別人格。
不登校の息子たちと私は、親子といえども全くの別人格であることを、毎日まざまざと見せつけられている。その度にがく然としてしまうということは、少しでも私の中に、息子たちとわかり合える何かを期待していた、ということかもしれない。
最近、親と子は全くもって別の人格だという当たり前を受け入れられる出来事が重なり、あーなるほどそうだったそうだった、と握りしめていた執着みたいなものをまたひとつ、はらりと手放したところだった。
家族と自分は別人格であるという自覚は、距離感の目測を誤りやすい私にとって、ほっとすることでもあるな、と思った。
どちらが合っているとか、間違っているとか、それでいいとか悪いとか、そういうこととは全く関係ないところから見て、ただただ感じ方の違いがあるだけなんだなと。親子といえどもみな、同じ家に暮らしながら全く違う人格なのだ、と当たり前のことを改めて思ったことで、何だかちょっと、気持ちがスーっと楽になった。
ただ違いがあるだけだとしたら、 息子の性質や今の暮らしに、私が絶望するようなことではないのかもしれないと、ふっと一瞬気持ちが軽くなるような気がした。
頭を悩ます日々のことも、自らの手の及ばない、神の領域のことなのだとしたら、不登校の息子たちについての過度な心配を少し手放していいと思えそう。
ただただ違いを認める、とは難しい。相手が間違っているように見えて、正しさを求めたくなるから。そして、そもそも不登校はひとつの在り方で、間違いではないと思う。
私達家族は、日々のこまごまに自分や相手を知りながら、そこには違いがあることだけを理解しながら、だんだんだんだん離れていくことができたらいいと思った。
子供の感受性さえ親の所有物ではないから、そのいちいちの違和感に責任を感じすぎなくていいのかもしれない。
自立の仕方にこだわりを持たない我が家の不登校の子育ては、まだまだ模索中だけれども、少しずつ少しずつ見えない出口に近付きたい。
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