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誰にも会いたくないけれど日常はあるわけで。

街でママ友のような知り合いを見かけて、私の中の何かが発動して、何だかとてもこの街から逃げ出したくなる。
いたたまれない気持ちを引きずりながら半ばほふく前進で自宅に帰っても、不安定な息子がふたりひきこもっているという我が家に気が沈むけど、今はここに無理やりに憩いを見つける。

しかしまあ人生はなかなかうまくいかない、と捨て鉢の気持ちになる。自分のことなら自分で何とかするけれど、息子の人生のように、自分ではどうにもならないことに、悩んでも仕方のないことに気がつけば悩んでいる。 
全部私のせいなのだろうか、とまた自分を責めたくもなり、きっとそうなのだろう。私が全部悪いんだろう、とっくに認めているのだけれど、認めても認めても、いたたまれなさが拭えない。


、、、みたいな気持ちが、ママ友のような知り合いをみると、ドバーッと出てくる。要するに、うらやましいんだろう。普通に見えるものが。

みんなそれぞれにいろいろありながらやってんだぞ、と頭ではわかりながら、わかるけれど、親子で楽しそうに歩く、その一瞬にさえうらやましいと思ってしまうことが毎度苦しさを生んでいる。

息子も楽しそうに歩いてほしい、と思ってしまう。
家の中で苦しんでいる息子を見ていることがつらい。
助けてあげられないことに、無力感を感じてしまう。


ただそれだけ。



そして日々町内でくるしい。学校で苦しい。狭い世界で苦しい。一人で勝手に苦しくなっている。

それでも日常は続くわけで。誰にも会いたくないけれど、ゴミの日とか、当番とか、普通に来ることの当たり前への負荷が大きくて、ひとりでにとても疲れてしまう。


だからこそ、もっともっと、自分の思考を広げて、価値観を広げて、意識だけでもここではないどこかへ。

どうだっていいじゃないかって。

何とかなるんだからって。





と。

時々泣きたくなりながらの子育ては続く。












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