モスクワに留学していたら戦争が始まった話-2
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冒頭の筆者プロフィールは無料で読むことができるので、前回『モスクワに留学していたら戦争が始まった話-1』を未読の方はその部分だけでも読んでいただきたい。
旅のはじまり—ヘルシンキにて
2022年1月24日。2年ぶりとなる海外での夜は、フィンランドの首都・ヘルシンキで迎えることとなった。翌日にはこの先7ヶ月間の住処となるモスクワへと旅たつ、この街は経由地であった。本来なら高揚感と疲労感の間で眠りにつくのが自然なところであるが、一抹の不安を抱きながらベッドの毛布に包まっていた。外務省の安全情報から気にかかるメールが配信されたからだ。
ロシア軍がウクライナとの国境地帯に兵力を集結させる中、日本国外務省がウクライナの危険レベルを3(渡航中止勧告/速やかな出国を推奨)に指定したのだ。この指定を受けて、実際に在ロシア日本国大使館から配信された安全情報メールの内容を以下に引用する。
つまるところ「平和的外交手段でなんとかしてみるけどロシア軍が侵攻してくる可能性が高まってきたから、比較的容易に逃げられる今のうちに逃げてくれ」というわけだ。いよいよ洒落にならなくなってきたのだろうか、というのが当時の第一印象だ。
ロシア軍による侵略の可能性は2021年秋頃から散々取り沙汰されていたことだ。私がロシアへと旅立つにあたって、別れを告げに会った親戚・友人たちの全てが兵力集結の話題を出した。ロシア軍が侵攻を行う合理性が全くない一方で、事実として国境地帯に集結する兵力は異様であり、「本当にロシア・ウクライナは大丈夫なのか?」という疑問や不安が湧くことは至って自然なことだろう。
当時の私は何よりも、ロシアに入る前に戦争が始まってしまうことが怖かった。ロシアに入ることすらできずに、留学が始まってすらいないのに全てが終わってしまうのはあまりにも辛いことだからだ。だから私はなるべく早急に渡航ができるように、「感染症対策」を盾にする相手先の大学や仲介者と交渉し、渡航のわずか3日前になんとかビザを受け取ったのだ。ここヘルシンキまで来て「戦争が始まったのでロシアには入国できません」というのはシャレにならないのである。一部の軍事ウォッチャーは「今夜がヤマかもしれない」と呟いており、信憑性のほどは不明ながらも不安は高まるばかりだった。
正直、あまり正常な思考ではないと思う。成田を飛び立った後にフィンエアーの機内Wi-Fiに繋げた時、「パンデミック&開戦前夜、何もこんな時に行くか!とは思うけど、余程行きたかったんやね」というLINEが母親から飛んで来た。寛容というよりかは諦めの境地に達しているのだとは思うが、とにかく「何もこんな時に行くか!」というのは正論だ。留学が台無しになっても、滞在中に戦争が始まってしまうことの方が余程リスキーなことであり、安全最優先という観点では「面倒ごとに巻き込まれなくてよかったね」という考えで落ちつくことだろう。実際に「2021年からきな臭かったんだから、緊急帰国になったことも自己責任だと思う」と言われたこともある。
それでも私はロシアに行きたかった。異様な状況とはいえ、逆に「100%始まる」とも断言できない軍事侵攻である。そんな不確定かつ理不尽な理由で、時間をかけて準備してきた、そしてパンデミックで2年以上縛られてきた渡航を手放すことなどできるわけがない。これは何も私に限らず、あの時あのタイミングでロシアに渡航した留学生たちはきっとどこか同じ思いを持っていたはずだ。
もちろん「自己責任」というのは個人で海外に飛ぶ以上、避けては通れない責務である。その上で、専門家ですら判断に苦悩した軍事侵攻を結果論で語り、留学生たちが抱えていた背景をさほど考慮せずに「自己責任」の一言で片付けられる明快さには尊敬の念を抱かずにはいられない。ぜひとも、このような視点も多角的に取り入れていきたいものだ。
不安はあれども、ヘルシンキの宿は快適だった。中央駅からもさほど遠くなく、部屋は清潔で、十分な広さもある。セントラルヒーティングの心地よい熱と、身体に残った飛行機の振動に包まれながら眠りについた。
愛するモスクワへ
朝9時半。ヘルシンキにようやっと朝の光が訪れた。モスクワより少し緯度が高いということも大いに関係しているだろうが、ここまで朝が遅いようではこの先の生活が少し思いやられる。
結論から言うと、戦争はまだ始まらなかった。つつがなく出国審査を済ませ、モスクワ行きの飛行機に乗り込む。小さなプロペラ機は融雪剤をたっぷりと浴びてから滑走路に向かい、ふわりと飛び立つ。エストニア上空を経由してモスクワを目指すようで、窓からはまだ頼りなさげな太陽と共にフィンランド湾の複雑な地形が見えた。
飛行は極めて安定していた。特に大きな揺れもなく、2時間ほどのフライトでモスクワ・シェレメチェヴォ国際空港に降り立った。2年5ヶ月ぶり、3度目のことだった。
ロシアの入国審査は相変わらず無愛想で、係官の視線は鋭い。暇そうにしていた税関も、そのまま呑気に寛いでいれば良いのになぜか目をつけられてしまい、ポケットの中身を全部出す羽目に。それに対して検疫は非常に緩く、せっかく高い金をかけて取得したPCR検査陰性証明書は一瞥もされなかった。各航空会社のチェックインカウンターで厳格にチェックがなされるので大丈夫、という考えだろうか?
懸念していた戦争の影響を受けることもなく念願のモスクワにやってきたのに、私は随分と冷静だった。嬉しさに泣くことも、飛び跳ねることもない。ただ、想像以上にこの2年間でこの街が変化することなく存在し続けていたことに、深い安心感を覚えていた。
淡々と入寮手続きを済ませてから、事前に約束していた日本人留学生の友人のもとに向かう。と、その前にどうしても寄りたい場所があった。湿った生ぬるい地下鉄駅の轟音に早速うんざりしつつ、一方で懐かしさを感じながらモスクワ中心部の北側を目指す。辿り着いたのはメンデレーエフスカヤ駅で、まさしく元素周期表で知られるロシア人科学者メンデレーエフの名前を冠した駅だ。そこから駅構内の乗り換え通路を上り下りすると———ステンドグラスが美しいノヴォスラボツカヤ駅のプラットホームに抜けることができる。モスクワで最も好きだと思える地下鉄駅で、ついにこの街にやって来たのだということを静かに噛み締めたかったのだ。たまらない幸せだった。
友人とは中心部の駅で合流した。彼は2021年秋からモスクワに留学しており、その日は「せっかくロシアにやってきた日だから」ということで、ロシア風の水餃子であるペリメニ専門店に連れて行ってくれた。
留学の初日とあって様々なアドバイスを貰ったのだが、ふと国境付近への兵力集結の話題になった。あまり露骨に国家元首の名前を出して政権批判をするのは流石に控えるべきものではあっても、これくらいのことなら日本語ということもあって特に気にせずすることができた。後にも語ることになるとは思うが、「特別軍事作戦」が開始され継続していること自体はロシアでも包み隠さず報道されている。
友人としては侵攻に対しては懐疑的だった。後述するが、このモスクワに流れる平和な空気感の中で生きていれば無理もない。尚更、当事者国に住んでいるわけだから実感を伴ってその懐疑を裏付けることができるだろう。
ペリメニ屋を出て地下鉄駅を目指そうとする。当日は入寮初日ということもあって、早々と寮の近所にあるショッピングモールで生活必需品を買い揃えたかったのだ。しかし友人はこれまた「せっかくだから」と、赤の広場を通って行かないかと提案してくれた。確かにショッピングモールの閉店時間までまだ余裕はあるし、ここから赤の広場は目と鼻の先。何よりせっかくの初日なのだから、あの場所くらいは踏みしめておかないといけない。
赤の広場は相変わらず愉快な場所だった。正教のクリスマスである1月7日からは2週間以上が経つというのに、まだまだクリスマスマーケットが賑わっている。クレムリンと聖ワシリイ大聖堂、グム百貨店が織りなす光景はロマンチックで、裏手にチラリと姿を見せる煙突たちがモスクワの混沌さを一層引き立てる。
この瞬間もまた、たまらない幸せだった。なおさら横に友人もいるので、多少飛び跳ねていても不審者にはならない。ノヴォスラボツカヤに降り立った時よりも感情を表に出して、小躍りになりながら石畳の上を進んだ。
こんばんは、モスクワ。これからよろしく。ロマンと夢に溢れる日々が、いよいよ始まった。
払拭できない疑念
日常は全て平穏に過ぎていった。国境地帯の不穏な情報は逐一入っていたが、直ちにこちらに影響が及ぶことを示す確実な情報も、モスクワの街中で感じられる異変も何もなかったのである。なるほどこれは友人から聞いた通り、開戦の予想を疑いたくもなる。
毎日が幸せ、というのは流石に美化しすぎだろうか。汚れが詰まって暴発する水道管やボコボコの道にうんざりし、片言のロシア語で銀行口座をやっとの思いで開設し、微妙に物価の高いモスクワの外食を避けて毎度毎度鍋で米を炊き、喉を壊して薬局に行き、防寒のためにいちいち手間をかけて装備を準備し、オンライン授業が対面授業に移行する気配もないので昼間は部屋に篭り続きで、朝はいつまでも暗くいつまでも眠く、突然部屋の電球が破裂し、管理室にいる寮の怖〜いマダムのもとに赴き……とにかく毎日がサバイバルだった。それでもモスクワは刺激的な街で、退屈することは一切なく、やはり総括としては「楽しい日々」と評することができよう。
では、開戦するまで一切何の予兆も肌で感じることはなかったのか?というとそれは決して違う。
まず「直接こちらに危害が直接及ぶような情報」は入って来なかったというのは先述の通りだが、やはり国境付近の様子はかなり不穏なようで、軍事評論家たちの見解も厳しいものが続いていた。そんな中で「侵攻などありえない」という意見の人々も一定数存在し、Twitter上では侵攻の可能性について議論が見られるようになった。ただ、軍事評論家・専門家・国際政治学者たちに「侵攻するのかしないのかどっちなのかはっきりしろ」と詰め寄る一部のTwitterユーザーたちには閉口した。専門家は未来予知者やイタコではないのに、どうして未来に起きることが断言できようか。真に信頼できる学者こそ、神のみぞ知る未来に起きることを断言するはずがないのだ。
一方、私個人の中で「ロシアは本当にウクライナに侵攻するのか」という疑問がどのように動いたか、その結論を最初に述べておくならば、これは侵攻開始のその瞬間まで続くことになる。2月上旬から2月24日の未明にかけて、不穏な情報は一層の生々しさを伴って徐々に増加していった。正直「何しらの軍事行動は起きるかもしれない」というのが私の意見だった。それでもなお、私の中には「本当にロシアはウクライナに侵攻するのか」という合理性のなさに対する疑問と、「どうか侵攻しないでくれ」という願望が渦巻いていた。戦争が始まってしまった時に茫然自失になりながら思ったのは「まさか、本当にやるなんて」ということだった。「何かしら起きるかもしれない」という覚悟じみた考えも、実際には疑念に塗れた、杞憂に終わるはずのものであったのだ。
侵攻開始まで、個人的に感じた事態の大きな変化は数段階に分けることができるだろう。やはり客観的に見れば段階を追うごとに事態が深刻化していたことは間違いないし、私の中での懸念も大きくなっていった。その上で、モスクワで目に見える範囲の光景は平穏な日常そのものであり、平和的解決という願望を孕んだ私の疑念は開戦の瞬間まで続くということにご留意願いたい。
軍用列車
まずは、私が実際に直接目撃した最初で最後の「具体的な予兆」について語ろうと思う。地方都市で見た「運ばれる軍人たち」の姿だ。
2月6日、私はアルハンゲリスクを経由して地方都市チェレポヴェツにやってきた。ここはモスクワから北に約500キロのところにある街で、特に目立った観光地があるわけでもない落ち着いた雰囲気の都市だ。なぜこんなところに来たのかというと、週末旅行に寝台列車の旅をするのにはちょうどよかったからという適当な理由である。「名前がなんかかっこいいから」「寝台列車で昼寝がしたいから」という理由でアルハンゲリスクをまず行き先に選んだのだが、ここでモスクワにそのまま帰るのもつまらない。そんな時にチェレポヴェツを経由地にすると乗り継ぎ上ちょうどいいことが分かり、ここを目的地に追加した次第だ。今考えると、これも何かの縁があったのかもしれない。
チェレポヴェツでは郷土史博物館やカフェ、安食堂などを回りながら暇を潰していた。アルハンゲリスクには大規模ショッピングモールがあったのだが、この街にはそんなものはない。しかし、ロシア地方都市にある郷土史博物館は総じて外れがないので暇つぶしには最適である。
その日は街中で軍人の姿を目にすることが多かった。制服軍人が街を歩いているのは日本ならば駐屯地のほんの近辺でしか見られない光景かもしれないが、別にロシアでは珍しいものではない。少々よく見かける日があっても、「まあそういう日もあるだろう」という程度気に留めるくらいだ。ちょうどその日は日曜日だったので、きっと休暇を楽しんでいるのだろうとその瞬間は考えていた。
印象的だったのは、スーパーで前に並んでいた軍人が万引きを疑われて「ポケットにあるものを見せろ」とレジ係に促されていたことだ。ポケットの中身は軍人の私物で、それを見たレジ係も素直に「すまんかった」と謝っていたが、相手が軍人であっても躊躇わずに疑念をぶつけるレジ係の姿が興味深かった。もっとも、「手ぐせの悪い軍人たち」が多くて普段から悩まされているという可能性もなきにしもあらずだが。
モスクワへ戻るために市街地からチェレポヴェツ駅まで夜道を歩く。駅前まで辿り着いたところで、駅の脇にあるゲートに軍用トラックが入っていくのが見えた。ゲートをチラリと見るとロシア連邦軍の紋章があり、何かしらの軍事施設であることが分かったが、この時点では何かしら特異なことであるとは全く捉えていなかった。
駅で列車を待つ間、私は事態の切迫度について考え続けていた。入ってくる情報の深刻さは理解できる一方で、このロシアに広がる呑気な空気感では侵略戦争の可能性について「そんなのは西側が煽っているだけだ!」という意見を持つ人の考えも、正直かなりの部分まで理解することができた。もちろんロシアは広大な国で、特にウクライナ国境部となるとそうもいかないかもしれない。しかし国防的に最重要であろう首都にきな臭い雰囲気が一切漂っていないとなれば、東に果てしなく広がる地域とて同じようなものだろう。この状況下で開戦を確信することはかなり難しいことであった。
第一、戦争の雰囲気を首都で感じていたらこんな悠長なことしてられないはずだ。もしそんな日が来るとしたら、外務省の海外安全ホームページではきっとウクライナが赤(レベル4:退避勧告)、ロシアも一部地域がオレンジ(レベル3:渡航中止勧告)に塗られているはず——このような文章が当時チェレポヴェツ駅で列車を待ちながら書いた私のメモに残っていた。メモはさらに「戦争が起きても起きなくても「まあ、そうだな」としかもはや思わないかもしれない」「きっと万が一始まった時は何気なく開いたTwitterで、日本語ソースで知ることになるんだろうなと思っている」というような文が記されている。
鋭い考察、というほど考え込まれた文章ではないが、ある程度その後の核心を突いた文章であったために見返した際には我ながらゾクリとしたものだ。このメモを書いたほんの直後にウクライナはレベル4、ロシアも4週間以内にレベル3に引き上げられた。開戦の事実についても本当にTwitterの日本語ソースで知ることとなる。ただ同時に、この時はまだ開戦への覚悟がさほど固まっていないということもまたよくわかる。2月24日朝のTwitterは「もしかしたら始まっているかもな」と思って開いたもので、戦争が起きた時の衝撃は「まあそうかもな」では済まなかった。侵略戦争というあまりにも大きな未来の実態を捉えられない状況下で、諦念じみたものを感じていたのだと思う。
何より皮肉なのは、戦争開始への実感を覚える大きな出来事がこのメモを記した1時間後に起きるということだ。未来のことなど、たとえ数分後のことであろうとも知る由はないという至極当たり前のことではあるのだが。
発車時刻が近づいたので、ホームに出る。駅舎の目の前に列車が停まっているので利便性は非常に高い。そそくさと3等車に乗り込んで荷物を置き、寝巻用のジャージを取り出すとトイレに向かった。モスクワまでの所要時間は8時間ほど、明日は朝に授業があるので早々と寝支度を整えなければならない。着替えと歯磨きを済ませた時には発車数分前になっていた。
ここでふと窓の外を見る。暗闇の中で、向かいの線路には貨物列車が停車している。積荷はコンテナではなく——軍用車両だった。窓から見える範囲で軍用トラックらしきものが貨車に載せられている。
時期が時期であるため、非常に異様だった。街中で見かけた軍人たちや駅の脇に入っていく軍用トラックの姿が蘇る。国境地帯に集結する軍用列車の姿はTwitterで散々見かけたが、目の前にいる列車もその1つとなるかもしれないのだ。
それにしても列車の姿は隠す気もなく堂々としている。本当に機密事項にしたいのなら旅客列車の真横には停車させないだろうから、「見てすぐさま拘束される」というリスクの心配はしていなかった。先述の通り軍用列車の姿は散々SNS上に投稿されているし、ロシア側としてもあくまで「演習」と言い張っているようなので軍事輸送自体を秘匿する気はさほどないと推察したからだ。そうであっても、撮影は開放寝台である3等車であることを考慮したうえで控えることにした。個室で私一人という状況であったならば部屋の電気を完全に落とした上で隠し撮りをしたかもしれないが、いくらなんでも周囲の目がある状況で軍用列車を撮影するのは危険だ。
列車は定刻でチェレポヴェツ駅をゆっくりと発車した。速度はしばらく上がらなかったため、貨車の両数をカウントする。作戦車両は30両ほどで、私に軍事知識は皆無であるため詳細は分からないが、輸送車らしきもの、タンク車らしきものが載っている。戦車らしきものは見当たらない。停車中に観察したところ、乗車中の列車の進行方向とは反対側にあたる後ろ側にも貨車はまだ続いていたので、更に多くの車両が積載されていたはずだ。連結されていたのは作戦車両だけではない。軍事輸送と関係あるのかどうかはわからないが、数両ほど有蓋貨車が連結されていた。
そして1番衝撃を受けたのは(観測できた)編成の中ほどにロシア鉄道の2等客車が3両連結されていたことだ。もちろんただの貨客混結ではない、乗り込んでいるのは全て軍人だ。ゆっくりと自分が乗っている列車が加速していく中で、客車に乗り込んでいる若い兵士たちの様子はじつによく見えた。コンパートメントで仲間たちと窮屈そうに上着を着替え、乗車口では家族らしき人々が数人見送りに来ている。
そしてついに列車の先頭が見えてきた。機関車が付いていたのはやはりモスクワ方、すなわち国境を向いていた。
直感的に「これはとんでもないものを見てしまった」ということが分かった。ただの演習で、わざわざこの地方都市からこれだけの軍用列車を仕立てるだろうか?仕立てたとして、家族が見送りに来るだろうか? やはりどうにも異様だった。さすがに背筋が寒くなり、この不気味な居心地の悪さをどこかに共有したくなったが、Twitterは誰が見ているか分からない。「このことを文字に残してインターネットの海に流すのは日本に帰ってきてから」と心に決め、眠りについた。旅の疲れもあって、すぐに深い眠りへと落ちた。
朝、車掌が通りかかった時に紅茶を注文する。普通の寝台列車ならば車掌室まで取りに行くのだが、これはロシア鉄道の中でもワンランク上のブランド列車。物腰柔らかに車掌が「持ってくるから、ここで待っていて」と言ってくれた。そのサービス料もあってか数ルーブルばかり他の列車よりも値が張ったのだが、それくらいは許容範囲だ。紅茶をすすりながら甘いキャラメルウエハースを齧る。窓の外には白銀のモスクワ郊外、なんと贅沢な朝だろう。周りの寝台はまだまだ眠っている人の姿が目立つ。そんな平和な日常風景の中で、昨日の就寝前に見た光景を思い返していた。
やはり「これは多分、本当に何かが始まってしまうのだろう」と確信した瞬間はその時だったと思う。何度も言っている通り、「予想」や「確信」があったところで、開戦で私が受けた衝撃は極めて苛烈だった。これはこの先事態が静かに、かつ急激に深刻化していく中でも変わらないことだ。今般の侵攻はそれほどにスケールの大きな事象なのである。
兎にも角にも、この軍用列車の目撃は「演習」というロシア政府の声明に強い疑念を抱く大きなきっかけになった。開戦までの間に直接会った日本人留学生の友人には、この経験を例に出して「もしかしたら何かが起きるかもしれない」と語ったものだ。この時点で開戦まで残り17日。不穏な情報を伴った平和で呑気な日々は、もうしばらく続くこととなる。
↓次回 サンクトペテルブルクでの記録(2月11日)
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