』の著者です。故人です。もうひとりは、NPO法人の代表で、牧師の、奥田知志(おくだ・ともし)氏です。こちらはばりばりの現役です。私はキリスト教の信者ですので、気持ち悪かったら申し訳ありませんが、奥田牧師は、「奥田先生」と「先生」でお呼びする場合があることをおゆるしいただければ、と思います。以下、このふたりの言葉は、無断で引用することがあるかもしれません。(というか、私のなかでこなれすぎてしまって、私の言葉になっているものも多いです。土居も奥田も、「参考文献」というよりは、「ヒント」くらいかもしれません。このへんが、この文章がぜんぜん学術的でないところ笑)

〇土居健郎の『「甘え」の構造』

 土居健郎は、1920年生まれです。したがって、今年2020年は、生誕100年だったのですが、とくになにかメモリアルなイベントもなく、今年が終わっていくようであります。忘れられかけている人なのかもしれません。

 土居が、「甘え」というのを認識したのは、1950年、敗戦から5年のころ、30歳のとき、アメリカに渡ったときです。カルチャーショックを受けたわけです。土居は、「甘え」という言葉が、少なくとも欧米の言語には相当する語彙がないことに気づき、独自の「甘え」理論を構築していきますが、それを、(専門の学会発表でなく、)一般人向けの書籍で紹介したのが、かの有名な『「甘え」の構造』であるというわけです。1971年刊行、土居は51歳、これはほぼ半世紀前の本です。

 『「甘え」の構造』を読んでいて感じるのは、土居は、決して「甘え」という言葉を、悪い意味で使っていない、ということです。かといってよい意味で使っているわけでもなく、要するに、『「甘え」の構造』という本は、書名通り、「甘え」というものの「構造」を述べた本なのです。しかし、この半世紀、日本では、なぜか「甘え」という言葉は、どんどん悪い意味でばかり使われるようになってきている言葉ですので、このことは最初に断らないと誤解を招きます。私は、この文章のなかで、「甘え」という言葉を、決して、悪い意味で使いません!

 実は、土居の著作で、私が気になるものは、主著である『「甘え」の構造』もさることながら、後年、土居が、自分の「甘え」理論が世に受け入れられ、『「甘え」の構造』は名著としてたたえられ、反論もだんだんなくなり、ついに、世間から忘れられていくところまで見届けた(土居は2009年に89歳で亡くなっています)、その、後年に書かれたものだったりするのです。土居の90年代くらいに書かれた文章を読むと、「甘え」という言葉が、どんどん悪い意味の言葉になってゆき、日本社会から、どんどん甘えが締め出されていっているのを、土居は憂いていたようすが、文章のはしばしからうかがわれます。「近ごろの学生は甘えている」っていう使い方は、明らかに「甘え」という言葉を、悪い意味で用いているではないですか。「甘ったれ」も「甘やかし」も、悪い意味の言葉です。後者の2つは、土居が最晩年の2007年(87歳)のときに書いた「「甘え」今昔」という短い文章に出てくる言葉ですが(「「甘え」今昔」は、最新版の『「甘え」の構造』に収録されています)、自分の論が世間から忘れられつつあること、日本社会の危機について、土居は的確に書いています。

〇日本社会で「甘え」という言葉が、どんどん悪い意味の言葉になってゆく

 繰り返しますが、「甘え」って、土居は(私も)悪い意味で使ってないのです。甘えることなしに、人は生きられません。しかし、『「甘え」の構造』刊行から半世紀、日本の社会は、ひたすら「甘え」を排除してきました。「「甘え」今昔」に出てくる話ですが、土居は、しきりに、子どもの、いじめによる自殺を憂いています。土居が小さいころ(昭和一桁)から、いじめはあったそうですが(そうでしょうね。いじめは、人類の歴史とともにあったでしょうね)、決して、いじめで自殺する子どもなんて、いなかったって。それは、ちゃんと、逃げるところ、甘えるところがあったからなのです。いまの社会は、土居の心配をさらに進めて、ちょっとここだけ先走りますが、奥田牧師の話によれば、現代、子どもの自殺の原因の第1位、6割を占めるものは「原因不明」だそうです。つまり、子どもは、なんのSOSも出さずに、ある日、ポーンと、いっちゃうのです。奥田牧師は言います。「助けて」と言えない社会になっちゃった。大人が「助けて」と言えないから、子どもも「助けて」と言えないのだ、と。

 土居健郎に戻ります。「「甘え」今昔」のなかで、子どもの自殺の話に続いて、土居は次のように書きます。
「要するに人は誰しも独りでは生きられない。本来の意味で甘える相手が必要なのだ」。
これが、「甘え」というものを、前からも後ろからも、何十年も観察し続けてきた人の、最後の言葉なのです。

 (ちなみに、『「甘え」の構造』っていう本は、有名なわりに、ちゃんと理解している人が極めて少ない本です。『聖書』みたいな本なのです笑。『「甘え」の構造』の2007年最新版の裏表紙の解説が、もろにこの本にたいする無理解を典型的に露呈していてひどいのですが、それをいちいちここでたたくのはやめておきましょう。)

〇「助けて」って言えない社会になってきちゃった

 さっきちょっと奥田先生が出てきてしまいましたが、奥田牧師について、少し、書きます。奥田は今年57歳、北九州市でホームレス支援をはじめとする困窮者の支援をして32年、その事業は NPO法人「抱樸(ほうぼく)」となり、いまもたくさんの人を救っています。その奥田牧師がよく言うのですが、いま、日本は、社会的孤立が進んで、「助けて」って言えない社会だ、ということです。私も、いろいろな人に聞いてみて、あらためて驚いたのですが、たしかに、「助けて」って言える人は少ないです。「困ったらなんでも言ってね」って言える人はけっこういるんですけど、かんじんの「助けてください」が言えない人が多い。この話は、私の見るところ、土居健郎の心配から、そのまま続いている。「助けて」って言うことは、甘えです。「助けて!」って叫んだら、「甘えるな!」って言われて、叱られるのです。あるいは、そう叱られる気がして、「助けて」って言えないのか。あるいは、大の大人が「助けて!」って言うなんて、みっともないと思っているのか。

〇「自分のことは自分でしましょう」と言われ続けること

 私たちは、小さいころから、「自分のことは自分でしましょう」と言われ、また、「ひとさまに迷惑をかけてはいけません」と言われて育ちました。それが立派な一人前の大人の姿だと思って来ました。たしかに、ひとに迷惑をかけることは、あまりよいとは言えない。しかし、まったくひとに迷惑をかけない人間関係など、あり得るのでしょうか。人間関係である以上、必ず迷惑はかけているし、迷惑はかけられています。「あの人、迷惑だな、でもあの人、自覚してないんだよな」っていう人がいる以上、自分でもそれはやらかしているのです。でも、これ(「ひとに迷惑をかけてはいけません」)って「甘え」とは正反対の方向であり、迷惑をかけたくないという思いが先にたつと、ひとに助けを求められなくなるのです。こうして人は、孤立していきます。

〇「自己責任だ!」という言葉は、「甘え」を断ち切る

 奥田牧師がよく言っていることですが、「自己責任だ!」という言葉で、責任を本人に押し付け、関係を断つ、ということがあります。人でも、社会でも。人間関係って、面倒くさいものです。上にも述べましたが、迷惑のかけあいは織り込み済みですし、それから、奥田牧師の言葉をまた借りますと、「絆は傷を含む」ということになります。つまり、人間関係というものは、傷ついたり、傷つけたりということも織り込み済みなのです。まったく傷つかない、まったく傷つけない人間関係はあり得ないのです。(余談になりますが、なぜ、こんなに世の中にスマホやメールやSNSが発達して、逆に人は孤独になるのか、私なりの考えがあります。みなさん、傷つきたくないのでしょう。しかし、傷つく(傷つける)ことを避けようとすると、結局、人間関係そのものを避けることになって、人はどんどん孤独になるのです。)話を戻しますと、人間関係とはこのように面倒なものです。それを、「お前の責任だ!自業自得だ!」と言うことは、すなわち、「甘えるな!」って言っていることで、面倒な人間関係を断ち切っていることになります。「甘え」は、人間と人間を結ぶ潤滑油のような役割をも果たしていますが、これらの言葉は、その、人間と人間の関係を断ち切るものと言えましょう。

〇助ける側と助けられる側の間に、本来、線はない

 学校でよく聞くのは、「困っている人がいたら、助けてあげましょう」という言葉です。いろいろな先生が言う言葉でしょう。しかし、最近、私は、この言葉は、真理を半分しか言っていないと思うようになりました。それを言うなら、「困っているときは、助けてもらいましょう」とも言わねばならないはずです。これは、考えれば考えるほど当たり前なのですが、なぜかこの後半は、聞かない。なぜだろうか。自分たちは、いつも、助ける側なのだろうか。ある校長先生の訓示を聞いていると、「諸君は助ける側だ。断じて、君たちが助けてもらう側であってはならない」というメッセージがいつも聞こえてきました。その校長先生は、プライベートで、年老いた母親の車いすを押しているのですが、自分がいずれその車いすに乗る日が来ることは想像できないのだろうか、としばしば思ったものでした。

 助ける側と助けられる側のあいだに、本来、線はないはずなのです。それは、助けてもらうことのほうが多い人、助けることのほうが多い人、いろいろな割合の人がいるでしょうが、100パーセント助けるだけの人とか、100パーセント助けられるだけの人とか、いないのです。みんな、だれかに助けてもらわなくては、生きていけないのです。そして、だれかを助けて生きているのです。

 本田哲郎さんという神父のたとえです。余命いくばくもない友人を見舞うことになりました。どういう言葉をかけたらよいのか、見当がつきません。途方に暮れつつ、病室をたずねました。その、余命いくばくもない友人は、「よく来てくれた!」と、とても喜んでくれて、ホッとしました。これ、どちらが励まされているんですか?という話です。

 励ますことと励まされることに差はないのです。ひとを励ますことができたら、励まされるのです。助けるのと助けられるのも差はないし、支えられるのと支えるのも差はないし、祈るのと祈られるのも差はないし、愛されるのと愛するのも差がない。学校教育の弊害のひとつは、そうして、自分たちを、常に、「助ける側」にしか置かない、というところにあると思います。だから、「助けてください」って言えなくなるのではなかろうか。

〇「甘え」とキリスト教

 いまさらながら言うようですが、土居健郎は、カトリックの信者でした。後年には、『信仰と「甘え」』とか『聖書と「甘え」』と言った書物もあります。私が『信仰と「甘え」』を読んで、最も土居が言いたいことは、最後に紹介してある言葉である「お祈りは神様に甘えること」だと思います。いろいろ書いてありますけど、これが、土居のほんとうに言いたいことだろうと思います。土居は、キリスト者が祈るのは、神への甘えだということを見抜いています。どんな「立派な」お祈りであろうとも、それは神への甘えです。そして、土居は決して、甘えという言葉を悪い意味で用いません。「絶えず祈りなさい」と言うくらいですから、「絶えず神様に甘えましょう!」なのです。

 私の造語で「神依存」というものがあります。2年前の、学校の生徒むけの、「スマホ依存、ゲーム依存に気を付けよう!」みたいなスローガンを見ていて、思いついたものです。依存するのも、甘えることです。ぐちを言うのも、甘えることです。あつかましくすることも、甘えることです。ひとに依存するには限界がありますが、神様には、際限なく依存することができます。これは、クリスチャンでなくて、神の存在を想定していない人には、大いにすすめたいものです。ひとに依存するには限界がありますから、神に依存するのです。神様は、なんでもゆるしてくれますし、どんな複雑な事情でもわかってくれますし、守秘義務は守ってくれるし。しかし、「神依存」という言葉を思いついて間もなく私は病気で倒れましたが、苦しいときは、とうてい「神依存」などできない、ということを、身をもって体験しました。見えない神に依存することは、かなり困難で、じっさいには、人に依存し、スマホに依存していました。以下は、クリスチャンに多い傾向だとだんだん気づいてきましたが、神依存はできるが、人に依存できない人が多い。神様には「助けて!」と言えるのですが、人には「助けて!」と言えない人です。

〇神に甘え、人に甘えよ

 「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」」(マタイによる福音書22章37-39節)。有名な聖書の言葉ですが、この休みのあいだ、私は、この言葉を、次のように言い換えるようになりました。「イエスは言われた。『心を尽くして、神に甘えなさい。あと、それと同じくらい大事なのが、人に甘えなさい』」。さきほどの土居の言葉を思い出していただければ、神に甘えるとは、つまり、祈りのことです。イエスは、それと同じくらい、人に甘えるのも大事だと言いました。そのように私は受け止めております。律法学者から「どの掟が最も重要でしょうか」と聞かれたのに、「第二も、これと同じように重要である」と言いながら、2つ挙げたイエスの真意が明らかになりました。

〇聖書に出てくるあつかましい人たち

 聖書には、あつかましい人がたくさん出てきます。たとえば盲人バルティマイ。(マルコによる福音書10章46節以下。)彼は盲人の物乞いです。道端で物乞いをしていました。そこへイエス一行が通りかかります。そこで彼は相当の勇気を奮って、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」と叫びます。すると、多くの人が彼を叱って黙らせようとします。(やっぱり「助けて!」って叫ぶと「甘えるな!」って叱られるのね。)私だったら恐れをなして、もう何も言えないかもしれませんが、バルティマイは、ますます声を上げ、「ダビデの子よ、憐れんでください!」と叫び続けます。ものすごいあつかましさです。しかも、イエスに呼ばれて、「先生、目が見えるようになりたいのです!」と言った。もう、とてつもないあつかましさですが、そのあつかましさのゆえに、彼は癒やされ、目が見えるようにしてもらえたのです。甘えた者勝ちです。

 イエスのところに、中風の者(身体麻痺の者)を運んできた4人の友だちがいます(マルコによる福音書2章1節以下)。イエスに癒やしてもらうためです。イエスは家にいました。しかし、イエスの前は混雑していたので、イエスの上あたりの家の屋根をはがして、病人を、床ごと、イエスの前につり降ろしました!なんというあつかましさでしょう(その4人が)。しかし、イエスは、その4人の友だちの信仰を見て、その中風の彼を癒やしてくれました。あつかましい者勝ちです。

 カナンの女というのがまたあつかましい(マタイによる福音書15章21節以下)。これを最後の例にしますが、もう、何回、無視されても、断られても、食い下がって食い下がって、娘の病気を癒やしてもらおうとします。そしてついにイエスは、そのあまりのしつこさを見て、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言って、カナンの女の娘はいやされるという話なのです。ものすごくあつかましい母親の話です。これくらい、あつかましくてよいということを聖書は言おうとしているのではないか。

〇神の甘やかし

 「求めなさい。そうすれば与えられる」という有名なイエスの言葉があります。土居も指摘していますが、これは、神への甘えのイエスによる推奨ではないか。もちろん、神様はなかなか厳しいおかたですから、思うように甘えさせてもらえないということはあります。しかし、上に見て来た聖書の登場人物は、どこまでもあつかましい人ばかりです。じつは、この「求めなさい。そうすれば与えられる」という言葉は、マタイによる福音書では、単独で出てくる言葉なのですが、ルカによる福音書だと、この話の、前の部分があります。どういう話かと言いますと(ルカ11章5節以下)、真夜中に、友だちの家に、パンを3個、貸してくださいと言いに行く人の話です。すると、友だちは、迷惑をかけないでくれ、もう戸は閉めたし、子どもは寝たし、って言うんですが、それでもしつこく頼んでいたら、もう友だちだからという理由ではなく、あつかましいからという理由で起きて来て、なんでも与えてくれるだろうと。「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とイエスの言葉は続きます。もう、むちゃくちゃにあつかましい人のたとえではないですか。真夜中に友だちの家に行って、パンを3個、借りようとする!現代の常識で考えても、とてつもないあつかましさです。しかし、この話に続けて、イエスは「求めなさい。そうすれば与えられる」と言ったのです。視力を求めたバルティマイに、視力が与えられた。イエスにとって「信仰」という言葉は、「あつかましさ」のことだったのではないかと、そんな気もしてきます。しかし、キリスト教信仰というものは、結局、最後は、みんな救ってもらえますよー、とか、ぜんぶゆるしてもらえますよー、とかいうところにありますので、キリスト教とは、結局、壮大な「神の甘やかし」かもしれない、と思ったりもします。

〇イエスの甘え

 イエス自身が甘えている例として、土居も奥田も挙げている例として、ゲツセマネの園のイエスの姿があります。十字架にかかる前の晩、「アバ、父よ(天の父なる神様)、この杯を取り除けてください」と祈ったり、「しかしわたしの思いではなくみこころのままに」と祈ったり、イエスは神に甘えています。ついでに寝ている弟子のペトロたちにも甘えているようです。そして、十字架につけられて、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言った。イエスは神に甘えています。(甘えさせてもらえてないとも言えますけど。)イエスは神にぐちを述べているのです。

〇「天は自ら助くる者を助く」?

 キリスト教信仰のひとつとして、「ゆだねる」というものがあります。人間には自分で自分のこともどうにもならない。神様にお任せするという意味ですが、2年前のダウンのとき、クリスチャンでない(そしてキリスト教精神も持っていない)父や母の前で「ゆだねる」「ゆだねる」と自分に言い聞かせていたら、(父は「そんな、なんでもゆだねちゃって、自分で努力をしなくなったら、人間はダメなのだ!」というような父ですが、)父は「『天は自ら助くる者を助く』というのは、聖書の言葉ではないのか?」と聞いてきました。聖書の言葉ではないので、とっさに「聖書の言葉ではない」と答えましたが、じゃあ何が出典なのだ?と聞かれて、答えられませんでした。くやしくて、のちに大きな図書館まで行って、調べたところ、19世紀イギリスの「自助論」という本が出典であることがわかりました。のちに奥田牧師がこれとまったく同じ話を礼拝でするということがありましたが、奥田牧師も、出典は「自助論」だと言っていました。しかし、土居健郎の『「甘え」の構造』によると、もっと古い、1640年の出典が出てきます。(土居がこの言葉を論じているのは、わかりますね。「甘え」の正反対みたいな言葉だからです。)とにかく、この「天は自ら助くる者を助く」という言葉は、およそ聖書に出て来そうにない言葉だということも言えます。しかし、いまや、総理大臣まで、「まず自助」と言っています。そんな、自分で自分が助けられるのだったら、神様も隣人も、いらないじゃないですか。ぜんぶ自分でやったらよい。

「まず自助」の話を出しましたので、共助の話も出しますね。よくいろいろなところに支援を受けに行って言われるのが、「まずご夫婦でよく話し合って」というせりふです。しかし、これを言われるとなかなかまいります。夫婦で話し合うって、すごく難しいから。これは、自分たち家族でなんとかしろという、「共助」ではないのか。7年くらい前、「伊藤塾」で有名な、弁護士の伊藤真さんの講演を聴きました。そのころ自民党は与党に戻っていて、自民党憲法改正草案の話題になっていました。不勉強な私は、そのころからその草案は変わっていないのか、よく知りませんが、とにかくそのとき、伊藤さんは、草案によれば「家族は互いに助け合わなければならない」という文言が加わると言っていました。これこそまさに共助で、「自分たち家族でなんとかしろ」。伊藤さんは、福祉をけずるつもりだろうとおっしゃっていました。

〇自分で自分は救えない。だれかに助けてもらわないと生きていけない

 話を戻しますが、自分で自分は救えないのです。自分で自分を励まそうとしても、効果がないではないですか。人から励ましてもらえると励まされますね。逆に、自分が絶望のただ中にいるときでも、ひとを励ますことができることもあります。自分で自分をくすぐってもくすぐったくないですね。ひとからくすぐられると、くすぐったいです。自分のことはさておきひとの心配をするのもそうです。自分のほうがよっぽど心配な状況なのに、ひとの心配をしています。そして、それが、自分の心の平安になったりまでしています。「まずは自分から」ってよく言われますが、じつは、自分のことがいちばんできないのです。よく「医者の不養生」と言います。よく私はそれと並べて、「牧師の不信心」と「教師の不勉強」を挙げていました。最初は、揶揄するつもりで言っていたのですが、もはや、そういう意味ではなく、これが人間のいつわらざる姿なのだ、と思うようになりました。イエスも、ひとの病気や障害はたくさん治しましたが、自分では十字架から降りてこられないではないですか。あれ、イエスさまが本気を出せば、十字架から降りられたと思っている人も多いみたいですが、最近の私は確信しています。あれは、イエスは、ほんとうに、十字架から、降りられなかったのです!

〇現代日本社会でなぜキリスト教は低迷しているのか

 最後に、あまり宗教に興味のないかたには、どうでもいいかもしれない話題をひとつ、書きます。じつは、宗教界では、有名な、深刻な話題です。現代日本社会で、キリスト教が、衰退しているのです。教会は超高齢化し、若い人は来ません。ずいぶん前から言われている、「教会存亡の危機」です。(仏教や神道でも同じようなことがあるのかもしれませんが、よく知らないので、口出しするのはやめますね。)いろいろな人が、いろいろな意見を言っていますが、私には私の意見があります。土居健郎は、何十年か前の文章で、ヨーロッパでは、自主独立を重んじ、他者に依存すること(=「甘え」)を排除してきたことを書いています。そして、土居が鋭く指摘するように、お祈りは神様に甘えることですから、甘えのゆるされない社会では、祈ることすらできないのです。土居は、ヨーロッパでキリスト教が下降線なのは、これと無関係ではないだろうと言っています。私は、これが、何十年か遅れで、日本でも起きているのだろうと思います。こんなに日本は、甘えのゆるされない、ひとりひとりが孤立した国になってしまいました。祈りとは、甘えです。日本社会から宗教が消えそうになっていることは、ある意味で当然ではないでしょうか。

〇終わりに

 最後になります。私はかつて教員でしたが、いまは教員ではありません。しかし、いまの若い人に伝えたいことはあります。いまの私から、児童・生徒のみなさん、先生のみなさん、保護者のみなさん、多くのみなさんに言いたいことは、ひとつです。

 もっと甘えましょう!神に甘え、人に甘えましょう!ぐちも言いましょう!困ったときは助けてもらいましょう!厳しいことを言ってくる人はきっといるでしょうが、ほんとうに助けてくれる人もまた、きっといます!

 あ、もうひとつ、言いますね。私も困ったら「助けて」って言いますので、そのときは私を助けてくださいね。(ていうか、今、困っています。だれか助けて!)

 ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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